3月6日~11日
脚本…藤森一朗
演出…松丸雅人
6日 21:00~ B班(初日)
7日 21:00~ A班
8日 21:00~ C班
10日 12:00~ A班(千秋楽)
【A班】
田上真蔵…外崎将太
春…KANON
平野寅之介…池田裕
那江…つる
中岡慎太郎…小林亮介
原田左之助…小原拓真
豊…奥平さあき
呑み屋のおやじ…大和田政裕
【B班】
田上真蔵…吉澤進
春…岡崎ちひろ
平野寅之介…Shun
那江…吉良優
中岡慎太郎…小林亮介
原田左之助…柳邦衛
豊…加藤詩織
呑み屋のおやじ…出倉俊輔
【C班】
田上真蔵…大和田政裕
春…菊池亜璃紗
平野寅之介…芳賀匠平
那江…紗來乙生
中岡慎太郎…出倉俊輔
原田左之助…小原拓真
豊…大嶋麻沙美
呑み屋のおやじ…柳邦衛
これを書いているのはまだ2週目の真っ最中(17日)なのだけど、思い返すと早くも印象に残っていない役者が現れ始めた。たくさん観ることは恐ろしいと思う一方で、1回(毎回)の公演でどれだけ観客の心に自分の存在を刻み付けられるかがそれぞれの役者の見せどころなんだよなとも思った次第。
2週目までの6班を観た時点で、公演の出来はこの週のB班が最も良かったかな。続いてこの週のA班(千秋楽)。
Shunと吉澤のペアは、他5班よりもインパクトが弱かった。両者がヘタとかダメとかではない。このペアがゆるやかで静謐な空気を作れていたからである。特に吉澤が漂わせるふんわりとした空気感が作品・役にマッチしていた。田舎者感・“咲けないつぼみ”感をしっかり出せていた。
小林・柳の芝居にキレと凄みがあったのも、吉澤・Shunを弱く感じた一因。とはいえ演劇の中でのバランスはちゃんと取れていた。だからこそ観終えて高い見応えを得られた。
柳は原田でありながら、ビジュアルや醸し出す雰囲気が、登場しない沖田のイメージとダブった。柳の原田には、ヒヤリとさせられる刃物のような空気があった。
小原の左之介は、柔らかさと怖さのメリハリが良かった。平野に凄みを利かせる際の表情、目線の使い方が上手かった。
「ばかやろう!」の言い方は柳の間(ま)が良かったし、いち観客の解釈としては田上のみに向けて言う方がしっくりきた。両者に向けて言うのであれば、3度目の呑み屋のシーンで、平野との距離感を詰め、温度差を小さくしておく方がベターだろう。
Shunはコミカルな芝居もしっかりしていたが、3人での花見のシーンと最後の宴会シーンで、シリアスに切り替わる瞬間に放つ空気が非常に良かった。この班への高い評価につながった一因を成している。
中岡が龍馬に語りかける独演のシーン。6班(5人)観た現時点でセリフの説得力において、出倉が圧倒的に優れている。おそらく彼が最年少にもかかわらず。言葉に説得力を持たせて観客の心に響かせる高いスキルは、彼が歌手でもあることと無縁ではないだろう。
おやじは普通に演ってももちろん構わないのだけど、出倉のキャラ作り・ネタのブチ込み加減に脱帽。エンターテナーとしての意識の高さが現れた格好だ。
7日のA公演は、外崎が池田のセリフを継いでしまっていて、もっと間を取って欲しいなと観ながら思った。それでもあの空気感を生み出せたのは2人の実力があればこそ。10日の千秋楽ではその辺をはじめとして諸要素が引き締まり、公演の仕上がりが高くなっていた。
「妖怪アパート」に次ぐ2作目の観劇となった大和田。前作は感情を表に出さぬ人物であったのと、妖怪たちのセリフを受けるばかりの位置づけであったため、実力を掴みきれなかった。
今作で、瞬間ごとの感情や移ろう気持ちの表現が実に巧みな役者だと判った。セリフの抑揚・動作・表情の変化は抑え気味である。彼は眼の動きや顔の角度を大きく変化させることによって観客に伝える。メリハリが利いていて、しかし押し付けがましくない芝居をできる役者である。派手さはないながら手堅く、観劇に慣れていない観客にも解りやすい芝居をできるのだ。
春は現時点で6週ともいい。ただ、岡崎は細かい演技をできると知っているだけに、眼の芝居などもっと盛り込んで欲しかった。
本作の春は、田上のセリフを受ける役割だけで終わらせてはもったいない。観客の立場で言わせてもらえるなら、前半からもっと感情豊かな春を観てみたいと思う。もしかしたらこの週は、演出の指示によって、わざと春に色をつけなかったのかも知れない(各班を観たうえでの印象)。
KANONは「妖怪」では観られなかったため今作が初見。訊いたら演劇は今作で3作目だとか。原田から預かった○○○を田上に渡すシーンで、明転したらいきなり眼を泣き腫らしていたので「おっ」と思った。あれで観客は、○○○を預かってから田上が帰宅するまでの(それは1時間かも知れぬし一昼夜かも知れぬ)田上を待つ間の春の気持ちに、想像力を羽ばたかせられるのだ。
菊池は生の舞台は初だそうで、聞き取れないレベルではなかったものの声の張りが足りなかった。ただし和服を着ての所作は、6班の女性キャスト18人の中で彼女が飛び抜けて美しい。
方言だの身のこなしだの殺陣だのは、演劇においてはそれらしく見えればいい。言い換えると、観客に違和感を与えなければ一応は合格である。完璧である必要はない。
が、そういうスキルは、全員が完璧ではない中で身についている役者がいたら、それだけで観客の目を惹けるものであり、公演全体の見応えを高めることにつながるケースが多々あるのも事実である(逆に、皆ができている中にできていない者が混じっていると、悪い意味で目につくし、それだけで観劇の興趣を削がれることさえある)。
那江は、紗來が頭ひとつ抜け出ていた。他2名は可もなく不可もなくといったところか。強い印象を残すまでには至らなかった。
紗來も強烈な個性を打ち出すほどではなかったが、セリフの歯切れが良かったのと、アクセントの付け方が理想的であった。センテンスごとにアクセントを置くべき単語の選択と、その単語を頂点にした抑揚・流れの付け方が、自然な喋り方になっていた。小学校の国語の授業で音読を課せられるのは、まさにこういう言語感覚を身につけるためである。
ちょうど恰好の例がある。「家族を守る、女房を喰わせられずに、国を守ることができますか?」という左之介のセリフ。これを「家族を守る」にアクセントを置いて「女房を喰わせられずに国を守ることができますか?」を続けて言ってしまうと、メッセージが田上に、観客に伝わらなくなる。
このセリフは「家族を守る」と「女房を喰わせられずに」はあまり間をあけずに言い、「に」のあとで一息いれて「国を守ることができますか?」と言うべきである。ではアクセントはどこに置くか。「できますか?」である。末尾の「か?」を心持ち跳ね上げて疑問のニュアンスを強めるのだ。なぜなら、このセリフは反語表現だからである。6班(5人)の左之介の中で、このセリフを最も望ましい形で言えていたのは、柳であった。
紗來はこうした言語センスを持ち合わせていて、全てのセリフを脚本家が理想としたであろう抑揚で発し、センテンスや会話に脚本家が含ませたかったニュアンスを的確に表現して観客に伝えることができていた。