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選挙をバカにしているのは一体誰か

【選挙をバカにしているのは一体誰か③】

その昔、死を賭して一般市民の手に選挙権を手繰り寄せた人たちがいた。必ず、選挙の前にはその類の話が新聞のコラムなりなんなりに載る。本当にそういった史人たちを偉大だと思うならば、この状況を申し訳ないとは感じないのだろうか。全ての国民、市民が平等に政治家を選ぶ権利を有する。これは素晴らしいことだ。ここに異論を唱えるつもりはない。けれどもだ。考えて欲しい。投票する権利があるのなら、それに伴う義務もあるはずだろう。この場合の義務とは一体何なのか。納税。こう答える人もいるかもしれない。税を納めているんだから、その税金で働く人を決める権利がある。一見スジの通った話だが、これは感覚的な問題だ。だとすれば、警察官は?自衛官は?公費で働く人は山ほどいる。感覚として税金を納めていることとそれを最も使うだろう人間を結び付けているだけだ。国民、市民の義務とは選挙について学び考えることだ。そしてそれに基づいて投票することだ。投票することは権利でもあり義務でもある、というのはここに依拠する。この視点からいえば、上記のような投票者には選挙権などないということになる。義務を果たしていないのだから権利の主張はできないのだ。それでも現状は、無条件に選挙権は与えられている。義務教育がその「義務」を満たしていると考えられているからだろうか。それとも成人まで生きればそれくらいのことは学び考えているだろうという判断からだろうか。どちらにせよ、結果、意味をなさない理由で内容のない投票者が投票所にはせ参じるという事態を招いている。それでも投票率さえ上がれば「今回の選挙は素晴らしい」と報じる。

資格取得制にしてみたらいい。「選挙資格取得」を国民の義務とするのだ。18歳になったらそれを受験できる。そうして合格したものだけが選挙権を得られる。この資格は再受験ありの10年更新制とする。こんなことをしたら選挙が一部の人間のものだけになってしまうと憤るものも多いかもしれない。けれどもだ。

「店長に頼まれたから入れてきた」がまかり通り、それで成立している方が不健全ではないのか。しっかりと選挙と向き合い、考える意思のある人間の一票とそういう人間の一票を同列に考えていいわけがない。

勿論、先述した投票者の類例は見聞に過ぎないし、実際にはそういった会話とは裏腹にしっかりと自分の意思で選択した立候補者に投票しているのかもしれない。そう思う一方、職場であるとか家族であるとかといったしがらみのない一知人にまで「上司に言われたから」的な嘘をあえて述べるとも思えない。そういう嘘をつくメリットがない。とすればかなりの確率で、やはりそういう投票者たちだったと考えてもいい気がする。

全ての投票者がそうだとは言わない。

けれどもきわめて多くの投票者がそういったスタンスであることも確かだ。

投票率の向上よりも投票内容の質の向上が、国政の為には最も必要なことではないかと、強く思うものだ。(おわり)

選挙をバカにしているのは一体誰か

【選挙をバカにしているのは一体誰か②】

程度が低いのだ。投票率がどれくらいだとか選挙離れがどうとかけたたましく義憤じみた面でマスコミは煽るけれども、その投票にどれほどの内容があるのだろうか。選挙権にツバを吐くような投票者も少なくないのだ。

こういう話を聞く。

とある会社でのこと、A氏を職場ぐるみで応援している会社の部署で、うっかり他の立候補者を応援していると言ってしまい白い目でみられたという話。そして投票日の翌日は飛び交うのだ。「Aさんに入れてきたよ」「私も」。そういった会話をして悦にいっている。これは上司命令であることが多い。命令というほどのことでもないが、上司の知り合い、上司の恩師、そういった手合いが立候補すると「まぁ頼むよ」と職場で一言、それを聞いた部下は「いや私はあの人には投票しません」とはいいづらい。結果、そうなる。そういう浅薄な会話に入りたくないから遠ざかっていると「選挙に興味がない人」扱いとなる。かといって口を開けば「異端」だ。会話の上だけでも乗っておくしかない。

程度の低さを曝け出して余りある人は、何の迷いもない笑顔で「上司に(店長に)頼まれちゃってさぁ」と言う。嬉しそうだ。「だから明日、選挙行かなきゃならないんだよ。社会人も大変だよ」と続ける。まるで社会人として一人前のことをしているかのようだ。社会人として社会参加しているかのようだ。これが教師を職業としている知人から聞いた時には卒倒しそうになった。

