言葉という道具として英語を見直すと、新しい視野がうまれる。
道具は何かをするためのもので、言葉は表現のための道具だ。とすると、英語を学ぶということが奇妙におもえる。その意味では、英語は学ぶものでなく、使うものという考え方は正しいと思う。
英語は道具と考えると、その取り扱い説明書が欲しい。文法はそれに似て非なるものだ。日本語にもそれはない。日本語は直接、口移しでならったから、必要なかった。で、言葉の取り扱い説明書というものはない。それは、言葉が道具という発想がなかったからと思われる。
日本人が、ただ日本語を使っている限り、言葉が道具ということは思いつかない。自然にそなわったもので、自分の一部に思え、自分ときりはなせないから。道具と思うきっかけがない。外国語をしって、ようやく言葉を客観的にみることができる。日本人にとっては英語が、その外国語だ。英語を学ぶことは、言葉を客観的に考える機会でもある。いいかえると、英語を学ぶとは、言葉とは何かを、初めて学ぶことと思う。そうあるべきと思う。しかし、現実はそうならなかった。いまも、そうなっていない。 言葉の取り扱い説明書がない理由と思う。
黒石が隅に置かれた場面。白も隅に打つことで勢力が拮抗します。勢力の拮抗を保っていくことが囲碁の基本と思います。相手は最善手を打ってくることを前提にした考えかたです。
で、白も隅を打ちます。対角線側に打たれるのが多いです。最も拮抗して見えますから。しかし勢力の拮抗の点では、隣の隅、相手と同じ線上も同じです。
対角線側に打つ意味は、互いの石が平行になる布石を選ぶということです。隣にうつと、平行の布石にするか、対角線の布石にするかは、黒が選択することになります。対角線の布石は、どちらかというと、戦いになり安いといわれます。
つまり2手目を対角線以外の隅に打つことは、穏やかな布石を選ばないで、相手に、どちらでもやりますよ。と宣言することになります。それが是か非か?囲碁は心理戦でもあります。