うなぎ
最近観る映画にことごとく役所広司がでてくる。
日本の巨匠シリーズの有名どころを観直しているのだが、やっぱり昔のほうがいい。
演技の質が高い。みなさんとてもお上手だ。
昔の俳優に共通して言えることは『映画の演技とはリアルかリアルじゃないかが問題なのではなく、その場を成立させることこそが、映画としてはリアルなのだ。」と思わされるということだ。
たしかにそれを僕は「お上手」という言葉で表現する。
僕がふだん実生活で人の演技を見て「上手いなぁ」というときそれは決して褒め言葉とはいえない。
たしかに「上手い」んだけど、それは「僕のこころをうたないがまぁリアルなんじゃない?」っていう意味での「上手い」である。
しかし、昔の俳優の演技は「お上手」である。
なかでも、「うなぎ」という作品のなかでの俳優さんの演技は「お上手」という言葉がとてもふさわしいと思う。
人間ひとりひとりの個性が生きていて、ただ一人の名優の演技が光っているのではなく、すべての俳優の演技がこの映画の全体の良さを引き上げ、「映画」を魅力的に構築している。
メッセージもとてもいいし、観た後に「あっぱれ」である。
今村監督「あっぱれ」である。
最近・・・というか、いつも思っていたことなんだけれど、僕の好きな映画の嗜好はつとめて王道である。
この「うなぎ」もカンヌ受賞作品だし、良いと思う映画はやはりなにかしらの「賞」を獲っているものだ。
いや、ただそんな映画ばかり観ているだけかもしれない。僕が観た映画の絶対数はまぁ多くはない。
まぁでも、ずっと憶えているような映画はやはり名作なのだ。
そして好きな俳優も最近はやはり王道になってきた。
アメリカの俳優で好きなのはアカデミー賞俳優ばっかりだし、役所広司はやっぱりいいと思うし。
心底ベターな自分の嗜好に才能のなさを感じる。
やはり、観客でしかないのか、僕は。もしくは、プロデューサーなどのにせもの。
まぁでもいいものはいいよね。いいものはいいんだよ。
「男はつらいよ」はいいよ。
泣ける。
でも、「男はつらいよ」は決してベタではないと思う。
俺待ってます。
「今日は無理。批判的になっているから。」
相手の適当な予定に乗っかってはだめ!
やれるときにやれるように準備しておかないとだめ。
所詮口約束は口約束。
自分の人生を人にあずけるなんてやってられない。
自分で切り開いていかないと。
誰だって褒められるのが好きだ。
気に入ってるといわれた奴を使いたい。
役者なんてどんな監督であれ、一応は出てくれるか誘うもので、大概がでてしまうんだから、つまりそれは役者は監督に媚びる必要はないわけで、つねにオーディションで勝ち取っていかないといつも卑屈な立場においやられてしまうんだろう。
確かに我慢も必要だ。
待つことも必要だ。
準備も必要。
ロケハンも必要。
だけどもメールぐらいかえせや。
そんなに忙しくないだろうに。
監督として演出家として嘘をつきたくない、隠さないといけない部分もあるかもしれない。
がしかし!役者とのコミュニケーションを怠ってはいけないんじゃないのか!?
僕は絶対怠らない。
イエス!アイキャン!
ヒマジン
結構、暇な毎日をおくっている今日この頃、大学も卒業したのに、アルバイトもあまり熱心にするわけでもなし、
東京生活(問おう今日って誤変換した(笑)すっげぇ皮肉(笑))をエンジョイしている。
同じ夢を追う仲間に救われ、彼女に救われ・・・。
大阪にいる頃は自分の家に人を呼ぶことなんてありえなかったのに、最近はしょっちゅう呼んでいる。
ひとりでいるより、だれかといたいなんて、なんてすばらしい気持ちのありようであろうか!
