CIRCUS/栗山千明
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栗山千明のシングルが布袋寅泰・浅井健一・椎名林檎とロックシンガーたちにプロデュースされ続けていることは耳にしたこともあるだろう。

今度発売のアルバムは「CIRCUS」と名付けられ、佐藤タイジにヒダカトオル、9mmといった錚々たるメンツが楽曲提供・プロデュースをしている。


私自身はまだ浅井健一プロデュースの「コールドフィンガーガール」と、椎名林檎提供の「おいしい季節」しか耳にしていない。

そしてこの二曲を聴いて感じたことは、栗山千明の“表現力”だった。

いい意味でも、(残念ながら)悪い意味でも、彼女の女優としての表現力の豊かさを感じさせられてしまったのだ。


「コールドフィンガーガール」はベンジー節が炸裂した、メロディとそのへヴィさが癖になるナンバーだと思うが、

いわゆる“ロック声”を炸裂させて唄う彼女は、たしかにベンジーの創り上げた世界にそぐわないそれだと思う。

個人的には、ベンジーの世界はベンジーの声ありきの部分があると思っているのが、それを“女”の声で再生するとこういう風になるのか、とも思ったし、それはそれで新しくてかつ快いと思った。

また「おいしい季節」では林檎さながらのスウィートな声も唸り声も披露してくれたと思う。


彼女の唄をわたしは下手だとは思わないし、

この錚々たるメンツの独自の世界観についていけるその対応力、つまり幅の広さはシンガーとしての価値があると思う。

だが残念ながら、わたしに見えるのは、この錚々たるメンツのそれぞれの楽曲を歌う彼女、という姿でしかなく、

そしてそれはシンガー・唄い手としての姿のそれではないように思えるのだ。

それはプロデューサーの世界に見事に対応し、唄の主人公になりきる、いや、もっと言ってしまえば、プロデューサー自身になりきってしまう“女優”の彼女なのである。

浅井健一にも椎名林檎にもまるでなりきれる彼女のそれを否定はしない。

そもそも、ロックシンガーによってプロデュースされる栗山千明、というコンセプチュアルのもとで生産されたアルバム「CIRCUS」なのであろうし、そのコンセプトにのっとっている限り決して間違えたことでもないと思う。

だがしかし、彼女の“才能”が、シンガーとしての活動にも関わらず“女優”のそれだと感じさせてしまうことは些か問題でもあるように思う。

なぜなら、「だったら浅井健一が、椎名林檎が唄えばいいのに」という一言がどうしても付きまとってしまうからなのだ。

彼女の才能は完璧すぎて唄い手としてあまりにアクがない。

わたしは栗山千明を通してベンジーを、椎名林檎を感じることしかできないのである。


だがしかし、これだけのメンツが名をあげるアルバムというのもなかなかあるものではない。

なによりも素直に、栗山千明自身が彼らへの憧れや思慕を以ってこのアルバムは造られたのだろうし、

それに応えたプロデューサーたちも彼女のこの表現力を以って、造りたいと思ったのであろう。

わたしはそこにある愛といったものを否定などしたくない、と強く思う。

おそらく「栗山千明」というアーティスト、を考える前に、まずはこのアルバムを聴いてみることが先決なのであろう。

「CIRCUS」、聴いてみようと思う。

¥1,200
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吉井和哉のニューシングル「LOVE&PEACE」

「VOLT」で長年望んだロックを鳴らしたのち、昨年一年を創作期間に充てた吉井和哉。

VOLTという傑作を前にさらに高くなったハードルを乗り越え、産み落とされたこのシンプルでストレート(そう、ストレート!)な楽曲は

普遍的に愛される一曲、普遍的に流され続けるべき名曲だ。

タイトルからもそうだが、愛と平和というテーマに対する彼の答えとは、

ひねくれたポーズも難解なフレーズも必要としない、もっとまっすぐでシンプルなものなのだ。

吉井和哉といえば、ひねたフレーズであったり、一筋縄ではいかない部分のあるシンガーだと思うのだが、

一時代を築き上げる名ロックシンガーが、ただまっすぐに、ただ素直に音を鳴らし、言葉を紡ぐだけで、

こんなにも普遍的な名曲となるという歴然とした事実をただただ感じるのである。

もちろんこの曲が完成に至るまでに、当然創作の苦難もあるはずだろうが、それでもこれを鳴らせるのは吉井和哉ただひとりなのだろう。

ダイノジの大谷氏が、MUSICAのレビューで「吉井和哉が唄うだけで、それは新しい“価値観”」としてこの曲を評していたことが印象的で、且つ、実に的確であると膝を打った。(当然、わたしはこんな言い得て妙のレビューをかける彼に嫉妬した。詳しくはMUSICAでのレビューを参考にして頂きたい)

構えない、ひねらない、まっすぐな吉井和哉の投げかけとは、時代や社会を超えた普遍的な答えとなりうるし、そしてそれを人々の心に強く打つ力がこんなにも溢れてしまうのだ。

LOVE&PEACEというある種大きな看板に負けない大きな答えがここにある。

ここに辿りつけるまで、の彼の戦い(そう、吉井和哉はいつでも“ロックシンガー”として“ロック”と戦ってきた男だ!)をファンとして知る者としては大変感慨深いし、そんな私情をはさみこむまでもなく、これが音楽史に残る名曲といっても過言でもない。

