鞆の浦・地名の起源
明日、重陽の日から、今回で四度目となる全国一斉 鞆の浦検定開始します!
鞆の浦の知られざる魅力を“全国に”“わかりやすく”“楽しく”を主旨とした当検定と当ブログは、サポートしてくださるみなさまのおかげで成り立っております。
閲覧していただき、心より感謝します!
これからも、鞆の浦のすべてをインターネットを閲覧できるすべての老若男女の方々にわかりやすく、お伝えできるよう日々勉強してゆきます。
今後とも、当ブログと鞆の浦検定をよろしくお願い申し上げます!
さて、
四度目の検定を前に、「鞆」という変わった地名の起源について、今まで触れていなかったので、今回はこれについて諸説交えてご説明します。
※四国にも「鞆の浦」というのがあり、石見銀山付近には「鞆ヶ浦」という地名もあります(豆知識)
ここでは、備後・鞆の浦をご説明します。
医王寺から鞆港へ posted by (C)鳶眼
【鞆の浦(とものうら)】
◎地名の起源
江隈の浦(疫隈の浦)、備後鞆の津、沼隈郡鞆町、福山市鞆町へと変遷して今日に至っている鞆の浦。
<余談>坂本龍馬が妻・お龍に宛てた手紙には「鞆殿」と記されていた。
歴史上初めて地名としての“鞆(とも)”という言葉が出て来るのは、
奈良時代・天平2(西暦730)年に、大伴旅人が九州太宰府から奈良の都への帰路のこと。
詠んだ万葉歌三首が始まりとされ、万葉集巻第三に遺されている。
その注には三首は、鞆の浦を過ぎし日に作れる歌と記されている。
吾妹子之 見師鞆浦之 天木樹者 常世有跡 見之人曽奈吉
わぎもこが みし鞆の浦のむろの木は とこよにあれど みしひとそなき
鞆の浦の 磯のむろの木見むごとに 相見し妹は わすらえめやも
磯の上に ねはうむろの木見し人を いずらと問はば 語り告げむか
その他、万葉集には遣新羅使人が詠んだ歌や作者不明の五首にも“鞆”という地名として遺っている。
【神功皇后との関わり説:一】
1640年代、初代鞆奉行・荻野重富 著「鞆記」には以下のように記されている。
__________
「仁王捨五代の帝、功皇后、西の國へ御幸なりしに、御船を此浦に寄せたまい、浦の名をと勅ありしに、それまでは名も知らすと奏すれば、御船のとも(艢)をつけたまふなれば、鞆とこそいふけれと勅にまかせ、まさしく帝よりくたし給ふ浦の名也と侍りし也」
__________
【地形説】
1748年、福山藩主・阿部正福の命で編纂された「鞆浦誌」には以下のように記されている。
__________
「渡(わたす)の札場より要害の端を見渡せば中高くして其末拳の如し、○に鞆の形と見ゆ、又平(ひら)の明より要害まで海邊(かいへん)弓の如く、地形自然と射具に似たり、往古より鞆と名づく云々」
※○は解読不能
__________
【神功皇后との関わり説:二】
1912年、沼名前神社由来記にはこう記されている。
__________
「人皇第14代・仲哀天皇2年2月6日、神功皇后が熊襲征伐のため下向途中、備後の南の浜(鞆の浦)に立ち寄った時に海中から霊石が湧き出たという。
神功皇后はこの地に社の無きことを知り、ここに斎場を設け、その石を神璽として「綿津見(わだつみ)命」を祀り海路の安全を祈願したのが神社の起源(本来は渡守神社)であり、また、鞆の浦の「鞆」という地名は、神功皇后が再びこの地に立ち寄った時に渡守の神(綿津見命)に奉納した「稜威(いづ)の高鞆」(武具)に起因し鞆と呼ばれるようになった。」
__________
【神功皇后との関わり説:三】
さらに、
1923年、沼隈郡誌にはこう記されている。
__________
「神功皇后凱旋の時、戦場にて手に巻き玉ひし稜威の高鞆を神璽として渡守の神に奉賽し玉ひしより地名となる」
__________
【考察】
先の万葉歌にもあるように、天平2(730)年から“鞆”という地名が存在したとすれば、「鞆浦誌」の地形説は誤解と推測できる。しかも、1610年頃・福島正則公により大河島と陸続きになるまでは、美しい孤の形ではなく、「平の明(平の明神山)」もまた陸続きではなかったのだ。
そこで、神功皇后との関わり説の三つの説・・・
「沼隈郡誌」には、11年前に刊行された「沼名前神社由来記」を元に少しアレンジされた一文が記されている。ここで又今度は、神璽が「海中から湧き出た霊石」なのか、「戦場にて手に巻き玉ひし稜威の高鞆」なのか、食い違うところがあるというものの、この二つが曖昧な状態で現在の通説となっている。
【新説】
◎鞆→「戸(と)」「茂(も)」説
戸とは、島と島の間の水が出入りするところ。という意味があり
茂とは、多いという意味。
つまりは、戸が多い場所。という意味から
◎鞆→「渡(と)」「守(も)」説