地区でも同様だ。同地区からの立候補者はほぼ無条件で応援して当たり前という空気がある。ふとしたことで二人の立候補者が出た時には「困ったなぁ、どちらを応援しようかね」となる。

入れてくれと頼まれたからねと笑いながら投票所に向かう老人もいる。

選挙前に地区の役員会などに出たら、「じゃあみんなで家族の票を取りまとめましょうか」などと当たり前のように言いあって笑いあっている。

そんな一票にどれほどの重みがあるのか。タレント立候補者の人気票と同等の軽さだ。

更に言いたいことがある。障害者の通所する授産所への立候補者訪問だ。こういう言い方は差別になると怒られるかもしれないが、そういった施設に通所する障害者にどれほどの判断が可能だろうかと思うのだ。もっとはっきりいえば、簡単に誘導投票させられる、ということだ。更にはっきりいえば、その授産所の所長が応援する立候補者を訪問させ、いいイメージを与え、スタッフが「いい人だから入れようか」と言えば、簡単に頷いてしまう…障害者をバカにするなと言われるかもしれない。バカにはしていない。しているのはそうやって票数を稼ごうとしているものたちだ。精神的な部分に障害を持つ人たちは、そういった部分の脆弱さがあるから障害者なのだ。その隙につけいるような選挙活動をするのはどうだろうか。こんなことを言われると障害者側は「真面目に自分で考えて投票している」と憤慨するかもしれない。真面目に自分で考えて投票している人たちをそうではないと言っているのではない。「障害者(特に軽度知的障害者)を篭絡しようと画策するかのような選挙活動する人もいる」話を聞く、ということだ。そしてそうやって誘導的に獲得した票に「真面目に自分で考えて投票した一票」と同じ「重さ」はあるのかということだ。

タレント立候補者といえば、家族ぐるみでの涙ながらの選挙活動が報道されることがある。タレントでなくともなんらかの形で「家族の支え」というものを前面に出してくる。これが家族の誰かがその枠から外れていると「○○候補陣営に不協和音」と書き立てられることまである。どうして連れ合いが、息子娘が必ず、立候補した家族と同じ政治理念を持っていなくてはいけないのか。家族は必ず彼に入れる、親戚も入れる。固定票という奴だが、その一票にどれほどの内容があるのか。

軽すぎる一票だ。(つづく)

選挙をバカにしているのは一体誰か。

【選挙をバカにしているのは一体誰か①】

選挙が盛んだ。今日も選挙カーが立候補者の名前を連呼する。ただ名前を連呼することに意味があるのかとは、この時期必ず聞く言葉だ。意味はあるのだろう。つまり立候補者の名前を覚えてもらう、迷っている有権者の最後の背中押しなど。意味はあっても、少し賢しい人ならば公約や政治理念など入る隙のない選挙活動に違和感を覚えるものだ。

違和感を覚えると言えば、今日も聞いた「地元の○○、地元の○○」の連呼だ。これはどうなのだろうか。これも意味は理解できる。あなたの地元に有利になりますよ、だから票を下さい、ということだ。理解はできるが、どうなのかと思う。今、この界隈で市議会議員選挙をやっている。つまりこれは、この候補者はこの市において「地元」を贔屓する、つまり他の地域は贔屓にしないという不公平政治を掲げていることになる。勿論、自分の住む地域に有利な政治をして欲しいから、有利な政治ができる人間を選ぶというのは至極真っ当な考え方だ。けれどもそれは市民判断においてであり、立候補者が自ら言うべきことではない。その地区をいかに良くするかも大事だ。それが大きなポイントでもある。けれどもだ。それを「公約」などではなく「地元」だからという理由で選ばせようというのは、あまりに馬鹿げている。もっと現実的に言えば、「地元に有益」という部分よりも「地元」ということで親近感を抱いてもらおうという効果への期待も大きい。というよりもそちらの方が大だ。なんだそれ。程度が低い。立候補者も有権者もだ。

「地元贔屓」的な考え方は、いい加減改正されるべきだ。「政治家が自分たちだけ贔屓してくれる」思想だからだ。これが推し進められると「地元の業者に」「地縁の業者に」そして「談合」。そうなってくる。自分の街を良く変えて欲しいから「地元」出身者を推すという理屈は分かる。がそろそろ、普通選挙も始まって百年、そろそろ、「自分の街」が「隣り合った街たち」と共存共生していることにも目を向け、たとえば市議会であれば、市全体との兼ね合いの中で自分の街がよりよく改善されることを考える時期に入ってもいいのではないか。有利・不利ではなく。それができないなら、やはり程度が低い、といわざるを得ない。(つづく)

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