この歌詞にあることがわたしは世界の答え、というのは大げさすぎるのかもしれないが、少なくともこの「LOVE&PEACE」にひとつだって嘘はないんじゃないか、とわたしは強く言いたい。

“おはよう”とわたしたちに投げかける彼の優しい唄声のその重さを、わたしは、ぜひ多くの人々に感じてほしいのである。



一方、カップリング曲の「リバティーン」ではタフなサウンドに、あやしい世界観が混ざり合う、新しい吉井和哉節とでも言うべき一曲だ。

サウンドは ソリッドで無駄のない、タフな生命力とシェイプされた音がその筋力を誇るように鳴っているのだが、そこに広がる世界観は、妖しく危なく、そしてどこか悪い、人間の業の部分である。

このギャップの広がりこそがこの曲の妙であり、このバランスを見事に体現しうるスキルには改めて、吉井和哉というロックシンガーが常に変化と進化を遂げる人物であるというこを再認識させられる。

「星のブルース」では「VOLT」で開花したブルースの血が見事に広がりをみせ、“悲しみの色はいつだってブルー”と唄う彼の声の傷だらけの美しさに心が震えた。悲しみがタフに、そして、美しく泣いているその姿をこうして感じることができるのは、リスナーとして幸福であると真面目に思う。




今回のシングルで感じたことは、よりソリッドでより無駄のない、且つどこかグラマラスな吉井和哉のサウンドが確立しているということ、

そこにさらに深みの増した彼の言葉があるということ。

アルバムを出すごとに“衝撃的”なまでに“名盤”になってしまう吉井和哉であるが、このシングルからも、わたしは「VOLT」とからは革新された段違いの変化を感じるのである。

この変化とは来月発売の「The Apples」で明らかになるのであろうが、吉井和哉はいつだって期待を裏切らない。裏切らないどころか、その上を行く男だ。

この長年のキャリアの中で変わらず高みに挑み続ける彼のロックシンガーとしての凄まじさには、本当に目頭が熱くなるような感動を覚える、が、彼のための涙はアルバム発売日までとっておくとしよう。

こんなファンとしての贔屓目を抜きにしたって、このシングルの価値はたしかに尊い。

音楽を愛す愛さないなど関係なく、ぜひ耳にしてほしい一枚なのである。

¥1,000
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東京事変のニューシングル「空が鳴っている / 女の子は誰でも」。

両曲ともに大型のタイアップがつくということからすでに情報は行き届いているかもしれないが、

そんなことよりも、現在の東京事変のスピード感に目を見張るものがある。

前作「スポーツ」が音楽として極まった一作であり、そしてそれを軽々と体現しうるスキルと、生命がせめぎ合うようなソリッドかつ健全なスポーツマンシップで以って、ライヴという限定空間がここまで広がるものだと証明したツアー「ウルトラC」(東京事変の超高等なスキルを以ってこそ!)。

その後も配信限定とはいえ「天国へようこそ」「ドーパミント」とたたみかけるように精力的な活動が行われている。


ここにきてのシングル、ベース亀田誠治作曲の「空が鳴っている」は

もはや長年の信頼と強い尊敬と愛情で結ばれた、椎名林檎との久しぶりのタッグが嬉しいかぎりである。

かつて東京事変における亀田の作曲は、「透明人間」「閃光少女」とうつくしく幸福なポップのきわみをみるような温かみをもつ楽曲が多かった。

しかし今作では一変し、暗雲が立ち込める一瞬を切り取るような不穏さを体現するようなソングライティングである。しかしこの不穏さに加え、亀田の元来のポップセンス・メロディメイカーとしての聴衆をとらえて離さないキャッチーさがわたしたちの心臓を強く掴んでしまう。

そう、わたしたちはこの不穏さに胸をざわめかせながらも、何度だって聴かずにいられない、そんなくるおしさにとらわれてしまう。

そしてそのくるおしさは椎名の書く作詞のそれとも一致する。


“全てを手に入れる瞬間をご覧!

・・・・スローモーション・・・・

今なら僕らが世界一幸せに違いない

危ない橋なら尚更渡りたい

神様、お願いです 終わらせないで”


“すべてをものにした実感をご覧

・・・・ノンフィクション・・・・

今まで僕らは世界一幸せになる為に

どれほど加速して来たか分からない

神様、お願いです あきらめさせて”



