季節はそれぞれうつくしいのに

 

じりじり肌を傷める日差しとか生き物の空気

 

湿った雨水と枯葉の腐る匂い

 

冬の耳を刺す凛とした空気

 

私は日照時間に忠実なんだろうか

 

この時期によく立ち止まるからか

 

春がきらい

 

存在するだけで

及ぼす影響がネガティブなものならば

無機物のように転がっていたい

 

その願いを叶えるには春はあまりにも

気だるくて慌しい

 

おかあさんして

守る側であろうとしても

なんだかんだと弱っちい

 

別にそんなこと直視しなくても生きていけるんだけどなあ

 

 

 

以前手術して色んなこと忘れたのは

外的要因じゃなくて

病状って大義名分掲げて忘れる気まんまんだったせいじゃないかと

 

身軽になれたと内心さびしくおびえるも喜んだ自分がいた

 

 

あんまりに都合の悪いことって忘れるからね

そして時間薬によってそれらを受け止める素養が整えば

ぽつぽつと記憶は急な天気雨みたいに戻ってくる

 

 

教室で先生の同情を察して

うまいこと保健室で寝かせてもらったり

 

相手の感情を推察してコントロールできる

自分をあさましい思ってしまったときとか

 

恋をして

桜吹雪のなかでふざけて抱き合ったこととか

 

いらないことばかり蘇りやがりまして困る

 

 

忘れたまんま

薄っぺらでいれたらいいのに

 

酸いも甘いもいらない、

処世術なんて今よりもっと知らないでいたかったな

 

 

 

 

 

 

季節がかわっていくの

うんざりしながら見てる

 

年若いこどもたちには鮮やかな変遷であれと願うものの

 

そろそろ私はどうかここへ置いていって、

 

このまま打ち上げられたくらげみたいになりたいと

どうしても思ってしまう。

 

 

体調を崩したことで仕事の容量を減らしたけれど

一時的にそれなら済ませたい家事を片付けとこうと思っても

結局たいしてやらないで

病院でぼんやり待つ時間ばかりを浪費している

 

 

自分の姿をしたロボットを

遠隔操作しながら景色を見ている感覚がなかなか消えなくて

自治会とかも今はできることをしようと参加を増やして

冗談のひとつも言えるし悪い人はいなくても

部屋の隅のお布団がただ恋しい

つくづく自分勝手で自己完結してしまう性質だ

 

 

誰かと話していても

海辺の生まれでもないのに

沖に船で出たときの海風が抜ける感じ

魚の動きをトレースして泳ぐ

或いは鳥のイメージで急上昇する気流とか

架空の景色を同時再生している

 

 

昔人は母国語で思考する、といったことを読んで

言語に依って文化的な差異や特徴があるといったことを

とても面白いと思った

で、同時に不安になった

言語野より感覚で思考してることが多い自覚があった

 

たとえばそれが孤独とか嫉妬とかに近いなら

感覚のまま言語化しないよう努め

朗らかなものであれば誰かに言葉として伝えたいと思う

 

社会との関わりが増えるほど

思考が言語化して分別を求められる

唯それが面倒だ

 

ずっと昔病的な範囲ではないけれど

しゃべらない、しゃべれない波があって

そういうときは

やさしいひとたちの中にうっかり生れ落ちた

ちいさなこどもの姿形の

作りの粗い異種のように自分を感じていた

 

 

ほかのひとはどうなんだろう

ぜんぜん違うような気がした

ピノキオはどうやって世界の恐怖、克服したんだろうね?

 

それはすごい傲慢なことでもある

 

読むこと、書くことは好きで

言語化することはむしろ厭わないんだけれど

それは多くのことを切り捨てることでもあって

 

多くの感情や情報といったものを贅沢に切り捨て簡潔に固定化してしまう

 

 

ほんとうにたいせつなものは

今日も言葉に換算できないままなんだ

 

 

いくらかきれいにそれらのいくつかを

言葉であらわそうと必死こきしながら

この人生もほかの皆様のご他聞にもれず

ぽっくり終わる

 

私の中にとどまった何かを

伝えることができない、それはもう、どうしようもないことだ

 

センチメント。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

海が好き。

 

 

 

私が産まれた場所は都の下町で京成線が走っている

 

京成線や商店街が好きなのは

 

