【 芝界隈 その壱、( 築地、芝大神宮辺) 】 洛中思案 | 徳川わ廣 のブログ

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「わ」、と書いてるのは「和」草書由来 徳川家和広は二人いますからね、もう一人は恐竜化石学者さん、

御上 徳川わ廣
Nihon koku Tycoon
(The August sovereingn or Grand Souverain" )

16s 葉月廿三日

与力より出ないかと誘いで築地や木挽丁辺りに進む事と為った
ついでとは言わぬが、懇意の日本史跡研究会長は、
各地の民芸を集めている、
江戸玩具のしとつ 千木筥(ちぎばこ)をば欲しく芝大神宮に寄せたが売り切れであった、
いずれに取ってくれぬかと 頼まれ 
者共誘い温進み事とした、


二百十日が過ぎた流れる雲空の元
大川側に集まり 雷門横吾妻橋を行き日本橋横山丁から久松町の金座通りを過ぎて人形町や小網町、

まず、築地の千両河岸にて朝餉

与力は今回御兄上をば伴っており、そこそこに挨拶も気安く会って 此処まで来た

築地の四畳半有るや無しかの処に座す
この築地の天婦羅屋は共連れの与力と寄せるようになり八年程に為る
当時は年配の主と息子と思う若衆と女将だったが、今は女将とで若衆が差配している



烏賊の天婦羅は浸けた様に つゆ が着き、
特に
小鮎上には塩梅良くつゆが、ぴっ、と一筋かけになっており喫するとわたの苦味、瓜の如く香り来る
あまっ辛ひ奴を御まんまには さっと通しかけの江戸前どんぶり

旨かった


芝大神宮は大門を通り銀行に続く次のビルヂングを右 
ちっと見れば幡が見える、其処


「芝大神宮」
源頼朝より千三百貫目寄進神田所領を与えられ、
足利直義の戦捷祈願処、太田道灌もあつく奉り、
豊臣秀吉も奥羽征伐の祈願し、
徳川家康が江戸入府により十五石のお墨付き「朱印状」の官社となり
関ヶ原には大君徳川秀忠の名代で正室お江方より戦捷祈願が行われた、

神仏混合者は明治以後、権現家康以外有るかは知らぬ、
無論 東照権現になる履歴と為る元は、力 権力、権威、これは、徳川家康  そのもの、
そしてそれは履歴として堀開けられている、
八百万の神道に廃仏毀釈の実際上起きた



ここは江戸のお伊勢さん

此所に江戸玩具の千木筥(ばこ)が置いてある、
箪笥に仕舞ふならば、着物が増えると言ふ縁起物、
野郎にならば生姜を持って行けと
縁起物にして置いてある

官寺、芝増上寺が此方に移り、芝大神宮も今処に変わった
室町足利時代は伊勢神宮も幕府は許さず遷宮も出来なかったが、
豊臣から徳川幕府に為り 伊勢と共に叉この地の増上寺と共に流行り参拝も増えて物見遊山処と為ったらしひ
岡場所も出来、茶屋も軒を連ねて影間茶屋(おかまちゃん)地本問屋和泉屋が天明期に店をば出し、にぎやかな繁華街だったらしひ、


何をばもめたか判らぬが
新門辰五郎と相撲取りが喧嘩して手打ちしたと言う話も有るが、
てめひで 売って てめひで落とし処着ける、たわけな事やっているんぢゃねいだろうな、
事が決して始末ならば話しゃぁ
違ふが、

等、赤く思ふ


千木筥は何処にあるか 売り切れかと探していたら、
与力兄上が見付けてくれた、

千木筥を求めると祢宜が千木筥を振って音を聞き渡してくれた
中に豆が入っているらしひ、豆々しくの意味合いかな、
与力兄弟は芝増上寺に行ったことが無く行きたいと言う、


取った、ので



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(芝大神宮、戌のお陰参り)

「芝界隈 」其の二 芝増上寺辺之事




「芝界隈 」其の二 芝増上寺辺之事
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「芝 界隈」其の三 日本橋辺之事
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