ハイウェイに乗り込む、行く先の知れない恋のくるおしさがここにある。

終わらせないで と思う気持ちと全く同じだけ あきらめさせて と神に乞う姿には

もはや自らのコントロールを失った危うさ、その悲しみがにじみ出ている。

恐いのは如何して、と思わないでいられないほど 制御の効かない己への恐怖。

もっといえばこの先行きのみえなさに、悦びが、不穏が、一瞬の光が、そしてそれを包む闇が、

たしかにこの唄の主人公をとらえている。

くるおしいほど不穏でキャッチーなメロディが拾うのは、

離れたいのにこのせつなさに身を置きたいアンビバレントな女心の、胸を突くような危険と、圧倒的な悲しみである。

わたしはこの曲を聴いて、あまりのせつなさに胸が痛くて仕方ない、とすら思った。

それでも何度でも再生ボタンを押さずにはいられなかった。

このくるおしさ、この離れがたさは、この唄の主人公のそれと同じだろう、とまで、思った。

メロディが言葉をいかし、言葉がメロディをいかすという現象がまさにここにあり、

そのふたつがここまで美しく重なり合うからこそ、わたしたちの胸はこんなにも痛むのだろう。

秀逸な一曲である。



しかしながら、「スポーツ」でみせたソリッドで無駄のない東京事変の骨格や筋肉、といったものに

芳醇な香りのせつなさが身にまとわれ、ストイックなほどに磨かれる音の威力はもはや唯一無二とまで思わされる。

「スポーツ」でここまで音楽的に極まりをみせるのか、と驚きを隠さないでいたが、

それよりもさらに進化、変化していく東京事変の凄まじさは、業界を見渡しても衝撃だと思う。

もはや東京事変にはヒットだとかタイアップだとかも関係ないし、まして自分達自身に関する主義や主張も大した位置を占めていないのだろう(それが見えるのは歌詞くらいでしかない)。

彼らの基準や軸とは、もはや“音楽として良好であるもの”をいかにこの世界に届けるのか?という大きな命題なのだろう。

そしてそれを背負い、応えられるスキルを持つスーパー才能集団こそが東京事変なのだ。

元来の才能を惜しげもなく疲労し、いくらだって何度だってそれを磨きあげようとするストイックなまでの姿勢がたまらなく美しいとすら思う。

もちろん彼らのそんな姿勢がたしかにどんな楽曲から窺えることも素晴らしいが、

そんな彼らの姿など関係なく、街で流れれば確かに有効にわたしたちの胸に響く美しい曲であること、

そしてそれをこんな高品質で我々に提供できる彼らにはもはや畏怖とも言えるほどの凄まじさをも感じるのである。

わたしはこんなに有効で健全で美しいポップバンドを他に知らない。




しかしながらまだまだ発売前のシングル。

マキアージュのタイアップソング(椎名林檎がCMに出演!)「女の子は誰でも」ももちろん気になるところである。

発売は二月二十三日。残り僅かと言えど、待ちきれない思いでいっぱいだ。

卒業制作/日本マドンナ
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「日本マドンナ」 若手ガールズバンドとして名前を聞いたことはあるかもしれない。

