古今、スピリチュアルブームである。
いろんなスピリチュアルの書籍やブログなどが溢れんばかり。
そんなスピリチュアル話を読んでいると、
「世界は素晴らしい」的な話が多い。
まあ、だからこそスピリチュアルなんだろうけど、
でもそんな話に触れるたび、
そんな「美談」は、結局は強者の論理じゃないかなと思う。
この弱肉強食の自然界で頂点に立った人間だから、
スピリチュアルな美談が言えるんだろう・・・って。
世界には、いろんな素晴らしいところや良いところはたくさんある。
でも、たまにこう思ったりする。
「この世界は本当に美しいのか?」
世の中、もちろん真面目ばかりではないし、
正義を振りかざすつもりもないんだけど。
この自然界は弱肉強食。
そのお陰で、個体数が異常に増えなくて良いシステムとなっている。
しかし、「食われるため」に多くの「命」を生むって・・・?
産んだうちの一部が生き残ればいい・・・ってシステムか。
「命」ってその程度なの?
「他の命をいただいて生きているのだから、いつも感謝をして食している」
って言うスピリチュアルな人は多いけど、
感謝しているからいい・・・じゃなくて、その先に踏み込もうよ。
「このシステムはどうなのか?」って。
昔は、神に捧げるものとして、
幼い子どもを生贄として儀式を行う・・・なんてことが、
けっこう、世界中にあった。
無論、無意味な生贄なのだが、
これは「弱肉強食脳」に支配された人間の「思い込み」と「恐怖」によって、
幼い子どもを生贄(神の食い物?)にしたというわけなのか。
せめて、幼い子どもじゃなくて、成人男性を「犠牲」にすればいいのに。
これも、強者の論理のひとつの表れだろう。
「弱い者」が「強い者」の犠牲になるのは仕方がない・・・なんて観念が、
人類の集合意識にあるのかな?
一方で、かよわいものを愛おしく感じる「本能」もあるようだが・・・。
ちなみに、「子ども」は漢字では正式に「子供」と書くが、
この「供」という字は、神などに供えるものという意味があるそうだ。
また、昔は貧しかったから、
赤ん坊を間引いたっていう現実が普通にあったが、
何でそんな状況になるの?
自然界が多産多死のシステムだから?
そして、そんな間引かれる状況になるのが分かっていても、
魂は転生して生まれてくるの?
この世界は、スピリチュアル的には「魂の学び」の世界というが、
これらが本当に学びなのか?
苦しみの多いこの世界。
何も苦しんで死ぬことはないと普通に思う。
苦しんで死ぬ人が多いなら、単にこの世界は異常だと思うのだが、
こう言うと、ネガティブ思考として一蹴されるんだろうか?
「本来の魂の世界」には「苦」などはないという。
スピリチュアル的には、わざわざ「苦」を味わうために、
この世界に来ているという話もある。
ちょうど、わざわざお金を払って、
遊園地のジェットコースターに乗ってスリルを味わうように。
なるほど、わからんでもないけど、
それにしても、こんな悲劇や苦しみはどうなんだ?・・・っていうのはある。
自然界では、肉体が弱っていれば捕食者などに狙われる。
人の心も弱っていれば、何かと狙われる。
目に見えない世界でも、力による支配争いがある。
ここはそういう世界。
どんなに人間が綺麗事を言ったとしても、
人間が生きる上で「犠牲」になった他の生き物にとっては、
いったい、どのように聞こえるだろうか?
生きるということは、他の生き物の命をいただいて生きている。
今日を生きるために、どれだけの命を食したのだろう・・・?
食物連鎖を通して、「命をつないだのだ」と美談的に主張する人もいるが、
では聞くが、あなたの大切な人や子どもを「命をつなぐため」という理由があれば、
それならしょうがないと、他の生き物に食用として(生贄として?)差し出すのか?
そもそも、多産多死ではないシステムにできなかったのだろうか・・?
せっかく、命のあるものとして生まれてきているのに、
食いつ、食われつの一生か・・・。
自然界では、今日も流血モノの生き残りをかけた争いがフツーに行われている・・・。
ちなみに、野菜は人間にとって大切な食材なんだけど、
植物(野菜)自体は捕食されないよう、様々な機能を持っている。
つまり、捕食を拒絶している。
野菜に電極を付けて包丁で切ってみると、
その瞬間に反応がみられたという実験結果があると何かで読んだことがある。
この「反応」は「悲鳴」かもしれないという話だった。
野菜は食われることを喜んでいるわけではない?
もっとも、何かの反応があったからといって、
「これは悲鳴に違いない」と決めつけるのは良くないが。
まあ、菜食主義で肉を食わない分、野蛮ではないとは言えないんじゃないかな?ということ。
ちなみに、フルーツ・くだものならどうだろう?