普通に、だれにも自分を虚飾することなく接することが出来ているように思える今日この頃・・・。
映画を観たり、本読んだり、カフェでお茶したり(昔は恥ずかしくてカフェに一人で入れなかった)、おもしろいお店に入ろうとしたり、洋服見たり靴見たり音楽探したりエトセトラケセラセラジャンバラヤホルモンマキシマム。
ただ単純に楽しい。
人間が人間として向き合おうという人達がまわりにいるからだと思うんだ。
ほんとうにあたたかい。
僕達の共通語はこうである。
「な~んか・・・なんかいいよね。・・・やっぱりいいよ。・・・すごく好きだ。」
これで、あったかくなれる。
何時間でもしゃべっていられる。
その『なんか』のために僕の人生のすべてをささげます。
それこそ、ぼくを総動員して。
ぼくぼくぼくぼくぼくぼく~
ポクチ~ン
原
西
産
欲しいもの
一応毎日ブログは開いてみるんだけれど、途中までは書いてみるんだけれど、少しでも脚色したりエンターテインメント性が入っていると感じると消去したくなっちゃうんで、更新せずじまいでした。
僕が求めるのは、その時のフラットな気持ちをスパッと書きなぐっておくためだけだから、このブログは。
できるだけうそのないものにしたい。おもしろくないものにしたい。
何か毎日続けられるようなことをしたいなとは思っていて、それをブログ更新にしたいと考えたけれど、いざやるともうもったいなくて書きたくなくて、脚本にいかせるじゃん、映画に活かせるじゃんっていうスケベ根性満載になってしまって。
役者をしているから、監督と接するときは身構えちゃってかっこつけちゃって身構えちゃって差別しちゃって、僕だったら使いたくないような役者になってる。
「つかってくださいよ~つかってくださいよ~まじで~」
をオブラートに包んでぶつけているいちいちスケベ根性を発揮した自己嫌悪に陥る最近の自分である。
最近興味あることは、北村龍平と花村満月とパスカルと井伏鱒二である。
顔が興味深い。
僕は絶対にこうはなれない人である。
しかし?だからこそ?
その言葉にいちいち引っかかって気になってついつい時間を忘れて読んでしまう。
今、僕が欲しいものは高性能のビデオカメラが一番ではあるが、
まずは机と椅子がほしいものである。
寝そべりながらパソコンに向かっていてはそりゃ文章も偏ってくるでしょうよ。
しかし?だからこそ?
今日も驚くほどの快便である。
おどろくほどの。
最後に少しのエンターテイイメント性をほどこした。
それは、
「しかし?だからこそ?」
である。
おち
まさと
ほぼ完成
でけたよ、でけた。おおまかなストーリーがでけた。
映像撮ること思うとこんなにもこころ踊るんだね!
ほんと、あれだ。記憶力の勝負だね。
簡単に手に入るものは簡単に失うっていうのはほんとっぽいけれど、僕自身が長い年月かけて記憶し続けていたことの総決算だから、簡単にでてきたものではないはずだ。
これで成功したとしても十分その対価を得るに値するであろう・・・と思いたい。
役者をしてるけれど、どんどん作る側に興味がいってる。
僕はロマンチックで飯を食うんだ。
だれかにつたわるといいな。
適正
絵は出てくる、絵は出てくるんだけれど。
言葉が出てこない、会話が思いつかない。
短い時間だと映像と音で魅せられる。
でも、長時間となると、それでは無理。
映像として気持ち悪いもの目を背けたくなるようなものに挑戦したいというのも紛れもない僕の真実ではあるが、まずは僕の好きな映像を撮ってみよう。スタートはそこからだ。
それはこの前学んだところでしょ。
だから、一人称の視点でいくことにするよ。
切らなければいけない。ばっさりと。うん?はたしてそうではないのか?
つたえたいところのまわりをけずりとっているのか、イメージを違う被写体で置き換えているのか、そのそちらでもなく
ただ伝えたい映像なのであろうか?
その映像を僕がただ見落としているだけであろうか。
十分間で伝えられることの限界はどれほどであろうか?
適正だ。適正でなければいけない。
いろいろ差っぴいた適正だ。
そして伝えたいことはただ一つ。
最後の最後に分かればいい。
ただただシンプルに。
ハチミツとクローバー
もよかった。泣いた。
すごく難しいことに挑んでいるなぁと・・・。
ほんとに絵の勉強している人やファッションの勉強している人がこの映画を見たら、感動するのだろうか?
