私は大学を卒業してから、すぐに自営業を始めました。

会社員になることは、考えられなかったのです。なんの会社に入りたいわけでもなく、興味がわかず、自分で仕事をすることにしたのです。大学で専攻していたのは、国際関係学、政治、文化、経済などでしたが、これを勉強したからといって、世界がかわるわけでもなく、なんの力もないことは明らかでした。英語が話せたからといって、それぐらいの能力の人たちははいて捨てるほどいるではないか・・と思っていました。2ヶ国語どころか、3ヶ国語、4ヶ国語話せるひとだって、ざらでした。

なんとも、やる気をなくしていた私でしたが、なんとなく、目に入ったのが『カラーコーディネーター』という、資格をとるためのパンフレット。 これまた、なんとなく楽しそうに感じたことと、なにか違うことをやってみたい思いから、軽い気持ちで始めたのがきっかけとなったのです。

最初はいろいろ、びっくりたりして、楽しかったのを覚えています。

自分には地味な色しか似合わないと思っていたのが、華やかな色も似合うことを知り、メイクの仕方も知ると、いままでコンプレックスの塊だった自分が変化することが面白くてしょうがなくなっていきました。でも、ここからが私なのです。

カラーコーディネートに疑問が生まれてきたのです。きっちりコーディネートされる窮屈感、大した知識でもないのに、あたかも知ったかぶりなアドバイスに、嫌気がさしました。もっと大きなアートの世界において、これが絶対的なものではないのに、なにを私はこんな小さな価値観のなかでこちょこちょとやっていないといけないのか、と、考えてしまうのです。

メイクにおいてもすぐに疑問がわきました。

この眉毛の書き方、顔はこういうほうが美しい、といった価値観はどこから来ているのか?本当にそうなのか?そう思い込んでいるだけではないのか? 海外に行けば、美しいの価値観は違うのに、なぜ美しいということを言い切れるのか?人の顔に勝手に価値観を押し付けているのではないか?と疑問はどんどんわいてきます。

こうなってくると大変です。 答えがないのです。

人に相談しようものなら、もっと大変になります。『美穂ちゃん、そんなこと考えるから駄目なのよ。考えちゃいけないの』なんて言われようものなら、もう絶縁です。

考えたくて考えているのではなく、考えざるを得ないのです。疑問は、自然と生まれるのです。それをやめろということは、死ねといわれるに等しいことでした。自分の存在を否定されることでした。

『美しい』とは何なのか?

自ずとテーマとなり、真剣に考えるようになりました。    ・・・続く・・・
前々回もみた夢についてお話しましたが、ちょくちょく私はリアルな夢を見ます。

この夢も、とてもリアルだったので、今でも覚えている夢です。



暖かい日差しの中、実家の家の2階には、両親がベッドの上で寝ています。
父と母が二人お腹に手をくみ、すやすやと寝ています。

寝ているのでしょうか? それとも、死んでいるのでしょうか?

それはともあれ、実は、ひざの丈まで、海の水がきているのです。

この大変な事態に、両親を起こそうかと思っているのですが、起こしたときに、パニックになるであろう両親を可哀そうに感じ、私は両親を起こすのをやめました。このまま沈んで亡くなったとしても、そのほうが幸せかもしれない、と感じている自分がいます。


それにしても日差しは暖かく、太陽はやさしく、いつも以上に美しい昼時です。

ひざまで海の水はきていますが、深く、透明で、美しいブルーの世界は足元に大きく広がり、私は心魅かれてなりません。


心の中で、両親にさよならをいい、私は、その美しい海の中に飛び込んでいきました。

美しいブルーの世界に。 深い、美しいブルーの世界に、身を投じ、私はその世界に入ったのです。



そのブルーの世界に入った瞬間。目がさめました。今もそのブルーを覚えています。
とても美しい、ブルーの世界でした。











私は学生のころ、歴史を暗記するのがとても苦手でした。

苦手というよりは、歴史を暗記しなければならない理由が先ずわからず、かなり悩んでいました。
徳川 家康であろうと、綱吉であろうと、それがなぜ今必要で、それがなぜ記憶しておく必要があるのか、正直全然意味もわからず暗記だけを強制される学校の教育とは、ほとんど拷問のように感じていました。
何が何年に起こったとか、なんで必要なんでしょうか? さっぱりわかりませんでした。

それでも、試験には出ます。進学もしなければならないと感じていましたので、避けてとおるわけにはいかないのが、つらいところでした。

一応頑張り屋だったので、一大決心をし、毎日歴史を2時間以上勉強すると決め、決行すること3か月・・。

そして、全国テストがあったのを今でも覚えています。

で、結果ですが、依然のテストでは50点だった歴史の試験が・・・・53点・・・(☆。☆)

その時のショックはかなりのものでした。歴史ばっかり勉強し、大好きだった英語は勉強する時間が激減してしまったのに、その勉強していないはずの英語が点数がかなり伸びていたのです。。

ショックを受けた私は、ストーブの前で本当にシクシク泣きました。

母が見かねて、げんこつのような丸くて大きいドーナッツをたくさん揚げてくれました。
泣きながら、そのでっかいドーナッツを食べていたのを思い出します。

今、歴史のことは何も覚えていないに等しいです。

でも、歴史のことは好きで、いろんな本は読みます。聖書も読みますし、歴史は全く違った意味で、好きになりました。好きというより、必要です。

日本の学校教育ってかなり歪んでいると感じます。本質からずれた教育も学習も、せっかく頭が柔らかい子供時代はたくさん吸収できるのに、なんでこの子供たちの感性、知性をたたきつぶすような教育をしているんでしょう?! 私が子供が生まれたとしたら、正直日本の学校には行かせたくないのが本音です。