プロフィール写真をみると、ほんとうに、どこにでもいそうな可愛い十代の彼女たちだが、

一聴するとその(言ってしまえば)ありふれた少女の姿からは思いもよらない激しいリビドーが炸裂している。


「卒業制作」を聴いたのだが、ここにある溢れそうなリビドーには恐れをなした。

率直にいえば、彼女たちは決してうまいバンドじゃないと思う。

唄がうまいわけでもプレイが秀逸なわけでもないし、

歌詞だって端正なものでもなければ、思春期病を率直に書いてしまったような無秩序さと荒削りなものである。


彼女たちは未熟だ。バンドとして、音楽を産み出すものとして、未熟だと思う。


しかし「幸せカップルファッキンシット」と絶叫し、

怒りを抱えながらも「生きてやるわ」と高らかな宣言を掲げ、

田舎に暮らしたい と 思いながらも 東京で生きていこうとする彼女たちの

その気概、その思い、そのリビドーは

すべてを越えてわたしたちに届き、わたしたちを揺さぶっているのである。

ここにある彼女たちの激しすぎるリビドー、その激昂とも言える感情の昂り。

それは、“音楽”として表現したいと思う彼女たちの感情、そして魂 そのものなのであろう。

恐ろしいほどのエネルギーを放ち、聴く者、そして彼女自身たちをも消耗するかのような 彼女たちの激昂は

表現者なら誰でも思う、表現したい、表現しきりたいと思う “魂” それであろう。

驚くべきは十代の彼女たちがその 感情、魂をまさにこの一枚に閉じ込めているという事実なのである。


バンドとして、音楽を産み出すものとしての未熟さを超えてわたしたちに、自身の魂をたしかに届けさせる彼女たちに、わたしは素直に「すごい」と言いたい。

そして技術や知性といった枠を超えて届いてしまうほどの激しいリビドーを抱えた彼女たちの、その内面の重さをもふと思わされる。


だがしかし、この溢れそうなリビドーや感情、魂とは

それが“音楽”に昇華するまでの過程のものなのだと思う。

彼女たちはたしかに凄い、が、彼女たちは自身の気持ちを“表現”したのではなくあくまで“閉じ込めた”だけなのだろう。

だからこそ言うが、彼女たちは未だ“音楽”を創り上げていると言えないだろう。

感情が音楽になるまでの 途中 の段階、をパッケージングしたものだとも思う。

そしてそれは前述したとおり彼女たちの“未熟さ”によるものなのだろうが、

ロックンロールにおける“初期衝動”や“若さ”というものがここまで顕著に感じられるものも珍しいと思う。

未完成であるということがここまで明らかであり、

そして未完成であるからこそむきだしにある 表現(ひいては、芸術といっていいだろう)に閉じ込められたミニマムな魂をここに視る というのは実に貴重な体験である。

そして、未完成な彼女たちの現状を踏まえて、わたしはこの「卒業制作」を支持したい。

なぜなら単純に、この激しく熱いリビドーに突き動かされないでいられないのだ。

ファッキンシットと毒を吐きむきだしに怒りを表現する彼女たちのこの未熟さがわたしたちを揺り動かす。

端正でもないいびつすぎる世界が、大きな衝撃としてわたしを揺さぶる、

そしてそんなことを出来る世界を、わたしが、支持しないわけにはいかないのだ。

端正でもなにも動かせない世界だってある。

だったら私は彼女たちのこの未熟さだって熱烈に歓迎しよう。



とはいえ、バンドとして生きる、音楽を産み出すものとして生きる覚悟があるのならば、

彼女たちのこの“未熟さ”は大きなキーポイントになるだろう。

これから彼女たちがむかえる“成長”がどのような働きとなるのか、注意してみる必要もあるだろう。




若さと未熟さがパッケージングされた衝撃の一枚だろう。

嫌悪をしめす人もいるのかもしれないが、それすら彼女たちのリビドーの激しさの証明にもなろう。

とにかくわたしは、驚異をもって日本マドンナを支持する。




あっ、海だ。/つしまみれ
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来月にはニューアルバム発売も控えているつしまみれ。

3ピースながら濃厚でへヴィなサウンド、

ギター・ベース・ドラムすべてがぶっちぎってぶつかりあうからこそ生まれるその重み、

そこからぷんぷんと香る濃厚な熱い温度。

さらにはノリから生まれる言葉遊びで本気で遊んでいる姿には、初期のGO!GO!7188を彷彿とさせられた。

ヴォーカルまりのスウィートなロリ声にはJUDY AND MARY時代のYUKIを思い出したし、

彼女の声量やヴォーカリストとしてスキルそのものについては戸川純までも一瞬思わせる部分があった。

こんなことをいうと、各時期の特徴ある女性ロックの要素を集めたバンドなのか?とも思わせるが

そんなことはなく、この2011年という時代においても有効なロックバンドであることは間違いないだろう。

つまりは彼女たちは、素晴らしいスキルを携え、ロックバンドの精鋭たちのひとつとして活躍しているのだ。


彼女たちのスキルや、言葉遊びのたくみさについては今更わたしが言及することでもないが

(もし彼女たちを聴いたことがないのならば、どうか、一度聴いてほしい。その一聴で私の言っていることはすぐさまわかると思う)


個人的に秀逸だと思わされたのが「険悪ショッピング」なのだが、

この歌の凄いところは、彼女たちのこうしたサウンドのスキルが不穏に光りながら、

むき出しの、赤裸々の、乙女心が容赦なしに描き切っているという部分である。

まとめて言えば、二か月ぶりのデートに出かける倦怠期のカップルの歌、なのであるが、

ここにある主人公の心の微々たる揺れを、たしかにデートの進行にそって描いていく部分や、

さらにそれ音楽として有効なものとして成立をもさせてゆく凄さは、おおよそ誰にも真似できなどできないだろう。


彼の好みのジャケットを好きだと思えない主人公が、

「ごめんね 気にしないで あたしを

 あなたが好きなら好きだよ

 好きだよ!好きだよ!好きだよ!」

という部分のひたむきさ、その裏にあるもどかしさ!

閉じ込めた本音、のさらに裏にある<あなた>への想いがたしかに見える部分であろう。


さらにはデートの進行につれて、どうしてだがうまく行かない二人に対し

「これから はじまるはずでしょう?

 がんばろう!二人はこれから!

 がんばろう!がんばろう!がんばろう!」

強く歌う姿には、女子がだれでも一度は思ったことのある努力であろう。

わたしは男性ではないから男性の意見なんかわからないし、ここで恋愛という問題そのものについて言うつもりはない。

ただ、女子はたしかに努力しようとしているのだ。

うまくいかないデートにためいきをついても、それでも、「がんばろう!」と前を見ようとしているのだ。

そしてそこにある鼓舞は純粋に前向きなそれではない。

後ろ向きになれば離れてしまいうそうな恋の不安定さを知るが上に、「がんばろう」と言うことで自分の気持ちを繋げているのである。

「がんばろう」としなければ「恋」は続かない。だからこそ彼女は何度も「がんばろう」と言う。

そしてその思いをつくりだすのは、「あたしはあなたと歩きたい これからどこまでも!」というその気持ちひとつで十分なのである。

だからこそためいきついても、彼の好みを理解できなくても、「がんばろう!」と何度でも彼女は歌えるのである。




それでも最後の歌詞に残るのが

「あーん帰りたい! ああ限界

 やっぱこの人じゃなかったか。。や、それ言ったらはじまんないよ・・

 すきだよー すきだよー すきだよー 」


というところにエグいほどの現実があり、

うつくしく「がんばろう!」と思える女子の姿と同時に、

限界、と言い放てる女子の本音も見えてしまうのである。

やっぱこの人じゃなかったか。。というつぶやきには女子は膝を何度叩いただろう。

最後の「すきだよー」が、もはや、彼女の本音なのか、いい聞かせるためだけの言葉なのか、見極めはつけられないだろう。そしてそれは、この歌の彼女自身だって、そうなのである。