神功皇后が神璽を奉賽した渡守(わたす)大神から、「わたす」を「とも」と読んでしまった。
という説もある。
◎鞆→「誉(ほむた)」説
応神天皇は別名:誉田別尊(ほむたわけのみこと)。さらに大鞆和気命(おおともわけのみこと)とも記されている。「鞆」は古語で「ほむた」と読む事から、応神天皇と深く関わりがあるのではないか説。
◎鞆→「戸(と)」「毛(も)」説
福山市戸手にある素盞嗚神社。戸手の「手」は本当は「毛」ではなかったのか説
それぞれ、ロマンティックで面白い諸説なのだが、当検定では沼名前神社の由緒に記載されていることを通説として検定を作成しております。
なにしろ、地名が“鞆”と決まった時にリアルタイムで生きていた真実を知っている人々は、もういないのですから。大神さまの由緒を信じます。
ということにしておきます。
鞆の浦の地名の起源は、あまりにも諸説が多いため、これらは検定問題に出題予定はありません。
お弓神事の飾り弓には、「神功皇后」と「その皇子(のちの応神天皇)を抱く武内宿禰」がある。
通説を信じるほかないのではなかろうか・・・?
__________
【お弓神事(ゆみしんじ)】
福山市無形文化財/毎年二月第二日曜開催
◎開催日/平成23年は2月13日(日)予定
※本来は、旧暦1月7日に行なわれる神事
◎開催時間/14:00~
◎料金/入場無料
◎お問合せ/沼名前神社
「お弓神事のすべて」シリーズ
◎「お弓神事」のすべて/其の一
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10741106081.html
◎「お弓神事」のすべて/其の二
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10741150229.html
◎「お弓神事」のすべて/其の三
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10742546184.html
__________
<2011年トピックス>
【概要】
◎Think鞆の浦:
「全国一斉 鞆の浦検定」を発案・企画・製作・運営
「日刊 鞆の浦新聞」を製作
◎浦民URATAMI:
「鞆史」を発案・企画・製作・運営
「日刊 鞆の浦新聞」を企画・運営
Think鞆の浦・・・鞆の浦の人々を中心に全国区に向けた目線
浦民URATAMI・・・鞆の浦に興味のある人々をターゲットに、その人達から見た・あるいは知りたい鞆の浦の情報発信
◎全国一斉 鞆の浦検定:
「鞆の浦」の由緒ある歴史から、トリビアまでを含む、フリーダム・トレイル・システムを導入した新しい観光案内のご提案としての検定。
鞆の浦検定ブログでは、総合的なご案内と未来に向けてのアイデアを提案し続けています。
ご案内とアイデアは検定問題には出題しません。
◎Discovery! 鞆の浦/鞆の浦研究室:
「鞆の浦」の由緒ある歴史を細かく追求するブログ。
◎鞆史:
「鞆の浦」の歴史年表。
◎鞆の浦クロニクルズ:
旅人目線で製作している、旅人のための「鞆の浦」の観光案内。
出版予定。
◎日刊 鞆の浦新聞:
「鞆の浦」の由緒ある歴史、観光案内を取り除いた、架橋埋立計画とその他諸問題を考えるブログ。
※日刊の他、『週刊』『月刊』『号外 鞆の浦新聞』もあります。すべてThink鞆の浦の製作物です。
鞆津百景/「神功皇后上陸画」の下絵
【紀曽院 藤七:鞆津百景】
書籍『鞆の浦年代記』用の挿絵として制作している“鞆津百景”。
時は弥生時代、西暦200年頃の「神功皇后上陸画」の下絵です。
リトグラフにて本格的な版画として、世に贈り出そうとしています。
背景は、まだ陸続きでない大河島(鯛ヶ島)、福寿堂の建っていない弁天島(百貫島)、福禅寺もまだ建っておらず、現在の西町もまだ砂浜。という時代、神功皇后は三韓征伐の帰路、その子息・応神天皇を抱く武内宿禰(たけうちのすくね)を従え、鞆の浦に上陸した図。
※淀媛さんも描かなければいけないかどうか・・・検討中です。
今後も制作過程をシリーズでお伝えします。
次回は着色編
神功皇后筑紫下向の折奉献し、 名を三降酒と命じ、大酒主の姓を賜った
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10613386130.html
保命酒は京都四条では、こんなキャッチフレーズで売られていました。
まさに、鞆の浦に富をもたらした神功皇后。
入江豊三郎本店の保命酒のラベルには、神功皇后のイラストが描かれています。
十六味保命酒 入江豊三郎本店 900ml 福山市鞆町 特産品【あす楽対応_関東】【あす楽対応_...
