久々の日記。8月27日、JR湖西線の小野駅からすぐにある唐臼山古墳へ行きました。

 ここは小野妹子の墓という伝説がある。小野妹子は遣隋使として国書を携え隋へ渡り、煬帝を激怒させた有名な人物だ。

 

 

 

 ただ、大津市のサイト大津市歴史博物館・唐臼山古墳 を見ると、小野妹子の墓の可能性は低いという。

 

 古墳内には小野妹子神社がある。

 

 

 

 

 公園として整備されている。

 

 琵琶湖の景色を眺める事ができる

 

 琵琶湖大橋がしっかりと見える。

 

 小野妹子は遣隋使として隋へ渡り「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」と書いた国書を隋の皇帝・煬帝に渡し、煬帝を激怒させました。

 その国書の内容、煬帝を激怒させた事は日本書紀には一切書いていません。隋書の東夷伝倭国(通称・隋書倭国伝)に記されている内容だ。

 日本書紀には小野妹子を隋へ遣わし、小野妹子が帰国した際、隋の役人・裴世清らが来日した。

 裴世清らが宿泊する宿として難波に高麗館(こまのむろつみ)を建築した事。小野妹子が煬帝から預かった国書を、百済で盗まれた話。国書を盗まれたものの推古天皇に許された話などがある。

 

 日本書紀が書かれたのは聖徳太子の時代から100年経っているため、どこまで本当なのか不明。隋書も日本に対して正確な記述をしているかというと、それも怪しい。

 

 でも歴史学者ではないので、変な突っ込みはしないで、伝・小野妹子の墓を散策しながら歴史ロマンを感じるのが一番なのだ。

 

 2月17日、かやぶきの里・美山へ行った。

 集落の端に知井八幡神社がある。

 

 普通の神社と思いきや、神社の由緒の看板を見る

 

 

 713年に妖怪が出没し、人々を恐怖していた。そこで天皇の命を受けた占い師が丹波の山奥に住む八つ頭の大鹿が原因と判断。

 ただちに天皇が甲賀三郎兼家に命じて、大鹿退治を行った。大鹿を退治できたため、神恩(神の恵み)への感謝のため、知井八幡神社ができたとなっている。

 この時気づいたのは

 

 天皇が妖怪退治の指揮を執っている!!

 

 だった。

 今の時代だと、猛獣が大都会に出没しても、首相や大臣ではなく、現場の長が指揮を執っている。だが、713年だと天皇自ら指揮を執っている。

 

 当時は社会が複雑ではなかったため、天皇の目が行き届いていた。

 もしくは大和朝廷の支配下が近畿圏内だったため、天皇の目が届いていたと考えられる。

 

 由緒書きには「天皇」となっていたが、どの天皇なのか調べてみる事にした。すると・・・

 

 元明天皇

 

 だった。女性天皇だ。

 

 元明天皇を調べてみると、藤原京から平城京への遷都、和同開珎の鋳造開始、風土記の編纂開始などがある。

 平安時代に摂関政治の藤原家の礎を作った藤原不比等を登用したのも元明天皇だ。

 

 平城遷都。当時、飢饉と疫病が流行っていたため、その難局を打開するため遷都したという。

 聖武天皇の引っ越し魔も、疫病などが蔓延し、政情不安だったため、何度も遷都を行った。

 

 遷都するだけでも経済波及効果があるのは事実だが、農民に多大な労務を課すため、逃げ出す農民が続出した。

 そのため農地を増やすため三世一身法や墾田永年私財法につながったという。

 

 当時は医学も科学も発達していなかったため、疫病や飢饉が起これば、悪魔の呪いのような恐怖に襲われ、遷都してでも呪いからの脱却という思考にならざる得ないのかもしれない。

 特に元明天皇の場合、疫病で息子である文武天皇を亡くしている。文武天皇の跡を引き継いだのが元明天皇だ。

 

 白村江の戦いの関係で、九州で生まれたという説があり、幼少期は近江に住んで壬申の乱が発生。

 激動の時代を生き抜いた天皇だったと思える。絵馬の猪が激動を表しているようにも思えた。

 

 

 美山にある小さな神社だが、元明天皇の事を知るキッカケになった。

 

 

 

 

 

 2月17日、かやぶきの里・美山へ行く。

 JR山陰本線の日吉駅で降りて、丹南市営バスに乗って、かやぶきの里へ向かう。

 かやぶきの里に到着したが、あまり雪がない。そこで終点の美山自然文化村まで行く。この辺りは白銀の世界だった。

 

 

  ここから、かやぶきの里まで歩いていく。1.5Kmぐらいなので、写真を撮りながら歩くと30分で行けてしまう。

 

 

 お昼だが・・・

 

 飲食店はすべて高い!!

 

 ジビエ料理といっても、高いお金を払って食べたいというわけでもない。

 幸い商店を発見。菓子パンを買う。

 

 

 店の入口の張り紙を見る。

 

 

 あまごが釣りがあるのかと思った。マンホールを見ると、あまごではなく

 

 

  鮎の絵柄

 

 だった。

 

 茅葺屋根の集落に着く。まさに

 

 日本の原風景

 

 

 

 まさに、かやぶきの里

 

 そして美山民俗資料館に入る。

 

 

 農機具の展示がある。

 

 

 生活用品の展示もある。

 

 

 だが、ここからは日本の誇るべき物が展示されていた。

 

 江戸時代の文書だ。文政5年なので約200年前の物だ。

 

 

 農民が普通に読み書きしていた証拠

 

 日本人にとって何とも思わない事だが、海外だと驚きの話だ。

 200年前の識字率は先進国のイギリス・ロンドンでも20%と言われていた。

 ヨーロッパだと、一部の階級だけが知識と情報を独占していた。だが、日本では庶民も知識も情報も持っていた。

 

 そして浄瑠璃の道具の展示もあった。

 

 

 

 農民が普通に浄瑠璃を楽しんでいた

 

 これも200年前の海外ではありえない話だ。

 

 江戸時代は庶民も文化的だった

 

 江戸時代は科学面では欧米よりも遅れていたが、文化面を見ると遅れていたわけではない。

 それどころか特権階級ではなく、庶民までも文化水準が高かった。

 

 

 集落を散策していると、中国語が聞こえてくる。何人かに声をかけると、台湾からの観光客だった。

 雪を触って大はしゃぎする台湾人の子供たちを見た。台湾だと高山以外では雪が見れない。

 

 

 日本の原風景を見ながら、農家の文化的な暮らしまで垣間見る事ができた。