くだものの果実の部分は、植物が繁殖するために、
あえて動物に食われるために進化したという説が有力だ。
くだものが動物に食される → 中にある種子は動物の体内を通じて排泄される
→ 結果、広い範囲に種子の散布ができる
という目的のために、
動物が食べられる部分を種子の周囲に発達させたものということ。
であるのなら、Win-Winの関係で、なかなかいいんじゃないかな?
お互いの利益のために、誰も傷つけない食物連鎖は理想だね。
そういえば、神話なんかに登場する「楽園」の世界では、
肉や野菜よりも、くだものを食べるシーンが多かったような気がするが・・・。
また、食う食われる以外にも、
大きな生き物が地面を歩けば、下で踏み潰されて圧死する小さな生き物がいる。
海辺の砂浜で、人間が一歩、砂を踏むたびに、
砂の中に生息している微生物を相当数、圧死させている。
人がスピリチュアルな「美しいドラマ」を浜辺で展開したとすれば、
一方で、その足元では「犠牲」になっている生き物がいる。
・・・と、まあ、こんなことを考え始めて、
下手に負のループに陥らない方がいいんだろうけど・・・。
人間、「生きるため」に、仕方なく悪事に走ることがある。
特に貧しい時代は、そんな人が多かった。
「生きるため」という目的があれば、悪事も正当化されやすいのか?
「生き残り至上主義」な世界って、どうなんだろう?
「とにかく生き残ればいい」っていう「本能」は美しくない。
生物の「進化」は、
「いかにして生き残るか」
「いかにして子孫を残すか」
が至上命題となっている。
しかも、生き残るためには、
あるいは子孫を残すためには、
他の命が犠牲になってもお構いなしで・・・。
人間も「生き残り至上主義」が、いろんな悲劇を生み出している。
結果、新たな「カルマ」を生んでいる。
その「カルマ」を解消するために、また生まれ変わって、
でもまた新しい「カルマ」が生じてしまって・・・
を繰り返しているのが現状じゃね?って思ったりする。
スピリチュアルにかぶれていい気分になると、
いや、スピリチュアルなことに限らないが、
良い気分になれば、世界を賞賛したくなる心理が人間にはある。
逆に悪い気分になれば、世界にケチをつけたくなる心理がある。
ある時は賞賛し、ある時は毒づいているのが、
良くも悪くも「ヒト」なのかな・・・?
「ドラマ」的には、その方が面白いんだろうけど。
ただね、それにしても、シャレにならないような悲劇もある世界ってどうなんだ?と思ったりする。
まあ、毎日を楽しく過ごしている人生は、
それはそれで大いにけっこうなことなんだけど。
しかし一方で、世の中に多くの悲劇があるのなら、
「自分は幸せだから」でいいのだろうか?と思ったりもする。
例えるなら、ブラック企業に勤めていても、
自分の待遇は良いからいいや・・・というものでもないように。
まあ、あまり世の中や他人の不幸を気にし過ぎても良くないのは確かだけど・・・。
考え過ぎない方が、きっと楽に生きられるんだろうけど。
「バカ」な方が幸せなのかな(笑)
悲劇は幸せを引き立てる効果がある。
ツライ事を乗り越えた結果、その幸せがあるのなら、
その幸せをありがたく噛みしめることだろう。
そのような要素は否定しないし、
それが好きならやればいい。
「苦しい時に鍛えられる」
「この苦難を経てこそ」
大いに結構、本人が好きならやればいい。
でも、苦しまない(苦労しないと)と幸せになれないっていう観念は育てたくない。
「その苦があったからこそ、今の幸せがある」と言うのなら、
じゃあ、また同じことをする?
大切な人に、その「苦」をやれって勧める?
苦難を経て、人生の問題が解決されてハッピーとなったとしても、
「苦労したこと」を自慢げに思いたくない。
楽しい毎日でも、世界に対する執着心を強めたくはない。
世界の素晴らしいところは享受するけど、
世界に振り回されたくもない。
希望を持ってこの世界を生きたいとも思うけど、
生きることに媚びたくはない。
「生き残るため」「食うため」に、不本意なことまではしたくない。
「生きる心配」のために「生きるエネルギー」を使いたくない。
「生きるため」、「食うため」に自由を奪われたくない。
「生」に対する余計な執着をなくせば、自由度が上がる。
「生きるために仕方ない」という考えを捨てれば、
余計な苦労もなくなって、
幸福に近付けるんじゃないかな・・・と思う。
人類は、野蛮なシステムから脱却し、
調和の方向に向かっていると信じて、
今日も生きていくか・・・。
(乱文乱筆、失礼しました)