歴史の裏
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>

妻Ⅳ

  結婚後

 

 新居は「偉大なる田舎都市」郊外の新造団地。名鉄の駅から約1㌔。団地の裏側は現在は広大な道路になっているが、当時はせせらぎが流れていて、夏には蛍がたくさんいた。駅からせせらぎ沿いに歩き、蛍を取って蚊帳の中に放つ。とても幻想的な新婚生活だった。私は編集の内勤。夕刊番以外は昼頃起きて夕方出勤。今と違って新聞は未明まで作っていたので毎日深夜帰宅。時には4~5時になり、夜が白々と明けるようなこともあった。妻は私が帰るまで団地内のブランコに乗って待っていてくれた。「そんなことしたら体を壊す」と言ってやめさせた。

 2人はものの考え方も世間への姿勢もほぼ正反対。私は世の中のしきたりに反発して不合理なことには従わないが、妻は世のしきたりをきちんと守る。私は仕事が大好きだが、妻は家事が大好き。フルタイムで働いていた時期も、育児、炊事、洗濯、掃除をすべてやりきる。東京に帰って私が建てた家は二階建て、両親と同居していたことから広い。リビング、食堂、台所が別にあり、居間のほか寝室4室もある。それを毎日掃除して拭き掃除までこなしていた。これでは身が持たないので、私が手伝うからと言って掃除は週1にさせた。

 

旅行好きは共通

 何もかも違うが、共通点は旅行好きなこと。私は本当は一人旅が好きなのだが、妻はとても寂しがりや。結婚してからは仕事や仲間との旅行以外は妻との旅行だった。海外を含めいろんなところを旅した。私は車を運転できない(単身赴任の時免許を取ろうとしたが、私が極端な不器用なので、「免許を取ったら人を殺すからやめなさい」と言って妻が許してくれなかった)から、妻が免許を持っている間は妻の運転で、その後は旅行会社のツアーに参加していた。日本なら都道府県のほとんど(私は仕事を含めすべて)へ行った。

 私は昔は酒を飲めず、付き合いで飲むようになったから、一人で飲む習慣はなかった。妻は若いときには飲まなかったが、私が飲むようになってから飲むようになった。妻が「飲もうか」と言った時だけ飲む。妻はキッチンドリンカーだから酒を置いておくとすぐなくなるから家に酒は置かない。妻が飲みたいときには私が買いに行く。ロング缶2本とワイン1本買ってくるが、妻が6割は飲む。妻は魚大好きで3度食べてもいいくらい。妻が会社の飲み会で夕食を一人で食べることになった時、「寿司でも取ったら」と言った。「女房がいないに何で大嫌いな魚なんか食うか!」と抗議すると、妻はきょとんとしている。私は魚が大嫌いで「サバの味噌煮を食べる人とは結婚しない」と言っていたのに、どういう因果か魚好きと結婚してしまった。2人で外食するときは妻に合わせてほとんど寿司屋だったから、私が魚を嫌いなことを忘れてしまったのだろうか。

 妻は人に好かれる。知り合うと付き合いたい人がたくさんいるが、妻は付き合うのが嫌いだ。それは極度に気を使って相手を不愉快にさせないためで、本人はへとへとに疲れてしまうようだ。「自分を飾らず裸で生きていけばいいじゃないか。それが嫌な人とは付き合わなければいい」と言っているが、できないようだ。

妻Ⅲ

  新婚旅行

 

