お久しぶりです。


ずいぶんと放置気味で申し訳ありません。今日はネットカフェから。


以前、身辺はあわただしく、落ち着くことがあるとすればGW明けぐらいかもしれません(汗)。


それから営業日、変更しました。


いろいろ書きたいこともあるのですが、それはまた、後日にします。


では、またお会いしましょう。



ずいぶんと更新してなくて申し訳ありません。
ちょこちょこ覗いてはおりますが、携帯からでは手間がかかりすぎるので、どうしてもおっくうになりますね(汗)。

えー、たぶんですが、ブログを一新すると思います(爆)。いろいろ身辺も慌ただしく、まだはっきりしたことはいえませんが。といっても内容のマイナーチェンジになるのかなあ。

取り急ぎご報告まで。


みなさん、お体には気を付けて今年を乗り切ってくださいませ。

ではでは。
かつて、津軽三味線の大御所、高橋竹山は
「洋楽には学ぶべきことがいっぱいある。もっと邦楽は洋楽から取り入れていかねばならない」
というようなことをいったようですが、ギターが六弦であることを考えると、音の多様性では後れをとるのかもしれません。

壁掛には、大陸から伝わったときは二弦だったようで、これは
「天と地」
の音の意味だったようです。そこに、名前を思い出せませんが、ある人が日本でもう一弦加えて三弦とし、それで、

「天・地・人」

の音を表す楽器として三味線になったとか。

雅楽の楽器もそうですが、宇宙の音を出すという思想の背景が日本の楽器にはあるということのようです。

シンプルな音色の中にそういう意味合いがあるという発見は、東儀さんとかがテレビで語っているのを聞いてはじめて知ったくらいです。そして三味線にもあると知ったのは、ここ二年くらいです。

民謡にせよ、和楽器にせよ、かつてはみなに親しまれたもの。だから、魅力はあるはずで、それが廃れつつあるというのは、本当に大事なことが伝えられなかったからかなあと、我が身を見て思いました。
こんな大事なことを知らずに育ったんですからね(汗)。

それ以来、いつか習いたいとずっと思っています。
みなさんも、そういう視点で聴いてみてください。新しい世界がひらけるかもしれません。
今回もあんまり人体には関係ない話ですが(笑)
じつは自分の祖父は、生前に三味線を作っていました。祖父の代からはじめたので、稼業になったのは戦後のこと。

父も亡くなり、稼業は廃業になってしまい、自分は残念ながら三味線を弾く事はできません。理由はいろいろあるんですが(笑)

祖父が事務所に使っていた部屋に壁掛があって、昔からありましたが、実はちゃんと読んだのはここ2年ほど前なんです。
そこには、なぜ三味線が三弦なのか?という理由が、三味線本体の解説とともに古い言葉でかかれてあったんですね。
なんだと思いますか?恥ずかしい話ですが、三味線屋に生まれながら、自分はずっと知らずに育ってきたんです。まあ、そんな現状を見ても邦楽が廃れてしまった一因を垣間見ることができますね(汗)。では、次回にその三弦であることの意味を書きたいと思うので、考えてみてくださいね。
携帯からみなさんのところにお邪魔していてこまったことが一つ(汗)

背景と文字の区別がつかない人のブログが!
…まったく読めません(泣)
いまのとこ、気が付いたのがmusiqさんとこだけですが、いやー困った。せっくなんでペタりはするんですが、読めないという。

どうやったらよいかご存じの方、御教授よろしくお願いしますです(・_・、
…追記、高橋さんところも読めないと判明。むむ。
今日の患者さんは左官屋さん。いつもいろいろ話しますが、今日はヒミツの手帳を見せてくれました。左官の現場で見た事、聞いた事を書き留めたものが大半で、その中に漆喰の話がありました。

聞けば昔の白い壁の漆喰には、雨に打たれても大丈夫なようにあるものが混ぜられていたそうです。なんだと思いますか?