この表現にある女子のエグい現実感、

そしてそれをここまで端的に、かつ、秀逸に表現しうるつしまみれにわたしは賞賛を贈りたい。

ここまで痛快に、そしてみごとに、くるしいくらいに表現してくれる彼女たちをわたしは素直にすばらしいと思う。


今日全国のロックファンたちは、きっと、「ああ」と思いがけないニュースに心を戸惑わせただろう。

椿屋四重奏の解散、である。


わたし自身は彼らの熱心なファンというわけでもなく、

「薔薇とダイアモンド」くらいしか所持していなかったわけだが、

デビューから一貫したあふれそうな色気に仕掛けられるロックはたしかに唯一無二のものだと思っていた。

メンバーチェンジ等の動向も傍目から見ていたわけだが、

そうした苦渋をなめながらも彼らはまっすぐに進んでいく意志をたしかに携えていたように思っていた。

椿屋四重奏はそういうバンドだと思っていた。

順風満帆な道を進んでいるわけでは決してなかったと思うが、

それでも状況をタフに受け入れてロックを鳴らそうとする意志をいつも彼らからは感じていた。

その気概が、彼らの音楽から溢れだすオーラや空気のようなものをもたらしていたのだろう。

椿屋の音から溢れるものは、霧雨のようにわたしたちの耳に、身体に、内部を濡らしてゆく。

こんなに色っぽい仕掛けをしてくるバンドは同世代を見ても決しておらず、たしかに彼らは唯一無二だったのだ。

静かでありながらしたたかで、艶やかでありながら衝動的でもあり、見え隠れする理知と情熱がたまらなく美しかった。彼らから発せられる色気の独特さはそのままバンドの魅力であった。


ヴォーカル&ギターの中田が、解散によせるコメントで“椿屋は悪足掻きの青春”と称しているが、

こんなに美しい悪あがきなら、と思わずにはいられない。

バンドが決めた解散にリスナーがどうこう言うなんて、それこそ悪あがきだろうと思われても仕方ないが、

彼らのようなバンドがその道を終えるのはあまりに惜しい。


“冷静に客観的にみれば、
時代に何かしらの痕跡を残すようなアクションを起こす事は出来なかったし、
当初思い描いてた夢はそんなに叶えられていません。
悪く言えば、中途半端な…”


そんな言葉を残している中田氏のコメントにわたしの胸はあつくなる。

ああ、ロックバンドはいつだってこの思いを抱えて生きているのだろうか?痕跡を残したい、と、思い描いた夢をロックバンドで叶えてやるのだと。

だが、今までだってタフにやってきたじゃないか。

それまでが悪あがきの記録なのだとすれば、こんなに美しいもの、ほかにない。

なによりロックはそういうものじゃないか。

うまいやりかたなんかじゃないだろう?ロックなんて。

悪あがきしないでいられない、上手になんかやれない、そんなわたしたちのためのものだろう?

くるおしい苦悩に胸はいたくなる。

ロックを愛しロックに生きたロックバンドだからこそ、こんな結末になってしまうのだろう。

いまのわたしは、「なってしまう」としか、言えない。




椿屋四重奏の音楽は人々の中で鳴りやむことはないだろうし、

それぞれのメンバーもまた新しい何かを見つけることだろう。


過ぎ去った悪あがきの美しさ、

こんな悲しい形で知りたかったわけではないが、

いまのわたしたちに出来ることは、この今をたしかに知ることなのだろう。



その美しい名前をたしかに、痕跡として、残そうじゃないか。

どうしたって、いいにきまってる。残ってないわけなんか、ないのに。椿屋よ。




Ringo EXPO 08 [DVD]/椎名林檎

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椎名林檎がここ数年で私たちに問うていることは
実にシンプルなことだ。

天才という言葉を嫌うその所以は、
彼女の尊敬する“天才”たちがいつも
日々に向かい合うシビアな鍛練をくぐりぬけているが故である。
天才と非凡を分け隔てるそのラインとは
“努力”と“意識”でしかないと
彼女は訴え続けている。


そしてその言葉は彼女自身にもそっくり当てはまるのだろう。
コスプレや言動がフューチャーされがちだった彼女の二十代前半の葛藤とは
十代、思春期の感覚を成人した感覚の彼女自身が唄うが故に起きる世間の乖離と(要するに、世間が持つ印象と彼女自身のアンバランスさ)
こんなにも“唄い手”として生きているつもりなのに、
むしろ彼女の“人間”としての振る舞いばかりが取り上げられる世間の認知への悲しみである。

“この日本のポップミュージックを今よりずっとよくするんだ!”と息まいてデビューしてきた彼女にとって、
音楽よりも自分自身にスポットライトが当てられる状況は戸惑いでしかなかった。


そうした戸惑いの反動からなのかもしれないが、
近年の椎名林檎はことごとくビジュアルイメージを変える。
音楽自身をソースとしてその印象にそぐわないように
髪型をも激変させる彼女は、デビュー当時と変わることなく
音楽にその身を捧げているのだろう。
己自身はすでに音楽に対するサブの位置を示すものでしかなく、
メインを際立たせるための装置でしかないかのように思っているのでは、とわたしは椎名林檎をみると思うのである。
そしてそのことは同時に、、彼女自身を主体にしようとはしないという作業でもあるだろう。
(もちろん、彼女の音楽は、彼女の姿や肉体よりも、彼女自身であるだろうが)


