前からのつづきです。
平均的な人間の寛容度、
許容量を扇子に例えて90度とすると、
イライラしてストレスを感じる人は、
心の広さが20度、30度、40度というように
狭いのかもしれません。
そして、自分の価値観の外にいる人を、
自分の価値観の中に連れてこようとする。
しかし、その人たちをコントロール
できないときにイライラを感じます。
そのとき、もう一つの解決方法があります。
そこにいる人を、「私」が認めてしまう。
すなわち、受け入れるということ。
「私」の心が広くなってしまったら
何も問題がない。
今、心の広さが、60度くらいの状態で、
まだ許せない人や自分の価値観の
外にいる人が現れたとします。
そういう人がいてくれたお陰で、
「私」は寛容度・許容量を
広げることができて嬉しい、
有り難い、と思うと心が広がります。
さらに、自分の価値観の外にいる人を
全部受け入れてしまったら、
心の広さが180度になるでしょう。
このように、180度に広がった人を、
「ボーッとした人」、あるいは
「ボート部の人」と呼ぶことにします。
つづく
平均的な人間の寛容度、
許容量を扇子に例えて90度とすると、
イライラしてストレスを感じる人は、
心の広さが20度、30度、40度というように
狭いのかもしれません。
そして、自分の価値観の外にいる人を、
自分の価値観の中に連れてこようとする。
しかし、その人たちをコントロール
できないときにイライラを感じます。
そのとき、もう一つの解決方法があります。
そこにいる人を、「私」が認めてしまう。
すなわち、受け入れるということ。
「私」の心が広くなってしまったら
何も問題がない。
今、心の広さが、60度くらいの状態で、
まだ許せない人や自分の価値観の
外にいる人が現れたとします。
そういう人がいてくれたお陰で、
「私」は寛容度・許容量を
広げることができて嬉しい、
有り難い、と思うと心が広がります。
さらに、自分の価値観の外にいる人を
全部受け入れてしまったら、
心の広さが180度になるでしょう。
このように、180度に広がった人を、
「ボーッとした人」、あるいは
「ボート部の人」と呼ぶことにします。
つづく