 58回目の結婚記念日は無事迎えられたが、永久の別れが近い妻との思い出

 新婚旅行は本土復帰前の沖縄と南九州。パスポートを取って行ったので、これが最初の海外旅行。通貨は米ドル。沖縄は3泊4日だったと記憶しているが、旅費がとても安かった。4日間ガイド付き、2人でネット144㌦。当時のレートは360円だから51840円。私の月収より安かった。ガイドは那覇空港に車で迎えに来てくれた。一応推奨コースはあったが、こちらの要望でどこへでも行ってくれた。妻は美粧院(そう呼んでいた)にも行った。一日は庶民の生活が知りたいとガイドと別れバスに乗って中城城跡へ行った。沖縄旅行ではここが一番心に残った。古い城跡とエメラルドグリーンの海とのコントラストが絶妙だった。首里城は正殿が戦災から復興しておらず、守礼の門だけで平凡な城跡だった。面白かったのはバスの運転手がサンダル履きで運転席の後ろに自分のシャツをハンガーに架けて干していた。当時はそれが当たり前のようだった。

 国際通の蛇皮製品の店で土産を見た後、店続きの工房で製作工程を見学した。店から工房へは靴を脱いで間のすだれをかき上げて入った。振り向くとすだれはニシキヘビの皮だった。妻に「蛇だよ」と言うと、「キャー!」と大声を上げ、裸足のまま店の中を突っ切り約20㍍先の大通りまで駆け抜けた。店の人は何が起きたのか分からなかった。私は知らなかったが、妻は「蛇」と言うだけで身震いするくらい大嫌いで、絵を見るのも嫌。私が土産を見つくろっていた時は遠くにいて見ないようにしていたらしい。息子が小学校高学年の時にバレンタインデーにはたくさんチョコレートをもらってきた。冷やかされるのが嫌だったのか、チョコレートを入れた机の引き出しの一番上に蛇皮のベルトを置いていた。妻は引き出しを開けられなかった。

 帰りに30㌢ほどの巨大なパイナップル(当時はパイナップルは本土ではほとんど見られず、大変珍しいものだった)を2つ買い、長い葉を持って移動していたが、宮崎空港の植物検疫で葉を切られてしまった。当時は沖縄は外国だから葉についている虫を持ち込んではならないという理由だった。葉を取られたので持ち歩くのに難儀した。宮崎の都井岬ではホテルの人が「やせい馬がいる」と言ったので、妻が「安い馬なら買って帰ろうか」と言った。妻は野生馬の存在を知らなかった。         (つづく)

妻Ⅱ

  出会い前後の思い出

 

 妻との別れが近いことは9月18日付で書いた。今のうちに、妻との思い出を記しておきたい。

 

全舷

 出会いは、今風に言えば合コン。かつて新聞は年中無休で、新聞製作をしないのは元日と5月5日(なんでこどもの日なの)と秋分の日の年2回の新聞休刊日だけ。それ以外の日は誰かが仕事をしなければならないから、その2日は特別な日だ。留守番だけ置いてすべての職場が羽を伸ばす。それを「全舷」という。旧海軍が使っていた言葉を引用したといわれる。旧海軍では港に着くと乗組員の半分が上陸することを「半舷上陸」と言った。実は海軍は全員が上陸することはなく「全舷上陸」という言葉はなかったが、新聞社は全員が職場からいなくなるので「全舷」と言った。

 その日は職場ごとに全員参加の親睦旅行だった。行先は車で帰れる場所が必須。とてつもない事件が起きたら全員が帰れなければならないから、天候によって帰れなくなる船や飛行機を使うのは厳禁。離島や、本州から北海道、四国、九州は旅行先に選べない。「親睦旅行」と言っても、全員が集まれるのはその日しかないから、ハチャメチャのどんちゃん騒ぎ。全舷幹事は客室にある掛け軸や置物などは事前にみな撤去させた。そこそこの旅館だと結構な物も多く、破損したら弁償できないほどの額になるからだ。いろんな伝説がある。どうして上ったか知らないが、二階へ上る階段の裏側にへばりついていた人がいた。酔っぱらって温泉に入りそのまま浮き上がってしまった人もいた。その職場は次の年は全舷中止。

 

