10月1日


夕方4時から母の納棺でした。


長男は仕事でこれず、兄と私と次男で


母は私が用意したドレスを着ていました。


納棺師さんがきれいにお化粧をしてくれて、髪の毛もきれいにセットして


その母の姿を見て兄が


「数珠を持たすより、楽譜でも持たせたほうが似合いそうだな」と



棺に母をおさめ、思い出の品を入れて



10月2日


母の葬儀は家族葬でやろうと兄と決めていました。


母の兄弟も父の兄弟もいませんし、母はもともと関西で暮らしていましたから


友人たちも来ることができません。


母を慕っていた母方の従姉妹夫妻3組と兄、私、息子二人で


従姉妹たちは母の遺影を見て


「おばさんの写真とてもいいね。お顔もとても穏やかで。入院中の腫れもひいて


本当にきれい。今から歌いだしそうね」


遺影の写真は母の喜寿のお祝いに兄が私と母を温泉に招待してくれた時の物でした。


まだ母が癌になる前の写真。


ご住職さんも


「遺影のお写真がとてもよくて、お寺に来られて話してくださっていたお姿を


思いだし、お経をあげさせていただきました」


昨年母の家を片づけたときから、もしもの時はこの写真を使おうと決めていました。


母らしい穏やかな明るい笑顔だったから。



10月3日


朝早い時間からの告別式でした。


雨が降ったりやんだり


お骨ひろいの時、焼き場の職員さんがお骨の説明をしながら骨壺に


母が患った病は「上顎歯肉癌」


上あごの骨は砕けて見つかりませんでした。


でも気道にまで癌が広がっていたのに、喉仏の骨はしっかりしていました。


骨壺にせっかく作ったのに使うことができなかったインプラントの入れ歯と


愛用のメガネを納めて。



今、母はこの箱に納められ私の家にいます。


兄も妻を亡くしひとり者ですから、納骨までは私が祀らしてほしい、さびしいからと


兄に頼み、我が家に居ます。


友人から花やお菓子が届きました。


花が好きだった母。今は花に囲まれて穏やかに微笑んでします。



それでも私はまだ現実として母がいなくなったことが受け止められないときが


あります。


朝目が覚めると、ふと


「早く片づけて病院に・・・あっもう行かなくていいんだ」


この2年間私の生活は常に母中心した。


関西までの遠距離介護、そして昨年からは仕事帰りに母のホームに、


入院中は病院に。


その仕事も事情があり8月末で退職しました。だから先月の1か月は


私の行先は病院だけだったのです。


まだまだ片づけることはいっぱいあります。


ホームから持ち帰って処分していない母の衣類や小物。


それを少しずつやっていきながら、就活もしなくては。


「行先」これを決めないと母が安心できないでしょうから。



母が亡くなったことで闘病記もここまでです。


見える部分の「癌」


これほど恐ろしいとは当初思っていませんでした。


治療をしなければ「癌」があれほどまでに成長することも


でも最後は母らしい顔に戻り、それを待っていての旅立ち。




「母さん、よく頑張ったね。もう父さんには会えましたか?父さんに


頑張ったな、きれいだよ。ってほめられましたか?


今頃は二人で何を話しているのでしょうね。


母さんお疲れ様でした。空から見守っていてね。私頑張って生きていくから」







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