ケイ・ドリームブログ

ケイ・ドリームブログ

軽自動車専門店ケイ・ドリーム公式ブログです。

Amebaでブログを始めよう!

 最愛の父が永眠いたしました。
 
 一報が来た時は仕事中でしたが、実家に母を迎えに行き、施設に
駆け付けたのですが、既に心肺が停止しており最後を看取れませんでした。
最後に父が私達に何を言いたかったのか、どんな思いが有ったのか
聞く事が出来なかった事が残念でなりません。
亡くなってこそ分かる父の偉大さを痛感しております。

※晩年の父。旅行先の宴会と思われる1枚。大好きだった煙草とお酒に囲まれて楽しそう。
 
思い出せば物心が付いた日から、亡くなった日まで父との沢山の思い出が鮮明に蘇ります。
物心が付いたのは、幼稚園に入る前だったと思いますが、お父さんは大工さんで
お家を造る仕事をしているんだ・・・お父さんは凄い人なんだ!と子供心に思いました。
私が小さい頃の父は以前のブログにも書きましたが、それはそれは本当に厳しい父でした。
小さな子供の多くが嫌いな野菜類・骨の多い魚等も残さず全部食べる事は当然の事で
いくら満腹でも、ご飯粒1つ残さずに食べる!などと、小さい頃から叩き込まれて育ちました。
そのお陰で、今だに食事を残した事が有りませんし、好き嫌いも1つも有りません。
幼い頃から父には男だったら絶対に泣いてはいけない!やられたら必ずやり返して来い!等々、厳しく言われて育った事は多々有りますが、その中でも父を一番象徴する言葉は
         「人に合わせて好かれるなら自分の意見を言って嫌われろ!!」
と言われて育ちました。元野球選手の城島健司さんのお父様も以前、TVで同じ様な事を
言っていました。私も少年野球をやっていた時は、キャプテンを任されていましたが
夕食後に自主練と称して、毎日主要メンバーを集めて、小学校前の歩道橋を
全員うさぎ跳びで、何往復もさせる事を強要させたり・・・と、当時から私は自分の意見を
押し通す子供でした。その時の仲間達には悪い事をした!と今でも反省しております。
しかし、その教えのお陰で社会に出てからも沢山の損をして生きて来てしまいました。
父のせいには出来ませんが、強烈だった父の一番印象に残っている言葉です。
普段は子煩悩な一面も有りましたが、私が社会に出て、結婚をして子供が
生まれた時は、私の幼少期には考えられない位の変りようで、長男も次男も
本当に可愛がってくれました。その頃は父と言うよりもお爺ちゃんになっていました。
父の母親も一昨年に亡くなりましたが、99歳まで病気一つしない方だったので
勝手に父も90歳位までは生きれるだろう?なんて楽観視をしていました。
しかし晩年の父はペースメーカーを入れたり、何度も病院に入退院したり、手術を繰り返し
軽いボケも出たりと、母も本当に大変だったと思います。ここ最近も今年の5月から
腎不全の治療の為に、1ヶ月間の予定で北里大学病院に入院しました。
入院直前までは、車の運転や自転車に乗って買い物にも行ってた位
凄く元気だったのですが、入院1週間後に母とお見舞いに行った時には
たった1週間程度のステロイド治療を受けると、こんなにもやつれるのか・・・
と愕然としてしました。後から聞いたら、母も私と同じ事を思っていたそうです。
当初1ヶ月の予定が延びて、2ヵ月になった頃には、父は大工だった事も有り
年の割には、がっしりとした体型でしたが、治療の為に長い間、寝たきりだった為
杖を突かないと歩けない程に、筋力が落ちてしまいました。同じ病院には3ヵ月以上
入院させる事が難しい為、自宅に戻したかったのですが、入院による筋力の低下の為
自宅には戻せませんでした。リハビリを行わないと日常生活もままならなくなっていた為
病院で紹介された老健施設(リハビリに特化した施設)に転院させる事になりました。
父は早期に回復して家に帰れる様に、入院時から高熱を何回も出しながらも
リハビリを本当に頑張ってくれました。しかし頑張り過ぎた為か、ステロイド治療の為か
施設でもまた高熱が出てしまい、僅か10日足らずで救急車でさえ1時間は掛かる
北里大学病院に緊急入院を余儀なくされました。勿論自宅に戻す事は出来ませんでした。
それからはほとんど寝たきりに近くなって行きました。人工透析の可能性も有った為
シャント(透析用のバイパス)の手術もしました。毎月のCTスキャンや毎日の点滴治療
日々の検査によって、父が日毎に弱って行くのを見るのは本当に辛かったです。
どんな治療を施しても、容態が変わる事は無かったのですが、今回は期限の大分前から
早く施設に移してくれ!とソーシャルワーカーからせっかれて、以前お世話になった
老健施設の方に戻したかったのですが、その時には既に在宅酸素の機械が
必要な状態で戻せませんでした。良く聞く話ですが、本当に病院は症状を
更に悪くされる所だと感じました。2度目の受け入れ施設を探すのは本当に難航しました。
当初、要介護度が3だった父も紹介会社から紹介された施設を私達が見学
に回る頃には、もっと介護度が高くなっていたらしく、毎週母と1件、また1件と
10件近くも回りましたが、どこも今の父を受け入れてくれる有料老人ホームは
有りませんでした。藁にもすがる思いで父が最後を迎える事になる施設を探し出すことが
出来たのは幸いとしか言いようが有りませんでした。
施設では他の入居者の方とコミュニケーションも取って欲しかったのですが
部屋から出たのは2ヵ月半の間にシャワー入浴の1回しか有りませんでした。
いつもお見舞いに行くと必ず外を眺めていました。酸素マスクを食事以外は常に
着けていた為、言葉もほぼ交わせませんでしたが、外を見て一刻も早く家に帰りたい!
と思ってたのは間違いないと思います。しかしその夢が叶う事はありませんでした。
間質性肺炎を患っていて、肺の収縮が全く自己で出来なく、在宅酸素もMAXの5に
設定しても、血中酸素濃度が70%台だったので相当に苦しかった筈です。
実は5月に入院した時は既に、間質性肺炎が相当進み血中酸素濃度も80%台
だったのにも係わらずリハビリを自ら希望した事は、さすが根性の塊の様な
父らしいと思いました。
大好きな母の居る自宅に帰って、どうしても最後を迎えたかったんだと思います。
病院や施設の白い天井を見上げて父は毎日どんな事を思っていたのでしょうか?
母や私や姉、孫や曾孫の事を自分の身体が大変な時なのに心配をしてくれて
いたんだと思います。亡くなる数日前に私達だけに「何で家に帰れないんだ!!」
と一言だけ言ったのが、入院してから父が発した最初で最後の我儘でした。
私の父が立派だと思う事は、最後の最後まで誰にも弱い所を
見せずに亡くなった事だと思います。往診医の先生に最後にも言われましたが
「普通の人間なら苦しくて吐いて暴れて、とてもじゃないが生きていられない状態です。
それでも7ヵ月半にも及ぶ戦いをお父様はした!本当に根性が有る凄いお方でした!!」
と言っていただいたのを、聞いた時には驚きと感動すら覚えてしまいました。
いつ死ぬ分からない、苦しくて、辛くて、本当は怖かったんだと思います。
施設の方々にも「当たる訳でも無く、暴れも騒ぎさえしないお父様は立派でした!」
と仰っていただけました。私が同じ立場ならとてもそんな風には
出来るとは思えませんので、本当に父は最後の最後まで立派だったと思います。
父がどれほどの苦しい思いをひたすら耐え続けていたのを、母も知っていましたので
最後に父の亡骸の前で「お父さん、もう苦しいのを我慢しなくて良くなったんだよ。」
「良く頑張ったね」「本当に長い間ありがとう、お疲れさまでした。」と母が
父に語り掛けた時には、母は気丈に振舞っていましたが、私の方は涙が零れそうでした。
私は天国に旅立った父を目の前にして「天国で美味しい空気をたっぷりと吸って下さい」と
言うだけで精一杯でした。本当はもっと想いが有ったのですが、その場では出ませんでした。
施設の方、一人一人に「短い間でしたが、父が本当にお世話になりました。」と
御礼を申し上げて、岐路に着く時にもいつもの話題が出ました。
 私と母は毎週1度は父のお見舞いに行ってましたが、いつも2人の話題は決まって
何故あの時に入院させてしまったんだろう?と言う事でした。
腎不全の診断が出た時、1ヶ月足らずで良くなって帰って来れるなら・・・それで治るなら・・・
と入院を決断した事を今でも2人共後悔しております。
最後くらい人間らしい生活を送らせてあげられなかった事が、悔んでも悔み切れません。