全舷ボイコット

 1964年東京オリンピックへ備え例年に比べ大量採用したのが私の入社一期下の人たち。集団ができており、彼らは「おじさんたちとの飲み会なんてバカらしい」と全舷をボイコットすることにし、一期上の私にも誘いがあった(後に全員参加が慣行だった全舷ボイコットは社内で大問題になった)。社内の女性に声をかけ、男性と同数の女性を集めて合同ハイキングを企画した。行き先は揖斐峡。人造湖でカップルがボートに乗った。

 どういうわけか私が最後になり、トイレに行っていて乗り遅れた女性が私のボートに乗ってきた。私はボートを漕ぐのは初めて。漕ぎ方も分からないうえ、生まれながらの極め付きの不器用。ボートは真っすぐに進まない上、水がバシャバシャ体にかかる。対面に座っていた女性が「私が漕たい」と言って代わった。後で分かったが、この日のために新しく縫った服(当時は自分で縫う女性が多かった)を着てきたのだそうだ。新調の服がびちゃびちゃになったからだという。そして、時間までに係留場所に戻れず、ボート場の係員にモーターボートで迎えに来てもらう始末。女性は「この人は私がいなければ生きていけないかもしてない」と思ったのか。結婚して確かめたが「そんなことはない」と否定していた。

 

食事を誘った人の友達

 その後2人の関係が進展したわけではない。職場もフロアの違うので出会いのないまま時が過ぎていった。当時、私は新聞編集を担当する内勤で、宿泊勤務も多かった。宿直明けに洗面所で顔を洗っていたら、労組書記局の女性と出会った。宿直明けは事件さえなければほぼ正午に退社できた。一人で昼飯を食うのは退屈だったから、彼女を昼食に誘った。その女性は独身男性の中では「あんぱんのへそ」のあだ名で呼ばれていた。丸ぽちゃのそれなりに可愛い人だった。何回か一緒に食事をしていたが、ある日、彼女が友達を連れてきた。それがボートの女性だった。しばらくは3人での食事が続いたが、そのうち、私はボ-トの女性だけを誘うようになった。背はそれほど高くはなかった(153㌢)が、スタイルがよく独身男性の間では、当時流行った「トラグラ(トランジスタグラマ)」とあだされていた。高校を卒業したばかりの世間ずれしていない純朴さがあり、子供のように可愛かったからか、女性仲間からは「コルコちゃん」と呼ばれていた。当時薬局の前に置いてあったコルゲンコーワの人形で、頭を叩くとコクンコクンとうなずくかわいらしい人形が「コルコちゃん」。

 彼女は初め何となく遠慮深かった。後で分かったが、書記局の女性は仲間に、私から結婚を申し込まれたと言っていたらしい。当時「偉大なる田舎」では、男女の交際自体が異様な目で見られていたのだろうか。私は退屈しのぎに昼飯に誘っただけなのに、彼女は特別なことととらえていたかもしれない。そういえば、このころ、こんな体験をした。若い女性の集まりにゲストとして呼ばれた。20人くらいの出席者が「夫の気の休める家庭をつくりたい」と異口同音に言うものだから、私は「あなた方はどこで気を休めるのですか」と聞くと、「そんなことを言うのはおかしい」と袋叩きに遭った。今の人たちには信じられないだろうが、当時の「偉大なる田舎都市」はそんな雰囲気の街だった。

 ともかく「コルコちゃん」との交際が続き現在に至った。        (つづく)

   別れの時近づく

 

昨年肝がん発見

 10月に結婚58周年を迎える。それと前後して妻との永遠の別れが訪れようとしている。

 2023年ごろから妻は腰の痛みを訴えて近くの整形外科に通っていたが、もしかすると内臓かもしれないと、2024年3月、行きつけの内科を受診、超音波検査で肝臓に腫瘍が見つかったため、その日のうちに大学病院へ。CT検査の結果、肝臓に93ミリ(現在は110ミリ)の腫瘍があることが分かった。いろんな検査をしていたが、腰の痛みの原因は分からないまま。4月23日になって腰が激痛に見舞われ、急遽入院。抗ガン治療をしていたが、骨髄への転移が分かり、連休前の5月2日深夜に手術して骨髄の外に出ている部分だけがんを切除、がんが神経に触れないよう背中にチタンのボルト8本を埋め込んだ。 その後、抗がん剤を投与すると副作用で吐き気がしたり、嘔吐したりして食事ができず体力が落ちるので、抗がん剤を替えながら入退院を繰り返していた。