この生林檎博における四回にもわたる衣装チェンジ(髪の長さをも!)からも

彼女がすでに彼女自身を特定する記号を拒否しているのではないかとすら思える。


たとえ彼女がどんなにそのパーソナルな部分をくらまそうとしていても
こんなにも燦然と、そして歴然と彼女の才能はわたしたちを衝撃的な感動へと導くのである。
たとえ姿をくらましたとして彼女の才能はわたしたちを惹きつけ、目を離すことを許したりはしない。
逆説的なことのように思えるが、彼女がパーソナルな部分、その姿かたちを音楽に捧げてもなお、
彼女自身の強烈な才能と唄い手としての凄まじさは隠しようもなく現れてくるのである。
彼女が嫌う天才という言葉を使うことこそしないが、
ここまで昇りつめる彼女の音楽家としての凄まじさを、わたしはもはや、崇高の域にまで達していると思う。

芸術選奨受賞もまさに納得、彼女の音楽がすでに文化といったレベルであることをも証明する一作であろう。


彼女が今この世界で音楽を発信することの意義をその肌で感じてほしい。

そしてそんな大義のことすら忘れて、彼女の危険すぎるほど芳醇なこの滋養の音楽に、溺れてしまえばいいのだ。

素直になれたら/I can be free/JUJU
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ここ数日は、ポップでキャッチーなもの、そして且つ、大衆に愛されるいわゆるヒットナンバーを聴いていることが多いのだが、改めてこうして音楽の多岐にわたる効用について思わされる次第である。

わたしは、コアな音楽のほうが価値がある、などという理屈を非常に好まない。

音楽業界の不振や、質のない音の広まりは痛感しているし、チャートの結果なんてもはや記録上のものでしかない。

だからと言って、コアな音楽、マイナーな音楽のほうが価値があるなどとわたしは思わない。

ヒットチャートにあがるだけで排他してしまうほどくだらないことなどない。それこそ、紙面上の記録に振り回される感受性など、問い直されるべきだろう。

音楽に記録も売り上げも関係などない。必要なのは耳と身体と心で十分なのだ。


個人的な主張をしてしまったが、今日書きたいのはJUJUの「素直になれたら」だ。

ヒットチャートと言ってもすでに一年以上前のシングルだとは思うのだが、あらためてこの良質なせつなさの嵐に胸を痛ませている。

JUJUに関して言えば彼女のアメリカ在住時代からその名前は知っていたということもあるし、その動向も気にはしていた。

今の彼女の方向性については多少の疑問はあるにしても、彼女のシンガーとしての実力について言えばまさしく本物だと思っている。

ゴスペル並に鍛えられた唄声でありながら、パワフルというよりもその匙加減を絶妙に理解しているあたりが実に心憎い。エモーショナルにふるえながらも実に理知的にメロディに寄りそい、音を高め合うためにその声を機能させているのだろう。

自分の声質も、そしてそのコントロールもすべて理解していなければできないことだろうし、ここまでメロディに寄りそう形、メロディ重視の視点はこの時代で理解されるためには有効な手段である。

彼女の場合、人並み外れたヴォーカリストとしての実力、そしてメジャーシーンにおける苦悩を味わいつくしているからこそ、今こうした手腕をとれるのだろうし、その中で彼女はたしかに自分の力を発揮している。だからこそわたしは素晴らしいと思う。決して自分を曲げずに、かつメジャーシーンというフィールドで勝負しようとしている心意気を、わたしはプロとしてはたしかな考え方だと評価したい。


こうしたJUJUの美声をとりまくのは、もはや理屈抜きで抜群にせつないメロディだろう。

わたしは、この曲のメロディをとにかく評価している。

キャッチーなのにたまらなくせつない、サビでたたみかけるように押し寄せるくるおしさに胸は支配されるだろう。

せつなさとキャッチーさ、一度聴けば思いがけず口ずさんでしまえそうな印象は、わたしたちの日常に安易にとけこんでゆける。

この“安易さ”が質の問題につながることもあるし、そういった側面も理解できるが、この「素直になれたら」の場合はたしかに有効だった。

それはこの唄に描かれているのが、着信がくるたびに彼からなんじゃないかと胸をゆらす女子たちの、せつない“日常”の“一瞬”だからだ。

恋をするわたしたちは恋という非日常で呼吸をする、だがそれは日常の上で成り立っているという実にアンビバレントな構造である。

そしてそんなせつない、とくべつな“日常”を、JUJUはその実力とハイセンスなメロディラインでもって見事に演出させてくれているのだ。

それはなにも恋愛に特化したことではない。

音楽という代物が日常に生きるわたしたちを彩るための存在なのだとすれば、彼女が生んだこの曲は見事にわたしたちにとって素晴らしい一作だと言えよう。


なにはともあれ、メジャーシーンや大衆性や、チャートだ着うたDL数だ、そんな数値や音楽をとりまく環境のことなど、もはやこの唄には必要がないだろう。

ここにあるくるおしいせつなさは、人間が持つ本質的な部分に訴えかけてくる。

強いエモーションで綴られるこの胸の痛みに、わたしたちが共感することになんの不思議もないだろう。

生きているわたしたちの、たしかに生きている感情に響くという実にシンプルなこの唄のくるおしさに、

音楽というものの底知れなさまで感じる次第だ。

もはやわたしのこのブログのこの言葉など、この唄の前にはなんの機能もなさないだろう。

わずか五分でわたしたちをせつなさの嵐に巻き込むこの唄のせつなさこそが、たしかな答えである。


Awa Come/チャットモンチー
¥1,995
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チャットモンチー久しぶりの新作「Awa Come」は地元・徳島で録音されたものだという。