¥1,500
楽天
【紀曽院藤七作:鞆津百景/今後のラインナップ】
◎素尊御来訪画
◎淀媛命御奉仕画
◎蜜語橋逢瀬画
◎天木香樹悲歌画
◎伝教大師七堂伽藍画
◎弘法大師鎮国護法画
◎空也上人福禅寺建立画
◎阿闍梨辨祐遷宮改築画
◎平重盛植松画
◎鞆源左衛門正友親子画
◎百貫島物語画
◎法燈国師金宝寺建立画
◎足利尊氏院宣受諾画
◎七堂伽藍炎上画
などなど、写真では見ることのできない鞆の浦に伝わる諸伝説を挿絵にて制作中。
※タイトルはすべて仮称、全百枚で1セットとなります。
紀曽院藤七 posted by (C)鳶眼
<鞆津百景シリーズ/「神功皇后上陸画」の制作過程>
鞆津百景/「神功皇后上陸画」素描
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10765463837.html
鞆津百景/「神功皇后上陸画」下書
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10765511633.html
鞆津百景/「神功皇后上陸画」着色1
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10765512800.html
鞆津百景/「神功皇后上陸画」着色2
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10765514421.html
鞆津百景/「神功皇后上陸画」完成
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10766767877.html
田村藤七作 恵比寿像 posted by (C)鳶眼
____________
第四回全国一斉鞆の浦検定/開催日程延期のお知らせ
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10834682193.html
第四回 全国一斉 鞆の浦検定POSTER posted by (C)鳶眼
重陽の節句「菊の日」に
第四回 全国一斉 鞆の浦検定
受検期間:平成23年9月9日(金)9時~10月10日(月・祝)17時まで
開催場所:鞆の浦及びインターネット(PDF)で問題用紙配布
※鞆の浦での配布は9月10日(土)予定
http://uratami.web.fc2.com/
鞆の浦の知られざる魅力を“全国に”“わかりやすく”“楽しく”を主旨とした当検定と当ブログは、サポートしてくださるみなさまのおかげで成り立っております。
閲覧していただき、心より感謝します!
これからも、鞆の浦のすべてをインターネットを閲覧できるすべての老若男女の方々にわかりやすく、お伝えできるよう日々勉強してゆきます。
今後とも、当ブログと鞆の浦検定をよろしくお願い申し上げます!
さて、
四度目の検定を前に、「鞆」という変わった地名の起源について、今まで触れていなかったので、今回はこれについて諸説交えてご説明します。
※四国にも「鞆の浦」というのがあり、石見銀山付近には「鞆ヶ浦」という地名もあります(豆知識)
ここでは、備後・鞆の浦をご説明します。
医王寺から鞆港へ posted by (C)鳶眼
【鞆の浦(とものうら)】
◎地名の起源
江隈の浦(疫隈の浦)、備後鞆の津、沼隈郡鞆町、福山市鞆町へと変遷して今日に至っている鞆の浦。
<余談>坂本龍馬が妻・お龍に宛てた手紙には「鞆殿」と記されていた。
歴史上初めて地名としての“鞆(とも)”という言葉が出て来るのは、
奈良時代・天平2(西暦730)年に、大伴旅人が九州太宰府から奈良の都への帰路のこと。
詠んだ万葉歌三首が始まりとされ、万葉集巻第三に遺されている。
その注には三首は、鞆の浦を過ぎし日に作れる歌と記されている。
吾妹子之 見師鞆浦之 天木樹者 常世有跡 見之人曽奈吉
わぎもこが みし鞆の浦のむろの木は とこよにあれど みしひとそなき
鞆の浦の 磯のむろの木見むごとに 相見し妹は わすらえめやも
磯の上に ねはうむろの木見し人を いずらと問はば 語り告げむか
