時の流れはとまることなし。


刻々と時間を刻み、そんな中、私たちは、過ぎ去って行く時間を忘れて、時を大切にしないままに過ごしているのではないでしょうか。


今日がある 明日がある 昨日があった


昨日があったことは確かであります。


ただ、今日がある というのは、今があるとするならば確かではありますが、今このあと、24時とまでなると、これは確かではない。


明日はなおのこと確かではないのです。


ですが、まだまだ続く人生を信じ、今このひとときに懸命に生きられない私たち・・・


本当に悲しいことでありますね。


今を生きる ただこれしかないと思っていても、瞬時に、明日のことを思う私がここにいます。


確かでない明日を思い、何をしているのでありましょうか。


確かなこの今、このひとときに、全身全霊を注ぎこめるようにできないものでありましょうか。


何のために、今を生きているのでしょうか。


たまわったいのち、自分のものにしてしまっているのではないでしょうか。


この現実、本当に悲しいことでありますね。


今この瞬間に何を思うか。


何を願うか。


何を信じるか。


この世の中、私を含め、偽 ばかりです。


立場で関係をつくり、昔の日本独特の、心と心で紡いできた関係というものがなくなってきています。


何も必要ない、そんなこの身ひとつで紡ぐ心と心の関係を皆さんはお持ちですか?


立場がなくなって、肩書きがなくなって、何もなくなった自分を支えて下さる、ともにこの世を生きる同志という関係を築いていらっしゃいますか?


どれだけ慕おうと、人間関係というものは、瞬時にして消え去ってしまいます。


ともにしてきた時間が瞬時に消え去ってしまうのです。


本当に悲しいことでありますね。


ですが、これが、現実事実というものなのですね。


この世、というものの、私たち人間というものの、本性なのですね。

 

損得でしか、測れない。


自分の満足を阻害するものは、消し去る。


これが人間の正体なのですね。


そんな人間である以上、間違いを常に起こす身であることの自覚。


考えた瞬間から、自分を疑ってみる必要があるということの自覚。


自分を正ととし、他を偽とするのではなく、他とともに又わが身も偽であるということを自覚すべきでありますね。




仏法をあるじとし、世間を客人とせよ。




常に仏に聞きたずねる身で在る自覚を、今一度、思いみつめてゆきたいと思います。


他を考える間をもなし。


わが身の罪ある身という自覚を、思わせていただきたいと思います。


たずねるは、仏、そして、宗祖親鸞聖人の生ききった御姿でありますね。



今日も清々しい朝でありますね!



南無阿弥陀仏。













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秋風に 乗って聴こえる お念仏


南無阿弥陀仏と 身が響く



あぁ この出遇いこそ あり難い


なんまんだぶつ なまんだぶ



今ここ この身に 念仏生きる


こんな私の為にある



南無阿弥陀仏に 生きる道


真実どこにある?という


真実きくは お念仏



ともに生きよう 手を伸べて


ともに歩こう 手を繋ぎ


ともに悩もう 肩を抱き



一人がゆえに 孤独じゃない



南無阿弥陀仏が 私を運ぶ


みんなの笑顔が そこにある



あぁこの出遇いこそ あり難い


なんまんだぶつ なまんだぶ



今ここ この身に 念仏生きる



こんな私の為にある



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ふっと体に沸いてきて、こんな詩を書いてみました。


人生いろんなことがあり、裏切り裏切られ、傷つけ傷つき、

犯罪とならない殺人は、この世の中、たくさん在るな~と感じます。


言葉や行為を軽々しく過ごしている私たち。

他人を傷つけていませんか?

言葉で、行為で、人を殺していませんか?