「チャットモンチーになりたい」の頃の曲4つ、新曲の4つをぶつけた計8曲からなるこの一枚は、想像以上に濃厚であり、またチャットモンチーというバンドの凄まじさを改めて突き付けられたように思う。


一曲目の「ここだけの話」は、橋本絵莉子による徹底した“女子の素性”の描写を存分に味わえる。

“卑怯者でも遊んでね”“楽しいことだけ教えてね”というストレートすぎる欲望を、あっけらかんとした唄いっぷりにのどかなアレンジに乗せる妙がある。それでもギターの緩急の付け方であったり細部にまで気を配られているし単純にのどかとは言わせないサウンドへの意向も見られるところも味わい深いところであろう。

たとえどんなにゆるい世界観を提供しようとも、その音までゆるくなど決してさせないあたりに、彼女たちのこれまでの音楽家としての歩みをも感じさせられた。


個人的に言えば、2曲目「キャラメルプリン」には彼女たちの真骨頂、へヴィで痛々しいのに前を見据える強さと鋭さをも感じさせるくるおしいような世界には心底痺れさせてもらった。

イントロにギターの重い一鳴きを入れておいて、一瞬の無音のうちの橋本絵莉子が「何かを期待しすぎたって 奇跡のような突然変異は起こりっこない」と言い放つあの冒頭部分は、王道でありながら痛快で、同時に胸をかきむしらされるように苦しい。

あのイントロの重いギターのように全編に漂うのは激しいのに諦めが鎮座するような重さ、その諦めが空気として滲みながらもかき鳴らされるギターの音の悲しい強さにあるだろう。まるでそんな空気をかき消そうとするかのような激しさが橋本絵莉子のギターからは感じられる。だが、切っても切っても空気が切れないように消しきれない悲しい諦めがある。

そしてその消えない“悲しさ”こそが、キャラメルプリンの味を忘れてしまった、この唄の主人公の持つ悲しさと同じなのだろう。

苦いコーヒーも、仕事終わりのビールの味も覚えたその舌は

本当はきっとそんなことを覚えたかったわけじゃない。

それでも覚えなければならない、味わなければならない、そう、それは人生の苦渋なのだろう。

もちろんそこにある美しさは絶対に存在するだろう。それを覚えることは悪い事なんかじゃ、決してない。

でもわたしたちは遠い昔、そんな苦味を味わう必要性すらないまま、ただ素直に甘いプリンだけを知っていた。

そこにあるのは美しくてすこし切ない思い出だ。

わたしたちはもうその甘さだけでは生きていけないし、苦味を知るからこそ“現在”がある。

それでも切なく、突き動かされるように思い出されるその甘さは、過去の美しさ、失ったものとしての美しさに彩られる。それは涙でにじむように。

わたしたちはその甘さをもう一度味わいたい、のではなく

そこにある甘さ に 沁み込んだ美しい思い出を味わいたいのかもしれない。

そしていつだって思い出が過去のもので、過去のものほどせつなくいとおしいものだ。そしてそう感じる切なさと愛おしさまでも胸をしめつける。

“アルバムなしで思い出せる”過去の彩りには、過去だという認識と、戻らないし戻れないことを知る苦しさがあるのだ。過去を単純に慈しみ「戻りたい」などという生ぬるい意識など、ここにはない。

だからこそ、この曲の胸を刺すような激しさとへヴィさにわたしたちは共感する。

身を刺すような過去への想いは、“今”を生きなければならない私たちに付きまとう甘い苦い思いでもある。

そのくるおしさ、へヴィさを見事に体現する彼女たちのバンドとしてのスキルの高さには改めてわたしは衝撃を覚えるほどである。



それでもそのあとの「青春の一番札所」では、“すだち酒で乾杯!!”と唄いあげ、

“現在”をもたしかに謳歌する、二十代の女性としての変哲のない歓びもたしかに見られる。

また同時に、「あいかわらず」では0時、彼に会いたくて自転車を漕ぐ姿もあり、

新旧の曲が入り混じるこの一枚であるにも関わらず、新旧に遜色がないくらい、どの曲もたしかに「チャットモンチー」として時を意識させない有効性があるのだ。

そしてその有効性、とは、ロックンロールにおける“初期衝動”というマジックなど必要としなかった彼女たちのスキル、

つまり、描くべき情景や想いを“色あせない一瞬”として見事に描き切ってしまえるという、バンドとして、表現者としての凄まじさにあるのだろう。だからこそ、新旧という彼女たちの“時代”の差など感じさせないそれぞれの完成度が曲ごとにみられるのだ。

そしてさらに言うならば、彼女たちがデビュー以前からそのスキルをすでに持ち得ていた、ということがこの一枚によって証明された、ということだ。

チャットモンチーの凄まじさ、そのスキルの高さはいつだって意識させられていたし、自分でもそれは理解していたつもりではあったが、改めてこうした“事実”や“現象”として認知させられた次第だ。