刷り込みと思っているけれど

 

潮騒がききたく定期的にてもんどりうつのはなんでだ。

 

 

私に体力があればダイビングインストラクターを目指していたかもしれない。

 

大の苦手のフナ虫とか

 

潮とか錆とかリスク度外視しても

 

海のそばに暮らしたいと願った強さに

 

気付いたのは歳をとってからなので叶わない夢かもしれない

 

 

せめて

 

湾岸線を越えてしょぼめの東京湾で海岸線を見る

 

ベンチコートで傍目不審者感

 

若い頃より傍若無人に徘徊できることだけが救いだ。

 

誰にも気づかれないように、廃人のように

 

朗らかなおかあさんでもカラ元気な会社員でもなく

 

楽な呼吸をするために

 

夜中私は歩き回る

 

 

 

 

 

真夜中から明け方、星が消えて薄暗い時間帯

 

そのわずかな刹那が大好きで

 

米津くんの「Orion」のPVみて羨ましくて嫉妬した

 

私は漂流物になりたい

 

 

 

人気のない砂浜での波打ち際

 

ただ寝っ転がりたい

 

水が耳に入って溺れるぎりぎりで

 

打ち寄せられて転がって真夜中から夜明けの水の色と音

 

身体全体に感じられる水圧の感触

 

どんなに素敵だろうか

 

 

 

傍目には通報案件

 

この季節は病院行きか

 

迷惑必至だからしないけれど

 

大人になったらだめだろうか

 

誰もみてないとこでなら

 

おとなげなくても許してもらえないかな

 

 

 

 

旅に出る度夢見ている

 

 

 

地元の子になったらできるかな

 

いつか、いつか

 

 

 

 

 

 

アダルトチルドレンって言葉を知ったのは

 

随分と昔だ

 

 

程度としては

 

薄いグレーと仮定しても

 

やっぱりホワイトにあこがれてしまう

 

 

10代の頃から

 

連れ出してくれるイメージとしての恋愛に憧れつつ

 

会ったことのない父親や義父に似た男性に

 

惹かれる可能性にひどく怯えていた。

 

世の中に安定して優しい穏やかな男性なんていないと思っていた。

 

もしくは出会った私がその男性をおかしくしてしまわないか。

 

母親になりたいと願い、同等になりたくないと思った。

 

連鎖させてしまう、

 

 

 

孤独は物理的にひとりのときより

 

周囲に人がいるときの方が濃く、激しい。

 

さびしいとか生きづらいとか

 

叫び続ける、若しくはそれをなにかしらの作品として昇華させる

 

努力を惜しんだ私には残念な共存という選択肢しかない。

 

 

 

望むのは愛想笑いと抱き合わせの安寧よりも

 

息のできない瀬戸際の恐怖って自覚はあって

 

 

結構いかれてる、でも

 

ひとりが好きだからといってひとが嫌いなわけではないのだ。

 

流されたい消えたい、を死にたいに変質させないことが

 

今の私にできる精いっぱい

 

 

現実っていうやつで

 

妥協の産物

 

 

ひとが好きだと

 

そこそこまともだと

 

元気さを無意識に押し付け

 

こどもを通じて世間にむきになって証明している気がする。

 

 

母はそういう私を

 

似ちゃったかなあ、外面はいいけど偏屈で一人が好きみたいね

 

みたいな風にすまなそうに笑う

 

 

お酒を飲まず読書や歴史の好きな母は

 

漁師町の職人の家に私を引き取る為に後妻にはいった

 

趣味を分かち合えるような人はなく

 

私には母が東京湾に迷い込んだ金魚のように見えた

 

 

理由なくマウンティングとか

 

ひそひそするような人も世間にはたくさんいて

 

例えば連れ子として入った親戚の伯母は

 

義父が酔って話すないことないことを鵜呑みにして

 

母と私を責め立て

 

幼いころから同居の義祖母と伯母が一階の居間で母を悪し様に言うのを

 

おりられない階段の上で私は何度も黙ってきいた

 

 

私が優等生であるほどその風当たりは強くなって

 

母は私を黙って自分の貯蓄から大学進学させてくれた

 

この家から逃げられるように、だったのかはわからない。

 

 

アルコール依存や親と同居する嫁、介護、後妻であること

 

それは経験しなければ決してわからないことで

 

