数年、引きこもり、世間でよくいう自分探しをしていた私は、
やっと、仕事をしてなくても、稼いでなくても、
それでも私は、ここに存在する価値がある、そう思えるようになった。
等しく、それは自分以外の存在も。
そんなことがわかってきて、
それまで取材でさんざん受けたさまざまなワークで気づいたことが、
やっと血となり、肉となりはじめて、
これからは、瞑想や本を読みながら、
精神世界を理解していけばいいや、そんな気持ちでいた。
そこに、一枚のはがきが届く。
それは、夫がこさえた一千万近い借金の返済を促すものだった。
何となく、家の空気がおかしいことには、
薄々気づいていた。
けれど、そこに向き合うのが怖かった。
見ないふりをしていた。でも、それが目の前につきつけられた。
夫(元)は、怪しい借金もしていたようで、
変な電話がかかってきていた。
多重債務から逃げていたのだ。
そのため、どうにかする覇気はなかった。
あの時の、私は数年、引きこもっていた私ではなかった。
まず、親しい先輩に相談し、弁護士さんを紹介してもらい、
債権整理にとりかかう。
夫の会社の社長と会って、周囲でお金を書いていた方々に、
それを返していく算段をし、
一方ですぐ働ける仕事を探す。
仕事は、2つ先の駅にあったコールセンター。
そこで働きながら、月々返済していくという生活がはじまった。
結局、ほぼほぼ5年かけて完済。
ほっとするのもつかの間。
そこに、9歳で生別し、その後一度も会うことのなかった父の、
民生委員さんから連絡が入り、
父が動けなくなって、一人で生活するのが無理になっていると。
父を頼みたいという連絡があった。
ここから、また、私の運命は大きくカーブを描くことになる。
妹と、島根に住んでいた父のところに通い、
父の受け入れ先を探す。
父の面倒をみてくれていたはずの親戚の人は、
毎月の年金をほぼ巻き上げていて、
自由に出入りできる父の家から、
いろいろと持ち出していたようだ。
老人一人住んでいた家なので、
たかが知れているとは思うけど、
なくなったものもあったようだ。
それは、私や妹には関係ないものであったけれど、
何だかとても損をしたみたいな気持ちになっていたら、
民生委員さんが間に入って、返却されることとなった。
その方が見覚えがあった古銭や古切手がそれで、
私は今もそれを父から預かった気持ちで保管している。
そんな生々しいやり取りの中で、
父は米子の施設に入り、その後、横浜の施設にうつった。
少し地方の症状が出ていた父は、
私たちが帰うときに泣くようになり、
そうそう頻繁にもいけないので、
移転を決めたのだ。
移転して、二年。父は施設でなくなった。
父の葬儀をして、生前からの希望通り、
島根のお寺に永代供養をした。
当時、すごく忙しかったのだと思う。
実は、このころの記憶ははっきいしていない。
自分の中で嵐のような時が過ぎ去ったら、
私には、たま、自分がどこに進むのかわかあない、
空洞の時間がやってきた。
またも、変化が始まろうとしていたのである。