私ごとですが、よくしてしまっているんです。

感情が突発的に出る性格ですから、よく人を傷つけ、

犯罪にならない心の殺人を犯しています。


なんと恐ろしいことでしょうか。


そう気づきながらも、また犯す。


殺人は、死に追い込むことだけではない。

そのことを、今日もまた、改めて、お念仏申し、思わせて頂いております。


腹立ちではなく、ありがたさが今この胸にあります。


どんなご縁であろうと、また、教えていただいた。

本当に腹たつことも、お念仏に自分をたずねてみれば、

自分の間違いに気付き、頭がさがるわけであります。


こんなどうしようもない私だからこそ、お念仏しかないのです。


そして、お念仏、南無阿弥陀仏が私を助けてくれるのです。

支えてくれるのです。育ててくれるのです。


時に腹立たしい時も、お念仏もうし、仏の前に座ると、

自分のいたら無さを、まじまじとお教え下さるのです。


他人中心では、他人のせいになります。

私中心に、今起こっている問題を見て、仏様にお尋ねしていく。

他人も自分も信用ならんものなんであります。


阿弥陀さま、そして、親鸞聖人の生きたすがたに、お聴きし、

自分の考え、在り方、過ごし方を問うていくこと。


こんな私も、お念仏に助けられています。


足もふらつき、杖がないとたてない私の、

大きな支えがお念仏です。


仏法は、こんなどうしようもない私の為にあると心に感じます。


そして今日も、自分を問いながら、この人生歩みたいと思っています。


南無阿弥陀仏に生きる、そんな人生を送りたいです。







仏の教えがわからない私ではない。


仏様の言っていること解ります、私。


そんな立ち位置で、真実の仏の御心がいただけるはずがありません。


…そう思っても、私の立ち位置は、私は出来る子、良い子であり…


情けないとおもいつつも、もうすでにその瞬間、自分を憐れんで満足している私がいます…


自分を守ることしかできない私で良いはずがありません。




阿弥陀さまの御心を、素直にいただける私であるならば、

五劫もの時間、どうしたら、人間が救われるのかと思い願われた阿弥陀さま。


その広く深い願いはありませんでしょう。



本当にどうしようもならん、考えても考えても、

自分の満足を得る為にしか生きられない人間


自分を守ることしかできない人間


勝手都合ばかりを優先する人間


罪悪深重の凡夫と自身をもそう言いきった宗祖親鸞聖人



聞かねば、聞き続けなければ、いっこうに解ることのできない私であるのに、

阿弥陀さまの教え、親鸞聖人の教えをも、手づかみにし、自分の思いと混同し、

自分に都合よく理解し、解ったような気でいる私…



嘘も真実も手づかみにする私…



抱きかかえ、食ってしまう…



自分中心でしか生きるすべを知らない私がここにあり…



でも、だけれども、いつも手を差し伸べて下さっている阿弥陀さま。


ともに歩もうと、御同朋、御同行と親鸞聖人は、おっしゃって下さっている。


周りには、お念仏申して、教えに生かされ、生きる方々もたくさんおられ、



そういう世界に生きている私でもあることを感ずると、


自然と手が合わさります。頭が下がります。



しかし、その瞬間、私にもわかる真実の教えがあると、仏法を手づかみにしている私がいます。



自己防衛ではなく、自己追求だと、前に申しましたが、

自己追求→自己解放へとなって行くのでしょう。


解放とは、他からの解放ではなく、嘘偽りの自分というものからの解放なのかもしれません。


自分で縛り覆ってグルグルグルとまるで蚕のように…


いえ、蚕は真っ白な糸ですが、私はまっ黒な糸で自分をグルグル巻いているので、蚕さんと一緒にしてはいけませんねっ。



ですが、自己からの解放…



そうそう、お風呂に入って、「極楽や~」という人間の心理には、


すべて脱ぎ去って、真っ裸で湯の中に身を任せるというところに


苦のない世界を感じているのかもしれないと思うこのごろです。



教えをも我がものにしてしまう私。


聞いている瞬間から、私は解っているという立ち位置で仏法を聞いています。



仏法を利用するな との先輩の御言葉にドキッとします。




南無阿弥陀仏


人間は、生まれ、死んでいくこと、我が力であるように思いこみ、

生死する我が身を、手づかみにしている。


自分の力こそ、最大最強の真実であると、思いこんでいる。


何事に対しても、力なく、嘘偽りの自分であることは、向こう側へ…


私は、決してそんな者ではないと、自分を駆り立てていく…


自分自身でも気づいているであろう、この無力さを…

 