何もしない人ほど口を出し綺麗事で責めるのだ、と

 

もう十分すぎるほど頑張っているひとに、頑張りが足りないという人を

 

私は初めて軽蔑したと思う。

 

 

本家の嫁だし、そもそも本家云々なんてやんごとない家柄だけでしょう

 

何も悪いことはしていない

 

皮肉のひとつも返したれなんていいながらわかっている

 

 

気も弱くない、根性がないわけじゃない

 

きらいなひとだっていっぱいいる

 

周囲にあわせてくるくるいない人の悪口をいうことができない

 

ひとを責める自分に嫌気が差すから反撃も攻撃も苦手

 

下手なお世辞を言えなくても最低限の自分の居場所さえあればいい

 

ただそういう性質をもつだけで

 

その母を私はすきだし、私もその選択で不利益を被ってきても

 

これから変える気はないのだ。

 

 

相手を責める刃は自分に向けてしまう、どうしても

 

人がいいとかそういうことじゃない位はわかってる

 

生きづらい、敵前逃亡ともとられかねないその感受性を私は愛している

 

 

 

いなくなって

 

誰も自分を思い出してくれなくなっても

 

ちゃちな世間なんていらない

 

 

大切に思う人ほど甘える、頼るはむずかしい

 

自己評価が歪であっても

 

せめてこどもの未来には連鎖してくれるな、と祈りながら

 

生きるしかないのだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近よく歌っている

 

時代の色があるように

それぞれのセンスがあるように思う

 

私が何かを創り出す仕事を選んでいたら

この中途半端な年齢の今

何を感じて表現するんだろう、とか

他人事につらつら考えている

 

演劇も歌も辞書を読むことも好きだ

けれど必死で時間をひねりだす気もなく

誰かと定期的に会う甲斐性なんて全くない

 

こどもを誇らしく思いながら

ひどい言葉をぶつけたり

般若のような表情であたりちらした記憶もある

彼らは彼ら自身で彼ららしく生き抜いてきた

 

働き続けてきた

したいことから出来ることへシフトしつつ

転職回数も結構多い

 

さて、

老いたとき私は何を誇るのだろうか

ひとりぼっちになってもそれを寂しいとは思わずに

ただ前を向くより後ろを見ることが多くなったことを

皆おなじなんだと自分に言い聞かせながら

さびしがって泣くだろうか

 

 

 

 

長男は漫画好き

紙媒体のほうが好きだけど、とスマホでポイント器用に貯めて読んでいる

漫画好きの私の知らない漫画もよく見つけてくる

 

次男はオンラインゲーム好き

忙しい中ラインで通信しながら

部活を越えていろんな仲間たちとはそこが遊び場

専門用語にもはやついていけない

 

娘両方とYoutube好き

ボカロ曲や歌い手さん、売れる前に見つけてくる

ドラマやアイドルに疎い癖に

お友達つきあいをちゃんと出来ているのなんかすごい

 

彼らの世代は息をするように

SNSで複数のアカウントを持ち

好みは細分化され

例えばヤンキーと呼ばれる人が出る時代のドラマ(今日から俺は)とか

現役世代の親と全く違う異世界物をみる見方

 

 

同じ川の違う水流に生きてる

 

 

手術のせいか原因はわからないし

自然なことかもしれないけれど

未成年の頃の記憶が私には少ない

それを知る友人知人が教えてくれる私で記憶を再構成している

フランケンシュタインのようなつぎはぎだけれども

 

彼らの年齢の頃

漫画家になる夢は今より近かった

ライトノベルも新井素子さんとか氷室冴子さん、星新一さん吉本ばななさんetc

ゲームは黎明期、喫茶店にあったスペースインベーダーとかやった

初めてのレコードは別居していた母が持ってた子連れ狼を持ち帰り

子守歌代わりに自分でかけていた

(ビートルズより旅芸人好きの母だったから)

 

 

色々と違うね

それはある程度は寄せていけても

センスとなれば相当に厳しい

 

時代にぴっちりと一致して寄り添えていた感覚は失って久しい

それに卑屈にはならないけど

羨ましくおもう時もある

 

失った恋とか思い出して泣くのは

みっともない承認欲求の亡霊か

謳歌すべき人生の醍醐味ってやつか

 

わからないまま今日も生きています