もちろん、歴史だけの話ではなく、全体として、日本の教育って本質から外れてしまっているのが本当に残念です。

私には、24歳のときに見た、忘れられない夢があります。

その晩、なぜか絵を描きたくてたまらず、赤い絵の具で、大きなスケッチブックに赤い色を塗りたくっていました。筆では足らず、手に赤い絵の具を絞り、塗っていました。

その晩、不思議な夢をみたのです。

夢は3つのストーリーにわかれていました。

 
~最初の夢~

私は森林の中を歩いています。たくさんの背の高い木がたくさんあるところ。
歩いていると、突然雨が降り出して、晴れているのですが、雨は勢いよくたたきつけるように降ってきます。でもその雨は気持ちよいのです。白いコテージがあったので、そのバルコニーに駆け込みましたが、雨はバルコニーにも入ってきます。私はバルコニーを出て、雨がたくさん降るなか、目をあけて歩きだしました。目の中に雨が入ってきますが、日の光がきらきらと美しく、私はとにかく心地よく、森林の中を歩き続けました。


~2番目の夢~

土の壁でできた迷路を私は歩いています。 迷路の角、角に、虹色のお香が、紐でくくられてかかっています。その虹色のお香は『真理』の象徴です。 その『真理』はとてもシンプルなことであり、私はひとつひとつ、その真理を知り、わかり、親指でそのお香をつぶしながら、進みます。 お香をつぶすごとに、ひとつひとつ真理をわかり、とうとう土壁でできた迷路を、私は出ました。

広い土地に出ました。なにもありません。 ずっと向こうから、たくさんの人たちがやってくるのが見えます。古代の人、いろんな人種、いろんな肌の色に、いろんな時代の人たちが大勢やってくるのです。

私は手をふりました。『みんな、一緒にいこう! もうこわくない!』

そして共に歩いていくのです。


~3番目の夢~

真っ暗な場所で、私はだれかと話をしています。 いろんなことを質問し、話あっています。

私は『自由になりたいんです』というと、その人は言いました。『自由になろうとすることの不自由の摂理がある』と。

私は瞬間わかりました。自由になろうとすることは、その意識がすでに不自由だから自由になりたい、と思っているのです。自由になりたい、という意識が強くなることが余計に不自由にさせることの摂理。

なるほど!と、感嘆した瞬間です。   シュワッ!!と音がし、その人と私が入れ替わってしまいました。 そして、私の手のひらには、鍵がありました。 これは、なんの鍵なのでしょう?



そんな3つの夢をみた後、すぐ目がさめた私は、いそいでこの夢を紙に書きました。

なんの意味かはさっぱりわかりませんでしたが、あまりにリアルで、不思議だったので、今でも思い出すのです。


秦 美穂子
こんにちは。 秦 美穂子です。

なぜこのブログを新しくページを立ち上げたかは、読んでいただければ、きっとすぐにおわかりになられるかと思います。『窓DESIGN美美vivi』 としての、カーテンやブラインドの仕事関係の内容とは別に、自分のことそのものを、自分のためにも書きたいと感じ、別ブログとして、書くことにいたしました。

初めてお会いする方がた、今までも窓DESIGN美美vivi のブログを読んでいただいている方々も、どうぞよろしくお願いいたします。



私は、能登半島の先端に位置する、珠洲市で誕生しました。 1975年 1月 4日です。

私が生まれたとき、『能登の冬には珍しく晴れていたのよ・・』、と母は言っていました。私は長女として生まれたため、待望の子供だったようでもあり、母子共に健康と聞いて、父と祖父は『おでんに一杯!』と祝杯をあげたそうです。喜んだ父は、なぜか階段の手すりを入念に掃除していた、と、よく母が言っておりました。

『美穂子』と名付けたのは祖父です。 その当時の祖父のメモ用紙があり、つけようとしていた名前がたくさん書いてありましたが、最終的には『美穂子』か、『美樹子』で悩んでいたようです。

その他の名前は、ちょっと付けられても困るような名前でした。幽枝子、民子、文子・・。美穂子でよかったと思いますが、意味は『男の子のように強くなってほしい』というよくわからない理由からです。

名前は付けるときに、いろいろと悩むのかもしれません。それにしても、祖父が付けたとは、、まだまだその頃は『古い』時代だったのですね。


それにしても、赤子の魂は、どこから来るのでしょうか?

母親のお腹の中にいるときのことも、生まれたばかりのときのことも、私には記憶がありません。ときどき記憶がある人がいますよね。そういうことに、すごく興味を覚えます。私の友人は、お腹に赤ちゃんができたとき、お腹の赤ちゃんとよく話をしたそうです。特に興味深かったのは、その赤ちゃんが友人に言ったそうです。 『本当にやさしくなると、宇宙がわかるよ』と!

人間には、本来、宇宙もわかる感性、感受性があるはずです。それは古代の神話にも顕れています。

私という存在は、どこからスタートしたのかわかりませんが、確かにこの日、この地球に生をうけ、生まれました。 そして、自分の生には、顕れていないことがたくさんあると感じています。まだ芽も出ていない種子が、この生命の内にはあるように感じます。

その種子を、もっと開かせたいと感じる日々です。


秦 美穂子