じつは「鯨の脂」らしいんですねニコニコかなり優秀な防水材だったようで、いま使われている化学系のやつを表面に塗っただけのものよりよいとか。
鯨というだけでも意外ですが、古の智恵は馬鹿にはできないなあと思いました。
現在、ネットには携帯からしか見れない状況にありまして、以前のような長文の記事が書けない環境にあります。
読者にならせていただいている方のところやペタしてくださった方々のところにはゆっくりではありますが訪問したいと思っています。また、コメントくださった方へのレスも遅れており、申し訳ありません。取り急ぎご連絡まで。
 昼から日曜礼拝というものに行ってきました。懇意にしているプロテスタントの教会です。


 パキスタンからの牧師さんが来ておられて、メッセージを母協会の牧師さんが翻訳されます。


 聖書の「創世記」を取り上げて、そこで、アダムがエヴァに言われて知識の実を食べてしまい、それで自分が裸である、ということに気がつき、神様がエデンにやってきたときに、神様が呼んでいるのに隠れてでてこない。

そのときに、

「どこにいるのか?」

と問う、神様の言葉を我々に当てはめてのメッセージでした。


 食べてはいけないものを食べてしまった罪、というのがあります。しかし、アダムは初めから裸であったのであって、服を着ていたわけではないのだから、それを恥ずかしいことだという認識に至ったからといって、隠れるのは不自然です。要は、罪の意識が神様を遠ざけたのだ・・・ということになるでしょうか。

 牧師先生は、神様が呼ばれたとき、アダムが隠れることなく出てきて、罪をちゃんと告白すればエデンから追放されることはなかったろうと言っていました。事の真相はともかく、我々は作られた価値観に縛られます。それが、人との間に壁を造り、宇宙との間にも壁を作る。遠ざかるのは自分自身ということなのでしょう。

 モーセの十戒というのがあります。

 あれは、人に「罪と言うものはこういうものだ」と教えるものである、と聴いたことがあります。

 仏教にも「戒律」というものが存在します。

 それがあるということは、人はそういうことをやっていた、ということになりますね。殺していたから、殺すな、と戒められるわけであり、犯せばそれは「罪」と呼ばれます。

 先日、京都の恩師のところにお邪魔した際の話で、六師外道と呼ばれるのものや、大乗仏教にせよ、鎌倉の新仏教にせよ、我々が普段思っているように「どちらが正しい?」というような論争が目的で起こっているのではなくて、世相が古い教えでは対応できない時代になってきたから、新しくする必要性があって生まれてくる、というのがありました。

 モーセの十戒も、イエスが出現するころには、時代に対応できなくなっているということで、パリサイ派とか、律法学者というものは、「律法至上主義者」であって、民衆や時代のこととは遠く離れた考え方で、だからイエスの登場で、彼らは恐れることになります。

 殺すな、と言われていたのに、殺してしまった人はどうなるのか?あるいは、罪なくして生きていけない世相がやってきたときに、では人の心はどうすればいいのか??という問題があります。律法学者は人の罪を断罪はしても、救いはしないということが起きるわけですね。

だから、イエスの教えは、悔い改めと許しなのでしょう。

 仏教にも、とくに中国や日本で「末法思想」というのがあって、深刻な悪世が来て大変なことになる、というやつです。そんな時代では、修行者の生活は出来ません。

 実際、アレキサンダー大王が、ギリシャからインドまで攻め込んできたりして、世界は混沌とする時代を迎えます。戦乱の巷にあって、その日生きるのが精一杯の生活で、聖典に書かれているような理想的な生活なんてできっこない。

 だから、アミターバ(阿弥陀)の作ったという、別の銀河系の星、スカーヴァティー(安楽、あるいは極楽)というところへ生まれ変わろうというのが、浄土教なんです。その星は、生きるための生活すべてが悟るための修行になるという理想郷なんですね。



 大乗仏教の大事な徳目に「六波羅蜜」というのがあります。六つのパーラミター、すなわち6つの完成と呼ばれるものです。


布施

忍辱

自戒

精進

禅定

智慧


の六つです。


 これはある先生が言っていたことですが、「盗むな」ということは、一般には、「相手のものを盗るな」というものであって、消極的なものである、ということらしいです。

 そうではなくて、積極的に「与えよ」というのが「布施」であって、戒律を守っているだけではなくて、もっとアクティブな形で戒を行うなら、六波羅蜜のようになる、ということのようです。


「盗む」という面を超えて、「与える」というこの発想は、連続して考えると意味が深い。大乗仏教でいう、布施とは、100万円持っていたら10万円を布施する、ということではなくて、100万円まるまるを布施する、という極端なものです。


これは大学の講義で、先生が言っていたが、お金を与えることで、その人に痛みなく名声を得るのであれば、それは「布施」ではない、という話がありました。早い話が、持てるものが売名行為を行った、という解釈ですね。


そこまで厳しいことは我々には到底できることではないけれど、我々は、どこに立っているでしょうか?


