日本史跡研究会々長blog紹
http://blogs.yahoo.co.jp/tsjqu183/14604596.html
評価
別 名:―――
所 在 地:高崎市剣崎町字鳴熊、六万坊、上小路
築城年代:永正4年(1507)頃
築 城 者:福田忠政
区 分:丘 城
現 状;御嶽神社・宅地
永正4年(1507)、関東管領・上杉顕定の招きに応じ、武蔵国児玉郡福田村(現在の住所不明。比企郡福田村=現在の滑川町の誤りか?)から下板鼻鳴熊の地に移り住んだ福田忠政によって築城されたという。
忠政の子、福田加賀守信義は倉賀野十六騎の筆頭となったと伝わり、永禄7年(1564)、倉賀野落城後に武田信玄に臣従している。
『上野誌』に「板鼻陣箕輪先駈相勤め」と記されており、永禄9年(1566)、武田信玄長野業盛の若田ヶ原の戦いで、信義は戦功を挙げています。その功績によって、新たに藤塚・豊岡の地を与えられ、信義は藤塚の地に屋敷を新たに築き移っています。
この地には子の勝政が居住したようで、その後、信成が居住し、天正10年(1582)頃に板鼻に移住したことで、廃城になったようである。
現在、御嶽神社が祀られている地が城跡で、辺りは住宅地となり遺構は残りません。境内には案内板があるのですが…これがちょっと???なもので誤りがあります。
それは「鳴熊城」と同町内にある「剣崎小路城」の場所を明らかに逆にしていること
しかし、案内板の記述に誤りがあるとはいえ、有るのと無いのとでは大違いですから本当に有難いことです。
長らく毎日のように車で通っていたにも関わらず、まっ~たく気付いておりませなんだ誠に不覚の至りです
(参考資料)
新編 高崎市史 資料編3 中世
群馬中世の城跡
群馬県教育委員会
箕輪軍記
げぇに 知んねぇかった かの~
こちら 納得してない、
「烏天狗 民芸玩具」
http://ameblo.jp/tokugawawakou/entry-12231447573.html
「刀工 権田政重の矢の根」
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「魔な大石退けたら 白山古墳」
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