感動ポイントはそんなところではなく、たった一つしかないが。
ものすごく、人間としての強さを感じた映画だった。
あんな姿勢ではたして人と対峙できるだろうか。
シンプルでいることの難しさを意識させられました。
こういう映画がすきなんだって。メッセージは一つでいい。
そこから派生させてものごとを考えさせる。
品があって、ずっしり残って、最後の最後でぐっときちゃうんだ。
スピッツのあの曲きいただけで、もうなんか思い出しちゃうよ。
勉強になりました。
みられてくれよ
才能というのは才能を感じ取る能力なのであろうか。
新人監督達が撮った映像作品を観た。短い時間であったが差は歴然だった。
好きな映画、嫌いな映画、何も感じない映画、適当に作った映画、熟考されているだろうなという映画、センスの光る映画、音楽の素晴らしい映画、わからない映画・・・。
でも、映画は監督のものだねって思った。
素晴らしい演技は素晴らしい作品のなかにある。当たり前だけれど。
切り取り方、繋げ方がやっぱり上手い。
僕が気に入った監督は、自分から出たいとオファーしたのは、二人。
こんなところで判断するのは、まだ時期尚早かもしれないけれど、もう、まったく興味のなくなった監督もたくさんいる。
監督というのはほんとに大変な職業だなぁと実感した。
役者ももちろんすぐ見定められているだろうが。
ある仲間が「もう役者やめようかな。」と言い出した。
たった一作品にでただけで、自分の才能のなさに愕然としショックでやめたくなったとそういう。
僕はその作品が彼女にあまりにも合わないだけだと、監督に対しても不満をもちながら、撮影に望んだことも話から察することが出来た。
緊迫した雰囲気でもなかったらしい。作品の出来もひどい内容だった。
それでも、彼女は「それでも、できるのが役者でしょ。」とそういった。
それはそうだろうが・・・。
僕はつまらない監督の作品には絶対出たくない。
監督とはほんとに気を抜けない仕事だ。もちろん役者もね。
だからこそおもしろい。
こいつらは貪欲にすべてを見たいと欲している。いろんな角度でいろいろ見ている。
すべてが目だ。
目というかちかんを取り外したときにみえるものはなんだろう。
あぁつくりたいつくりたいえんじたいえんじたい、もっともっとだれかおいこんでくれ。
みてくれ、みさせてくれ、みられてくれよ。
ゆれる
ほんとうに素晴らしい映画だ。
最後の最後で泣けた。集中も途切れることなく、見っぱなし。
「あぁ、俺監督になろう。それで、恩返ししよう」と思った。
オダギリジョーももちろんいいし、香川照之さんはもっといいけれど、やっぱりこれは
西川美和監督の才能にスポットをあてていただきたい。
日本映画の素晴らしさが存分に出ていると思う。
是枝さんや岩井さんに比べると、もうちょっと、きりとれる部分はあるかもしれないけれど、最高によかったです。
「31歳かぁ・・・あぁすごいな、こういう境地に達していたいなぁ」と思った。
どういう切り取り方をして、なぜ、こんなにもずっしりとわけのわからない感情でいっぱいになるのか。
こんなにも考えが深く集中して四方八方に飛躍していくのか。
反省し、前向きになり、行動を促し、発奮、ビタミンとなる。
観終わった後、感じていない人達が腹だたしかった。渋谷の雑踏で上辺の欲望にのみこまれている人達を見ると腹立たしい気持ちになった。
おなかがすいた。
もっと感じたくてセックスしたくなった。もしくは、才能に現実逃避したかったのかもしれないが、
前者であったと思いたい。
どんなすばらしい映画に出会っても、小さなことが僕を悩ませるし、
単純な欲望に帰結してしまう自分がいる。
忘却を単純なテーマとして、撮りたくはないしそれははたして忘却であろうか。
こういう映画が僕が撮りたい映画に近いです。