※今年5月に入院した時の父。足に浮腫みが有るものの腕もまだ太く筋肉も有り元気だった
 
 病院に殺されたとまでは言いませんが・・・入院さえさせなければ、父親はもっと
長生きをしていた筈です。今だに歩けていたと思いますし、好きなTVを見ながら
母の手料理を食べて、大好きだった母とも離れ離れにもならず、孫達とも遊び
住み慣れた我が家で誰に遠慮する事もなく、伸び伸びと・・・
自宅に居れば、もっと人間らしい生活が出来た筈です。
そんな父を間近で見て来て思った事が一つだけ有ります。それは私が年を取って
病気になったとしても、子供達に入院や手術が必要だ!と言われても病院には
掛かからないと心に決めました。
万が一癌になったとしても天命に任せます。人間いつかは死ぬ時が誰にでも
訪れるので、延命しようとは思わなくなりました。その時は最後まで、幼い時から
言われ続けた先程お話をした、父の言葉を信じて信念を貫こうと思っております。
最後まで人間らしく全てを自然に任せて生きて行く事に決めました。

※亡くなる約1週間前のお見舞い。まだ食事も食べて元気そうでした。亡くなった日も朝ご飯        を少しは食べたらしいので、その日の内に亡くなるなんて本当に信じられませんでした。
 
 孫も5人、曾孫2人にも恵まれ人生を全うした父は本当に幸せだったんだと思います。
80年間本当にお疲れさまでした。私に深い愛情を持って育てていただいた事
本当に感謝し切れません。本当に本当にありがとうございました。
それと母の事は何も心配なさらないで下さい。私が責任を持って全力で支えます。
遺された者の事は、何も心配なさらず、安らかにお休み下さい。
母と私達家族に万が一が有った時には、天国への道案内をお願いいたします。
 
 生前父がお世話になった方々には、この場をお借りしまして御礼申し上げます。
父の人生に係わって頂いた全ての方に御礼を言わさせていただきます。
                本当にありがとうございました。
皆様のお陰で父、清も最高の人生を成し遂げる事が出来ました。
本来ならば拝眉の上ご挨拶申し上げるべき処ではございますが
まずは書中を以って御礼申し上げます。
                                   
                                              長男 渡辺一弘