 アメリカはCO²の削減に積極的ではない。自動車産業の影響力が強いからです。しかしそれは、人類の未来にかかわることであります。だから、アメリカの姿勢は、子供達の未来はどうでもいいのだ、俺たち(権力者)が大事なのさ、ということなのでしょう。


 あなたは、愛する人にたいして、どこにいるのでしょう?

 「愛する」という言葉を吐きながら、搾取する側でしょうか?

 「騙された」という哀しい人という名の、与えた側でしょうか?


六波羅蜜に「忍辱」(忍耐)があるのは、ちゃんと意味があります。


 仏教では、この世界のことを「娑婆」といいます。娑婆世界ですが、これは、サンスクリット語では「サーハ」と呼ばれていて、「忍土」という意味だそうです。音写で「娑婆」になったわけですが、耐える事の多い世界、ということです。


 生老病死という四苦があります。そのうちで、「病」だけは、人間の努力である程度軽減できます。


 私の仕事は、そういう意味では、大きな仕事であるかもしれません。しかし、社会的な地位や収入はたいしたことはありません。

 自分はどこにいたかったのか?

 自問自答は死ぬまで続くのでしょう。



 自分だけよければいい・・・という考え方が、人間を支配します。

 それは、その人が一人で生きていけるからという傲慢から起こります。でも、不完全な我々はいつも躓きます。


 誰かを恋しいと思い、日々を耐えられないと思い、誰にも相手にされなくて死んでしまおうと思ったり。


我々は一人でこの世にあるわけではありません。



あなたはどこにいますか?



 ここで何回か取り上げさせてもらっているTさんが、1ヵ月半ぶりに来院。


 前は主に肩こりと腰痛で、肩こりはクイックマッサージに前はよく行っていたらしいが、『ウィル』で診てもらってから全然行かなくてもよくなったとのこと。これは嬉しい報告。


 仕事が重労働作業系なので、腰痛はままあるらしい。


 しかし、今回の主訴は、とくに右膝の痛み。内側である。腰の方は後屈すると違和感がでてくる。


 今回は写真を撮り忘れているので画像がない。ご勘弁を^^;


 膝は膝を曲げて中腰の姿勢で痛みが走る。何回か同じ姿勢を繰り返してもらうと、だんだん痛みが増してくる。

 念のためいろいろと立位で体の動きを調べる。顕著なのは、右肩が左より上がってしまっていること。

「カバン、右側にかけますか?」

と尋ねると、案の定、そうらしい。


 首の動きは右に倒すと動きが悪い。これは、たぶん血の濁り。左手首の可動性をつけると動くようになる。


 問題は右膝。試みに右足だけで立ってもらったりするが、加重をかけても痛みはない。膝を中途半端な位置で曲げると痛みが出る。痛みの出る場所とかから推測して、両手の人差し指と、合谷という経穴を探る。


 右側に反応あり。呼吸を利用して調整する。再度、深呼吸してもらう。


 それから室内を軽く一周歩いてもらう(これは部屋が狭いので、一瞬だけどw)。


 再び、さきほどの膝を中途半端に曲げた状態で腰をかがめてもらう。


「あれ?痛くないです。」


とTさん。いろいろ動かしてもらうが、痛みは出ない。屈伸もするが大丈夫。

腰の後屈もかなり出来る。

「よく天井が見えます。」

と後屈しながらTさんは言う(笑)。


整骨院だったら、これで終わりでも十分だ。


しかし、ここは『ウィル』。


 深部の問題を探る。そして・・・・・消化器系の問題が出てきた。仙腸関節にまで波及していて、右足がうつ伏せだと左より長い。仰向けになると、逆転する。少し、冷えから泌尿器への影響も見られた。