その他、万葉集には遣新羅使人が詠んだ歌や作者不明の五首にも“鞆”という地名として遺っている。
【神功皇后との関わり説:一】
1640年代、初代鞆奉行・荻野重富 著「鞆記」には以下のように記されている。
__________
「仁王捨五代の帝、功皇后、西の國へ御幸なりしに、御船を此浦に寄せたまい、浦の名をと勅ありしに、それまでは名も知らすと奏すれば、御船のとも(艢)をつけたまふなれば、鞆とこそいふけれと勅にまかせ、まさしく帝よりくたし給ふ浦の名也と侍りし也」
__________
【地形説】
1748年、福山藩主・阿部正福の命で編纂された「鞆浦誌」には以下のように記されている。
__________
「渡(わたす)の札場より要害の端を見渡せば中高くして其末拳の如し、○に鞆の形と見ゆ、又平(ひら)の明より要害まで海邊(かいへん)弓の如く、地形自然と射具に似たり、往古より鞆と名づく云々」
※○は解読不能
__________
【神功皇后との関わり説:二】
1912年、沼名前神社由来記にはこう記されている。
__________
「人皇第14代・仲哀天皇2年2月6日、神功皇后が熊襲征伐のため下向途中、備後の南の浜(鞆の浦)に立ち寄った時に海中から霊石が湧き出たという。
神功皇后はこの地に社の無きことを知り、ここに斎場を設け、その石を神璽として「綿津見(わだつみ)命」を祀り海路の安全を祈願したのが神社の起源(本来は渡守神社)であり、また、鞆の浦の「鞆」という地名は、神功皇后が再びこの地に立ち寄った時に渡守の神(綿津見命)に奉納した「稜威(いづ)の高鞆」(武具)に起因し鞆と呼ばれるようになった。」
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【神功皇后との関わり説:三】
さらに、
1923年、沼隈郡誌にはこう記されている。
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「神功皇后凱旋の時、戦場にて手に巻き玉ひし稜威の高鞆を神璽として渡守の神に奉賽し玉ひしより地名となる」
__________
【考察】
先の万葉歌にもあるように、天平2(730)年から“鞆”という地名が存在したとすれば、「鞆浦誌」の地形説は誤解と推測できる。しかも、1610年頃・福島正則公により大河島と陸続きになるまでは、美しい孤の形ではなく、「平の明(平の明神山)」もまた陸続きではなかったのだ。
そこで、神功皇后との関わり説の三つの説・・・
「沼隈郡誌」には、11年前に刊行された「沼名前神社由来記」を元に少しアレンジされた一文が記されている。ここで又今度は、神璽が「海中から湧き出た霊石」なのか、「戦場にて手に巻き玉ひし稜威の高鞆」なのか、食い違うところがあるというものの、この二つが曖昧な状態で現在の通説となっている。
【新説】
◎鞆→「戸(と)」「茂(も)」説
戸とは、島と島の間の水が出入りするところ。という意味があり
茂とは、多いという意味。
つまりは、戸が多い場所。という意味から
◎鞆→「渡(と)」「守(も)」説
神功皇后が神璽を奉賽した渡守(わたす)大神から、「わたす」を「とも」と読んでしまった。
という説もある。
◎鞆→「誉(ほむた)」説
応神天皇は別名:誉田別尊(ほむたわけのみこと)。さらに大鞆和気命(おおともわけのみこと)とも記されている。「鞆」は古語で「ほむた」と読む事から、応神天皇と深く関わりがあるのではないか説。
◎鞆→「戸(と)」「毛(も)」説
福山市戸手にある素盞嗚神社。戸手の「手」は本当は「毛」ではなかったのか説
それぞれ、ロマンティックで面白い諸説なのだが、当検定では沼名前神社の由緒に記載されていることを通説として検定を作成しております。
なにしろ、地名が“鞆”と決まった時にリアルタイムで生きていた真実を知っている人々は、もういないのですから。大神さまの由緒を信じます。
ということにしておきます。
鞆の浦の地名の起源は、あまりにも諸説が多いため、これらは検定問題に出題予定はありません。
お弓神事の飾り弓には、「神功皇后」と「その皇子(のちの応神天皇)を抱く武内宿禰」がある。
通説を信じるほかないのではなかろうか・・・?
