ソウルメイトの思想

ソウルメイトの思想

唯物論に対する懐疑と唯物論がもたらす虚無的な人間観、生命観を批判します。また、唯物論に根ざした物質主義的思想である新自由主義やグローバリズムに批判を加えます。人間として生を享桁異の意味、生きることの意味を歴史や政治・経済、思想・哲学、など広範二論じます。

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 暮れもおしつまりましたね。あと少しすれば新年です。

 みなさんは、お正月をいかがお過ごしになられますか?

 普段は忙しくしておられるでしょうから、たっぷりと休養をとって鋭気を養っていただきたいと思います。

 お正月とはいえ、たいていの人は、そうヒマでもないと思います(いろいろと楽しいことがあるでしょうから)が、もし、ヒマを持て余すというような方がおられましたら、以下に述べるようなことについてじっくりと考えてご覧になられるのもよろしいかと存じます。



 貨幣経済が発達した世の中になりますと、お金がなくては、家賃を払うこともできませんし、食料や衣料を買うこともできません。「地獄の沙汰も金次第」かどうかは、定かなことはわかりませんが、すくなくとも現世の、貨幣経済が発達した社会に生きる者にとって生存を継続するために、お金は必要不可欠なものでしょう。

 お金がなければ、誰かにもらうか、貸してもらうか、他人から盗むか奪うか騙し取るしかありません。貴重なお金を何の見返りも求めずにくれるという人はそうそういませんから、普通は 、犯罪を犯す覚悟がなければ、貸してもらおうとするでしょう。

 しかし、貸してもらうにしても、貸すほうは、返済が確実であることを条件としますから、資産があれば、抵当権などの担保を取るか、保証人を立てるかしないと貸してくれませんし、借りたお金はいずれ元利そろえて返さなくてはなりませんから、当座の用に間に合うだけでしょう。貨幣経済が発達した世の中で生き続けるためには稼ぐ力が必須なんであって、高度に発達した金融制度はなんの役にも立ちません。そもそも、担保となる資産を持たない者に、銀行はお金を貸してくれませんし。

 しかし、そもそも、高度に貨幣経済化された社会に生きる人間にとって必須で不可欠なお金というものはどのようにして存在するようになったのでしょうか?

 数千年前の古代文明までさかのぼって貨幣の起源を探る、というのは、文化人類学などの学問分野においては、興味をそそられる研究対象となるでしょうが、すでにして貨幣経済が高度に発達してしまった社会に生きる者にとっては、まどろっこしい話です。

 現代の管理通貨制度が採用される社会のもとでお金は、国家が発行してその流通に法的根拠を与えることで、お金というものは作り出され流通するようになります。

 現代貨幣論という、まだそれほど知名度が高いとは言えない経済学説がありますが、みなさんご存知でしたか?お金の生成と流通、消滅について非常に明晰なロジックを提供してくれる経済学説で、現代貨幣論はMMTとも表記されます。

 現代貨幣論(MMT)では、あらゆる経済的関係を債権と債務の関係に還元して考えます。で、現代貨幣論(MMT)がお金についてどのように考えるか、というと国家が個人や企業、つまり国民に対する徴税権を相殺するために用いられるのが、お金の第一義的な役割だと考えます。国家が個人や企業に対して財の徴収や労役を課すことのできる徴税債権をお金を支払うことによって免れることができる、と考えるわけですね。

 お金がなければ、国家の徴税債権の行使によって自分が保有する財産が強制的に取り上げられ、あるいは、強制的に労役に服さなくてはならなくなるのを、お金を支払うことによって免れることができるので、人びとは争ってお金を求めるようななる、というわけです。なぜ、人がお金を欲するのか?についての現代貨幣論(MMT)の回答は以上のものです。

 現代貨幣論(MMT)によれば、なぜ日本国内では円が優先的に流通し、ドルやユーロ、元が流通しないのかと言うと、日本国政府が租税の納入として日本円を求めるからだと説明します。わたしは、日本の法定通貨である円が決済手段としての有効性を法律が規定していて、円による債務の弁済を拒むことができないからでもあるだろうと考えますが、現代貨幣論(MMT)によれば、それは、本質的な理解ではないそうです。


 また、わたし自身は、人がお金を欲求するのは、お金によって社会的に有用な財やサービスを購入することができるからだ、と考えますが、現代貨幣論(MMT)によれば、それはお金の本質を言い表したものではないのだそうです。

 現代貨幣(MMT)の明晰過ぎるほど明晰なロジックは、たしかに切れ味が非常によろしくて、容易には有効な反論を思いつきませんが、それで、納得したかというとそうでもなくて、釈然としない違和感が残ります。わたしが、どうしてもぬぐうことのできない釈然としない思いを明確に言葉にして、かつ、的確に答えておられるのが、わたしの尊敬措く能わざる「うずら」さんによる以下のご考察です。

 

 わたしごときの稚拙なロジックでは、到底、頭脳明晰な現代貨幣論者のロジックに太刀打ちできませんでしたが、要するにわたしが釈然としないことが見事に言い尽くされていると思います。これをお読みになられたみなさんはどんなご感想をお持ちになられるでしょうか?