 

肺に水が貯まる

 2025年7月3日に2番目の抗がん剤の服用を休止して体力を回復し、新しい抗がん剤を服用するため9月16日に入院予定だったが、3日に息苦しくなって近くの内科を受診すると、レントゲンで右肺が真っ白。救急車で大学病院へ運ばれ緊急入院。がんが肺に転移しているという。肺に水が溜まっているので肺の水を抜いている。16日から痛さと麻酔薬のせいか意識がもうろうとしている。まともな会話ができない。

 水は間もなく抜けるというが、担当医師によると、今服用している3番目の抗がん剤が効いて腫瘍が小さくなるかもしれないが、また水がたまるかもしれない。体力も衰えているので何が起こるか分からない。万一の時の措置を聞いておきたいという。17日に医師はすべての医術を尽くして一日でも延命するのか、延命はしないのか聞きたいという。私と息子は「苦しむために長生きはさせたくない」から延命措置をしないように指示書にサインした。

 今後は抗がん剤の効き目を期待しつつ過ごすしかないが、その時が迫ったら緩和医療病棟へ移るか自宅へ戻るのかの選択を迫られている。妻は先祖の墓がある長野県木曽福島へ墓参したい望みを持っているが、叶えられそうもない。68年間共有した夫婦の生活は終わりを迎えようとしている。

 

方向が違う2

 妻と私は恋愛結婚というわけではない。付き合いが長かったので結婚することになった。今なら結婚しないで付き合いを続けることもできるかもしれないが、昭和40年代では、未婚の男女が結婚もしないで付き合うことは親族も周囲も認めてくれない。持てない私は付き合ってくれる女性が貴重だったのだろう。妻は何を聞いても答えを持っている私を「先生のようだ」と言い、一緒にいると安心できたのかもしれない。だから、妻も私も「どうしてあなたと結婚したんだろう」と言い合う。よく「生まれ代わってもこの人と結婚したい」という人がいるが、私たちは「来世ではあなたとは結婚しない」と言っている。よくやってきたと思う。たぶん、私が辛抱強かったというより、面倒くさがりで生活を替えたくなかったからだと思う。「破れ鍋に綴蓋」というがどちらが破れ鍋で、どちらが綴蓋なのだろう。

  「戦友だ」という夫婦がいるが、私たちはそれとは程遠い。2人は人生観も性格も全く違う。妻にとっては一番大切なのは家事だったのか。かなりの期間外へ働きに出ていたが、家事をやっているときが一番生き生きしていたのではないか。家事に疲れたとき読むのが本や新聞。いわゆる息抜きのためにある物だ。それに従事している人が命をかけているなんて頭では分かっても、一生理解不能だったのだろう。だから、私のことを何もしないと言っていた。妻にとって「何かをする」とは家事のことだ。人にものを聞き資料を集めて記事を書くなんてことは「何かをする」範疇に入らない。最近私が「俺はジャーナリスト」だといったら、「だって会社を辞めているじゃない」と言う。彼女にとって「新聞記者は給料をもらっている労働者で、給料をもらわなくなったらジャーナリストではない」と思っているのだろう。

顔なしインタビュー

 顔がなければ本当かどうか

 

 最近のテレビは事件などで顔を出さない人にインタビューするケースが多い。これでは、その映像が本物かテレビ局が作ったものか分からないではないか。

 