__________
【お弓神事(ゆみしんじ)】
福山市無形文化財/毎年二月第二日曜開催
◎開催日/平成23年は2月13日(日)予定
※本来は、旧暦1月7日に行なわれる神事
◎開催時間/14:00~
◎料金/入場無料
◎お問合せ/沼名前神社
「お弓神事のすべて」シリーズ
◎「お弓神事」のすべて/其の一
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10741106081.html
◎「お弓神事」のすべて/其の二
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10741150229.html
◎「お弓神事」のすべて/其の三
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10742546184.html
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<2011年トピックス>
【概要】
◎Think鞆の浦:
「全国一斉 鞆の浦検定」を発案・企画・製作・運営
「日刊 鞆の浦新聞」を製作
◎浦民URATAMI:
「鞆史」を発案・企画・製作・運営
「日刊 鞆の浦新聞」を企画・運営
Think鞆の浦・・・鞆の浦の人々を中心に全国区に向けた目線
浦民URATAMI・・・鞆の浦に興味のある人々をターゲットに、その人達から見た・あるいは知りたい鞆の浦の情報発信
◎全国一斉 鞆の浦検定:
「鞆の浦」の由緒ある歴史から、トリビアまでを含む、フリーダム・トレイル・システムを導入した新しい観光案内のご提案としての検定。
鞆の浦検定ブログでは、総合的なご案内と未来に向けてのアイデアを提案し続けています。
ご案内とアイデアは検定問題には出題しません。
◎Discovery! 鞆の浦/鞆の浦研究室:
「鞆の浦」の由緒ある歴史を細かく追求するブログ。
◎鞆史:
「鞆の浦」の歴史年表。
◎鞆の浦クロニクルズ:
旅人目線で製作している、旅人のための「鞆の浦」の観光案内。
出版予定。
◎日刊 鞆の浦新聞:
「鞆の浦」の由緒ある歴史、観光案内を取り除いた、架橋埋立計画とその他諸問題を考えるブログ。
※日刊の他、『週刊』『月刊』『号外 鞆の浦新聞』もあります。すべてThink鞆の浦の製作物です。
鞆津百景/「神功皇后上陸画」の下絵
【紀曽院 藤七:鞆津百景】
書籍『鞆の浦年代記』用の挿絵として制作している“鞆津百景”。
時は弥生時代、西暦200年頃の「神功皇后上陸画」の下絵です。
リトグラフにて本格的な版画として、世に贈り出そうとしています。
背景は、まだ陸続きでない大河島(鯛ヶ島)、福寿堂の建っていない弁天島(百貫島)、福禅寺もまだ建っておらず、現在の西町もまだ砂浜。という時代、神功皇后は三韓征伐の帰路、その子息・応神天皇を抱く武内宿禰(たけうちのすくね)を従え、鞆の浦に上陸した図。
※淀媛さんも描かなければいけないかどうか・・・検討中です。
今後も制作過程をシリーズでお伝えします。
次回は着色編
神功皇后筑紫下向の折奉献し、 名を三降酒と命じ、大酒主の姓を賜った
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10613386130.html
保命酒は京都四条では、こんなキャッチフレーズで売られていました。
まさに、鞆の浦に富をもたらした神功皇后。
入江豊三郎本店の保命酒のラベルには、神功皇后のイラストが描かれています。
十六味保命酒 入江豊三郎本店 900ml 福山市鞆町 特産品【あす楽対応_関東】【あす楽対応_...
¥1,500
楽天
【紀曽院藤七作:鞆津百景/今後のラインナップ】
◎素尊御来訪画
◎淀媛命御奉仕画
◎蜜語橋逢瀬画
◎天木香樹悲歌画
◎伝教大師七堂伽藍画
◎弘法大師鎮国護法画
◎空也上人福禅寺建立画
◎阿闍梨辨祐遷宮改築画
◎平重盛植松画
◎鞆源左衛門正友親子画
◎百貫島物語画
◎法燈国師金宝寺建立画
◎足利尊氏院宣受諾画
◎七堂伽藍炎上画
などなど、写真では見ることのできない鞆の浦に伝わる諸伝説を挿絵にて制作中。
※タイトルはすべて仮称、全百枚で1セットとなります。
紀曽院藤七 posted by (C)鳶眼
<鞆津百景シリーズ/「神功皇后上陸画」の制作過程>
鞆津百景/「神功皇后上陸画」素描
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10765463837.html
鞆津百景/「神功皇后上陸画」下書
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10765511633.html
鞆津百景/「神功皇后上陸画」着色1
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10765512800.html
鞆津百景/「神功皇后上陸画」着色2
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10765514421.html
鞆津百景/「神功皇后上陸画」完成
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10766767877.html
田村藤七作 恵比寿像 posted by (C)鳶眼
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第四回全国一斉鞆の浦検定/開催日程延期のお知らせ
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10834682193.html
第四回 全国一斉 鞆の浦検定POSTER posted by (C)鳶眼
重陽の節句「菊の日」に
第四回 全国一斉 鞆の浦検定
受検期間:平成23年9月9日(金)9時~10月10日(月・祝)17時まで
開催場所:鞆の浦及びインターネット(PDF)で問題用紙配布
※鞆の浦での配布は9月10日(土)予定
http://uratami.web.fc2.com/