 以下にリブログさせていただくブログのコメント欄には代表的な現代貨幣論(MMT)者との間でなされた議論が記録されていますので、お読みになってご覧ください。




 さて、みなさんは、「信用創造」とい言葉をお聞きになられたことがあるんじゃないかと思いますが、「信用創造」というのは、別に現代貨幣論(MMT)に特有の考え方というわけではなくて、現代におけるたいていの経済学者や金融マン、企業経営者、ビジネスマン、官僚たちも常識としていることです。


 しかし、上記のたいての経済学者や金融マンや企業経営者、ビジネスマン、そして、官僚たちの多くが考える「信用創造」とは、おそらくWikipediaに記載されたもののようなことであって、基本的に、それは「又貸し」と言ってしかるべきものだと思います。


 ところが、現代貨幣論(MMT)が考える「信用創造」というのは、それとは本質的に異なるものなんだそうです。先にリブログさせていただいたブログのコメント欄で代表的な現代貨幣論(MMT)者が何度も繰り返し説明しておられるように、現代貨幣論(MMT)によれば、銀行は、預金つまり、預金者から預かったお金を又貸しするのではなく、預金とは無関係にお金を貸すことができ、貸出すお金は、銀行員がペンで貸出決済書類にサインすることで「創造」されたもの、なのだそうです。

 銀行(員)は、貸出を受ける者の返済を信じて、あたかも無から有を生ぜしめる如くにお金を「創造」している、というのが現代貨幣論(MMT)の主張なわけです。

 それについて、わたしは半信半疑といったところで、銀行(員)がペン先で無から有を生じさせるようにしてお金を創造することもあるだろうけれども、又貸しもやっているんじゃないの?と今のところは思っております。みなさんは、どう思われますか?たとえば、株式を売買する場合に、自分の手持ちの資金の範囲内だけでなく、特定の将来において清算することを約束して手持ちの資金以上に株式を売ったり買ったりすることができます(いわゆる信用取引)から、銀行が行う融資の中に、そのような信用取引によく似た融資が存在しないとは言えないだろうと思いますが、株式の取引のすべてが信用取引ではないのと同様、銀行の融資のすべても信用創造ではないのではないか?と考えるわけです。


 しかし、問題は、もし、銀行に準備金をてこにして、それを何百倍にも膨らませて通貨を「創造」することができて、その実体が、銀行(員)の貸出が必ず返済される、という信頼にのみ基づくものだとしたら、現代社会の金融システムはきわめて危うい土台の上に構築された、非常にもろいものなのではないのか?という懸念、もしくは、不安を感じないわけにはいかないと思います。


 また、通貨とは国家の通貨発行によって生まれ、徴税によって消滅するものだと現代貨幣論(MMT)は主張しますが、いったん生まれたお金というものは、そう簡単には消滅しません。徴税によって徴収されたお金は記録として残り、消滅するわけではありませんからね。いったん発行された通貨は、記録の形であれ、べつの形であれ、存在し続けるでしょう。管理通貨制度のもとでお金とは記録に過ぎないとしても、いったん生まれたお金を記録上、勝手に消滅させてしまうことは簡単にできることではありません。


 では、それは、なにをもたらすかと言えば、貨幣の過剰蓄積とそれが可能とする富の独占と集中でしょう。

 以下にリブログさせていただく高樹辰昌さんがお書きになられたブログの中で高樹さんが論じておられるように、現代貨幣論(MMT)が主張するように、徴税によって消滅させられるはずの貨幣が、タックスヘイブンなどへの資金逃避によって徴税を免れ、また、高樹さんが一連のブログで考察されたように、多国籍企業が複雑で巧妙な仕組みによって租税を回避することによって、現代貨幣論(MMT)の精緻で精密なロジックをあっさりと超越してしまい、そのようなものに現代貨幣論(MMT)のロジックは功を奏さないのではないか?と思います。


 現代貨幣論(MMT)は、特定の局面におけるお金の流れや動きを非常にクリアに説明することに成功していると思いますが、グローバル化の進行・進化した経済環境において万能ではないと思います。


 端的に言うと、富(貨幣)の一部の者への過剰な集中と独占こそが経済活動だけでなく、人びとの生活と生存を困難にし、ついには資本主義や文明そのものを機能不全に陥れさせると言っていいと思いますが、それにたいして現代貨幣論(MMT)は、かならずしも有効な解決策を呈示しているわけではないとわたしは考えます。みなさんはいかが思われるでしょうか?

 最後に一言。

 きわめて頭脳明晰な現代貨幣論者と議論してわたしが学んだこと、それは、相手の主張をできるだけ正確に把握することにつとめること。相手の主張を頭から否定するのではなく、もっともだと思える点については、素直に同意する謙虚さと素直さを持つこと、です。