要らない談話で顔なしとは

 顔を出さない理由はいろいろあるようだ。事件の加害者の関係者、被害者の親族などはSNSによるバッシングで2次被害を受ける可能性があるからだろう。でも、事件現場近くの人のインタビューで顔を出さないのはなぜか。中には「外へ出たら消防自動車がいっぱい来てた」なんていうバカな談話でも下半身だけで顔を見せない。こんな談話は元々要らない談話だ。それなのに顔も見せずに放映する側の気持ちが分からない。

 

顔なしではインチキと思われる

 NHKの「あさイチ」では、食べ物やストレッチの効果を検証する番組が多い。ある朝、顔を出さない治験者がいた。何のためにこの人を放映しているのか。「ビフォー」「アフター」での違いを見せるのに、顔なしでどこのだれかも分からない人を出しても前述のようにテレビ局が作った人かもしれないではないと思われる。

 あるいは出演する人が急に出られなくなり、テレビ局のスタッフを急遽出演させたので顔を出したくなかったのかもしれないが、そんな演出は辞めた方がいい。3人必要なのに2人じゃ格好つかないという理由かもしれないが、インチキ(と思われてしまう)より1人減ったっていいじゃないか。なぜ、顔を出さない治験者を出演させるのか。これではエクササイズの効果そのものがインチキとみられてしまいかねない

葬儀

 これもGDP

 

死後も差別

 きょう(8月21日)妻の知人の奥さんの葬儀に付き添いで参加した。斎場は「桐ケ谷」という東京では老舗の名門。有名人の葬儀がテレビなどで紹介されている。驚いたのは利用料金にすべてランクがあることだ。まず火葬部屋。知人の部屋は「特別殯館」。いかにも豪華だ。調べると、この部屋は16万円。このほかに特別室(12万3000円)、普通炉(9万円)と区民葬(59600円)があり、区民葬には39000円の公費助成がある。品川区民なら2万600円で火葬できることになる。休憩室は人数によって74800円から14300円まで、式場は28万6000円から4万4000円までで、骨壺も30万円から12430円まで。

 私は嫌になった。死んでからまで差別を受けなければならないのか。貧乏人は貧乏人らしい葬儀を、金持ちは金持ちらしく金綺羅金の葬儀をするのか。死んだらみんな火葬されて墓に葬られるだけではないか。私はそれが嫌だから、地元5自治体共同で運営している斎場を利用している。ここは火葬も、控室もすべて同一規格で料金も同額。棺桶も骨壺も同一規格。なんかすっきりする。

 

香典返しに驚く

 東京では最近、葬儀に続いて初七日の法要も行い、その後精進落としも済ましてしまう。香典返しは昔は49日以後に香典の額によって差別していたが、今は葬儀の帰りに同じ品物を出しておしまい。タイパ、コスパの点から合理化が進んでいる。昔は香典返しには残るものが多かったが、いらないものが多く、家には香典返しの山ができるからか、最近は食べてなくなるものになっている。帰ってから香典返しを開いたら、洋菓子の詰め合わせ。これに驚いた。

 販売者は横浜の業者だが、製造業者はワッフル・ショコラが茨城県つくば市、ビスケットは横浜市戸塚区、バウムクーヘン・ショコラは愛知県豊橋市、紅茶は販売業者の神奈川県相模原市の工場。

 製造業者が作ったものを詰め合わせて販売業者がピンハネし、さらに葬儀屋さんがピンハネしている。中間は何も生産していないが、これがすべて日本のGDPに計上されているわけだ。日本のGDPって砂上の楼閣なのか。

留守電

  早口で聞き取れない

 

 特殊詐欺に遭わないよう、固定電話はいつも留守電に設定してある。用があって話し出す人がいれば電話に出るし、こっちが不在でも用のある人は留守電に伝言を残してくれるから折り返し電話すればいい。妻も私も通院しているので、病院や薬局から伝言が入っていることがある。聞くと「※#と申しますが、*▲の件で~」と言っているが何回聞いても何を言っているのか理解できない。老齢のため難聴になっているせいもあるが、なぜ、相手に伝わるように話さないのだろう。