 仙腸関節の問題をブロッキングで解除して、エネルギーラインを攻めていく。ソーステストでは、珍しく右腕が短い。小腸の問題のようである。これも解除。腕の長さはそろう。


 頭蓋骨を調整しているとTさんは眠りに落ちた。


両足の甲と裏に光線を照射。


 しばらくして、起きてもらい、再度身体を動かしてもらう。膝は問題がない。


ただ、「原付乗るときに、こういう姿勢にすると腰に来るんですよ・・」

とTさんが言って、ベッドに腰をかけたままそのポーズをやってくれる。そうすると、やっぱり腰はおかしいらしい。


 で、姿勢を正してもらって、再びおかしくなる位置まで動かしてもらい、エネルギーブロックの有る箇所を探る。

首ではない。肩甲骨内側辺りでもなかった。


 そこで先ほどのソーステストと、足の長さの逆転現象から、仙骨だろうと閃いた。


 仙骨の右側を触診。そして指を当てて、操作方向を探ると右回りで調整をかけると、痛みがでないとわかる。

 よって、右回旋の圧力を加えて、深呼吸も併用して仙骨を調整。これは小腸の問題だったようだ。


 術後、原付に乗るときの姿勢をやってもらうが、痛みはでない。


 最後に身体をいろんな角度で動かしてもらい、大丈夫と確認して、施術終了。



 今回の施術のポイントは、情報系の操作。


 膝が痛いからと言って、必ずしも膝が悪いのではないという良い例。合谷(親指と人差し指の間のくぼんだところのツボ)の操作で消えている。


 Tさんの場合は胃腸系の問題によって、体の情報系が乱れて、いろいろ出ていた・・・というやつ。

 これを放置しておくと、間違った情報から、本当におかしくなってくる。


 このように、もう一人のあなたに認めてもらえた日は嬉しい日だ。


 生命の世界は奥深いということを知っていただければ幸いである。





表題は、谷村新司さんの名曲「aura」から。



私と同じような視点を持つ方に、最近よく出会います。もちろんネット上でありますけれど。


「精神医学と世界転覆」


という記事をご覧ください(クリックでそのページに行きますので)。自分が読者になっているブログです。


LSD


という幻覚剤があります。日本では1970年に麻薬として指定されたとwikiにあります。


 麦角中毒というものを引き起こした、麦角菌の研究からLSDは完成したようですが、この菌の研究から、止血剤や陣痛促進剤が生まれていることを今回wikiで見て、はじめて知りました(汗)。


 LSDは、1970年前後にヒッピー運動やら、ベトナム戦争を背景にしてかなり使用されました。簡単にトリップ体験ができるため、これを使用してから作品に向かう、ドラッグアートなんかもたしかこの頃です。自白剤としても使用されたりしたようですね。



 ベトナム戦争で使われたのには、いろいろ理由がありますが(前線での恐怖心をなくさせるためとか)、こういう使い方は、日本でも第二次大戦末期に、特攻隊員にヒロポンと呼ばれる麻薬を投与したりした例からも軍事の世界では、ままあることです。


 ベトナム戦争が始まると、戦争神経症が増えて、帰還兵がPTSDを抱えて社会復帰できなくなるという深刻な事態が生まれます。そこで、精神病の研究にも使われていたLSDの投与を行うことで、PTSDを緩和しようという試みがなされました。


 強力な向精神作用があるため、効果はかなりのものであったようですが、錯乱を引き起こしたりするとそれによっていろんな問題が起きるため、最終的には使用されなくなってきます(現代でもあるようですが)。個人によって何が起きるか予測がつかない、という面が強かったようです。



 しかし、ベトナムでは戦争は続いていて、兵士はどんどん病んで行きます。


 困った学者がいろいろ研究していくと、同じような精神作用を引き起こすのに、副作用的なものがないある療法を見つけます。


 なんと、それが「ヨガ」(瞑想)だったわけです。


 ビートルズがインドの修行者に弟子入りして、瞑想をやったりしたのはこの影響です(彼らもドラッグに手を染めていたようですが)。



 ヒッピー運動にはいろんなものがありますが、一つには、イエス・キリスト時代への回帰という面もありました。しかし、社会がすでに変わってしまっており、そういった原点回帰の生活は当然破綻します。

 ドラッグによる、簡単な意識革命も、最終的には副作用によって破綻。


 たどり着いたら瞑想だったという、なんとも皮肉な話です。


 脳、というのは、繊細なものなので、外部からの影響を嫌います。


 もともと、脳には危険な物質は入りにくいように人体は作られていますが、麻薬の研究から、そのキーワードを人類は発見し、それが精神薬の飛躍的な向上をもたらしたわけです。


 が、人間は今まで経験しなかった、「多量の薬物」を脳に放り込まれるという事態に直面しています。


 もはや、正常でなくなった状態を落ち着かせるためには必要であったりするわけで、必ずしも悪い面ばかりではありません。


 ですが、このような状態が何十年と経過した先の世界を、はたして実験で確認してのことでしょうか?

たぶん、違うでしょう。


 そう考えると、たしかに修行という地道な努力がなければならないという条件はあるにせよ、たどり着いたら、瞑想だったというオチは、なんだか微笑ましくありますね。