であるにも関わらず、何かにしがみつき、自分の力を信じこもうと必死にしがみつく…


何かにしがみつき…


私人間がしがみついているのは、存在する事のない、ここに在ってほしいと願うものである。




在ってほしいと願うもの→自分の自己満足のため


在るのにみようとせず感じようとしない→真実から目をそむける




何に躍らされ、何に迷っているのか…



私人間が、迷い苦しみ、悩み、もがき、泣き崩れてゆく姿…



自分を哀れであると、抱きかかえてゆく、私の思い…思いこみ…




親鸞聖人は、愚者と自身を言いきっている。



私も、「愚かだな~」と自分を表すけれど、

慰めと愚かだな~ということだ…



おそれ多い話だが、親鸞聖人と、全く違う。




そのことは、今気づいた…



情けないが、出来る人間というところにしか立てない私は、自己防衛するところから始まっている…



ああ・・・・・・・・・・・・・・



自己防衛 ×

自己追求 ○



ちょっとの違いが大きな違い。



闇への道は、自分によって作っていることに改めて気付かされる…



声なき声を聞き、

姿なき姿を真実としていただいていくには、


このまずもって、発生する我が感情を制御せねばならない…


真実をも、闇によって見えなくさせている、恐ろしい私の思い、感情…



闇によって惑わされているのではない。


闇を悪とするのではない。


闇を作っているのは、この私だ…


私がすべてを闇としているんだ…



これまで、闇があるから、私が苦しめられると思っていたけれど、違った…


闇ではなく、私自身が闇をつくり、私自身が闇となって、自己を見えなくさせている…



他のせいにしていた…



納得するところの、大きな間違い…



ああ…



私のみ、真実であると思っている私が私の中にいる…



仏のみ真実であると、聞いて解って、納得しているように思っていたけれど、そんな出来の良い私ではないはずであった…



そう、私が考えることは、私の闇によって考え出されている勝手都合のよいものであるのだ。


私の頭で考えることは、自己追求ではなく、自己防衛であるのだ。


情けないというか、そんな言葉もおこがましいなぁ…



どうにもこうにもならん!!



間違った考えしか生まない私…


自己防衛しかできない私…



私に考えられることなんて、一粒もないんだ!


私の勝手都合による考えに、考えていいことなんてないんだ!



だから、聞法だ!!!!!



人にたずね、仏に訪ねさせていただく。


我が身の発見は、他によってなされるのだ!


勘違いも甚だしい…私は頼るものではないのだ!


あぁ…


一体何なんだあせる


仏法を聞いた気になって、教えに育てられている気になっている私がいます。


全然聞けていないです。


私の勝手都合だけの世界、心、感情、でしか生きていない私です。




自己防衛 × 嘘偽りの我が身に依って、一瞬の自己満足の為に生きる。


自己追求 ○ 真実の教えにわが身を心を依せて、生きることをたずねさせていただく。




私の目も耳も口も鼻も、心も頭も、私のすべてが仏にいただいているにも関わらず、

自分で、自分を覆って行く…


わが身を闇のマントで覆った、目のない私…耳のない私…ということか・・・




親鸞聖人は、「無眼人」「無耳人」とおっしゃっておられます。


見抜かれた私が生きる道は、やはり、親鸞聖人の御教えであります。




南無阿弥陀仏








人間は、一体 何のために生きるのか?



これまで思ってきたのは、

人間は、幸せになるために 生まれてきた と思ってきた。



幸せになるため?



なんだか違う気がしてきた……



最近、というか、この頃は特にこういう心理状況が多いのだけど…

ちょっと?スランプ??



自分としては、キッツイけれど、

『生』というものを真剣に考えることになっていることは、

本当に尊い縁に遇っていると感じます。

ありがとう…




有り難き、そして、遇いがたきことが、

この私の身の上に今、起こっていると思うと、

尊いことだと思います。



だけど、やっぱり真剣にキッツイよっヽ(;´ω`)ノあせる

どんどんどんどん追い詰められていく…



酷暑のせいなのか、精神的追い詰められれているからなのか…

体重も、またちょっと減ったかな・・・



家に入ると、あぁぁぁぁぁぁぁーーーーーとか言って

唸っていることも最近よくあるっ。



田舎だから、隣近所へのご迷惑にはなっていないはず。

たぶん……



話を戻す



幸せになるために生まれたのか?

幸せになるために生きているのか?



幸せとは一体どういうことをいうのか…



ここか!



幸せについては、人それぞれ思うことがあるだろう。



俗世間でいう、うわべの幸せは、むなしいだけ



私の細胞ひとつひとつが、喜び、イキイキしてくるような幸せを

得たいですね…



うわべではなく、内からあふれ出てくる喜びを、

人間の本当の幸せとして…



不器用な自分が、本当に厄介です。



柔らかく、しなやかに…

柔軟性って本当に大切よねっ



どんなことをも、引き寄せていかなくては!



わかってはいるけれど、難しい・・・



幸せってどいうことですか?

皆さんの幸せはどこにありますか?



本当に、キッツイけれどねっ。

(><;)