 特に留守電は冒頭の部分が切れることがあって、伝言した相手が分からないことが多い。留守電に録音するときは「ピー」と鳴ってから一呼吸置き、ゆっくり「〇〇と申しますが」と言ってから、伝言もゆっくり、一言一言区切って話せばいいのに。伝言は言えばいいというもんではあるまい。話す方の要件がちゃんと相手に伝わらなければ意味がないだろう。

100匹超えた

 平年に比べて早いものの

 

 飼育しているアゲハチョウの羽化がきょう(7月⒖日)102匹になった。100匹超えは昨年は8月17日だったからほぼ1か月早く、5年平均では9日早い。ここ数年は毎年異常な記録が続いている。羽化が早まったり、遅くなったり。100匹を超えたのは17年の6月26日が一番早い。一番遅かったのは21年の9月25日。この年は例年より出足は早く6月20日は73匹だったのに、それから8月13日まで54日も空白がある異常さで年間118匹と最小記録。今年もこれに似ている。飼育箱には幼虫が25匹前後いるものの、このところ新しい卵は見つかっておらず、後が続かないかもしれない。

 2004年から始めたアゲハ飼育は22年目。年間の羽化数は平均200匹を超えており、最多は18年の343匹。23年は314匹で5年ぶり300匹超えだったが、今年はどうなるだろう。

エレベーター

  目の前で閉まる

 

 エレベーターに乗ろうとしたら目の前でドアを閉められる経験が立て続けにあった。世の中、どうなってんだ。

 85、6歳までは駅では階段を利用することが多かったが、脊柱管狭窄症と膝の痛みで階段の昇降がつらくなった88歳はエレベーターがあれば利用するようになった。そこで冒頭の経験。私などはエレベーターに乗る際は、後から乗る人がいるかどうか確かめてからドアを閉めるが、経験した2例では自分がエレベーターに乗ると、後ろを見ずにドアを閉めてしまう。私は置いてけぼりだ。2例ともアラサーかアラフォーの女性だった。スマホを見ていて乗るとすぐに閉めた人、もう一人はスマホを見ているわけでもないのに、前向きに乗ったら後ろは振り向かず、そのままドアを閉めてしまった。

 

日本の若者は席を譲らない

 電車に乗っても席を譲ってくれるのはたいてい白人が多い。日本人の若者は老人や障碍者に席を譲るマナーを知らないようだ。優先席に座っている若者は白髪の老人が前に立っても見上げるだけで、そのまま。中には隣に荷物を置いて二人分の座席を確保している人もいる。男は荷物を膝に移して席を開けてくれるが、女は平気な人が多い。なぜだろう。

日本語のごまかし

  「防災」ってできるの

 

 トカラ列島で連日地震が続発し、悪石島や小宝島の島民は島外避難をしなければならなくなった。一日に何回も地震があるので気が気でなく、寝ることもままならならないので疲労が蓄積して気の毒だ。こうした天災が起きると、防災研究家がコメントしたり、防災グッズが売れたりする。でも、火事のような人災ならいざ知らず、地震や台風・風水害などの天災って「防災」できるの。防波堤を築いたり、避難所を設置したり、防災用具を準備したりしても、天災は人間の力ではいかんともしがたい。人間がやれることはせいぜい「減災」にしか過ぎない。それを「防災」って言ってごまかしていると、何となく安心できるということか。

 

「防犯」カメラのインチキ

 これと似たものに、「防犯カメラ」がある。ロボットカメラが犯人を追い詰めて犯行を思いとどまらせるケースは別にして、カメラを設置しても犯罪を防止することはできない。犯行した後に検証して犯人を割り出すのに役立つだけだから、実は「監視カメラ」である。「監視」カメラというと響きが悪いので「防犯カメラ」と言ってゴマ化しているのだろう。日本人はこうしたゴマ化した言葉が好きなようだ。これでは物事を根本から改善できない。言葉をゴマかざす実態を表す言葉遣いをしたい。

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>