やはりチャットモンチーは驚異的に恐ろしいバンドである。完成しながらも進化をやまない彼女たちの、磨かれ続けるポテンシャルには、畏怖に近いものすら感じる。

濃密な一瞬を真空パックするかのような完成度を体現できる彼女たちの、凄まじい“現在”を感じてほしい。

先日、安藤裕子ツアー JAPANESE POPに行ってきた。

ポップス的な幸福に満ちた今回のアルバムなだけに、わくわくした気持ちで楽しみにしていたし、

久しぶりに安藤裕子に会えるのが素直に嬉しかった。

身構えることなく参加したわけであったが、そんな開演前の気楽さはブチ壊れてしまうくらい

凄まじいライヴを目撃したのだった。



一曲目は「私は雨の日の夕暮れみたいだ」だったのだが、

この曲をCD等で聴いてもらえばわかると思うが、おもちゃ箱から楽しげな音が溢れるようなきらきらした一曲なのだ。

歓びやきらめきという印象が強いそんな曲にも関わらず、わたしは、思いがけず、泣いてしまった。

それはアレンジが感動的に施されていたということではない。

わたしは、安藤裕子の唄う姿の凄まじさに、泣いたのだ。

あれほど楽しげできらびやかな曲にも関わらず、

身を揺らし、振り乱すように、でも、踊るように、無我夢中に一心不乱に唄いあげる彼女の姿に、

わたしは猛烈な“凄まじさ”や“気迫”を感じたのだ。

もはや鬼気迫る、と言ってもいいくらいに唄いあげる彼女は、まさに“命を燃やし続け”ていた。

命の前で怠惰を許さない、その姿勢、その意識の激しさそのままに

彼女は今唄をうたっているのだ、ということがわたしには強烈に思わされたのだ。


その尋常ないほどの歌唱力とともに、彼女のその“生きる姿”にわたしのこころは激しく揺さぶられた。

その凄まじさ、激しさ。そしてその激しさを産み出す 真摯な彼女の生命への意識の尊さ、を思うと

わたしには涙をとめられなかったのだった。


その感動と衝撃、はライヴ全編にわたりわたしの心を、涙腺を強く揺さぶり、

たとえ涙を流すような曲でなくとも、わたしは何度も何度も涙をこぼした。

それくらい今回、安藤裕子からはもはや抑えがきかないほどの強い強い激しさを感じたのだ。

そしてそれは、安藤裕子がエレキギターを手にした、という事実ひとつとっても理解できるのではないだろうか。



彼女の楽曲が彼女の手によって、さらに凄まじい次元に行っていたことはいまさら言うまでもないことだが、

今回のライヴでわたしが核になっているだろうと感じたのは、

くるりの「ワールドエンズ・スーパーノヴァ」のカヴァーである。

安藤裕子がくるり、という組み合わせも多少の驚きをもって迎えられるだろうが、

そんなことよりも、ここでむき出しになる安藤裕子の激しさは衝撃であったのだった。



元来のくるりの「ワールドエンズ・スーパーノヴァ」は強いビート感がせつないのに心地よく、そこに乗せられるメロディはわたしたちの胸をしめつけるようにくるおしく、いとおしい。

そこには強い“浮遊感”があり、こっそりとしかけられるせつなさに胸を痛めさせながら、あまく導かれるようにわたしたちは“ミュージックフリークス”になってしまう。

少なくともわたしは彼らのこの曲にはそういった印象を持っているのだが、

安藤裕子の手によって、そのすべてが激しく塗り替えられた。(もちろん、くるりのこのうつくしい世界観を壊すことなく!)

全体的なアレンジはそれこそ大きな変化はなかったと記憶しているのだが、

くるりのそれが、強い浮遊感に支えられるある種の無機物感、生命でないものとして描かれる“音楽”なのだとすれば、

安藤裕子が行っていたことは、決して生命ではない音楽に“血を通わせる”ような激しさを伴うものだったとわたしは感じるのだ。

ミュージックフリークス、と唄う彼女はいまや、唄をうたうことで現実的に“生きて”いる。

それこそミュージックフリークスに愛され支持され生活を営む人間なのだ。

彼女は唄を選んで彼女は唄に選ばれた。そこにある強い責務を果たそうとするかのように、彼女は“音楽”に生命を与えようとしていたようにすら思えるのだ。

元来のくるりの「ワールドエンズ・スーパーノヴァ」にあったひそやかなせつなさも、

生きることの不安も強さも、そしてそれらをすべてを包んでいる音楽へのたしかな信頼も、

安藤裕子は“むき出し”に表現していたように思う。

生命を産み出す母親が大変な苦痛に身をさらすように、

音楽に生命を与える彼女は、もはや狂気的とまで言いたいくらいに溢れそうなエナジーを感じた。

わたしはこれをこの身を以って感じられたことを大変な幸福だと思うし、

これをやり遂げた安藤裕子の音楽家、唄い手としての高みも感じるのだ。



とにかく全体を通して安藤裕子の激しさ、気迫を感じさせられるライヴであった。

わたしはこんなに強烈に“激しい”と思わされるライヴはこれがはじめてだと言っていい。

ゆるみを許さない全身全霊のパフォーマンス、思い出すだけで思わず胸が熱くなる。

この2時間を体感できた幸福を思い起こしながら、

あれほどの激しさを以って彼女が訴えてきたこと、つまりは「生命を燃やし続ける」責務について

私は改めて自分を問い直している最中である。