仙台の不動産開発にも、リーマン・ショックの影響が影を落とす昨今。
それでも、ここ2年間で約700億円が民間開発に投資されている。

七十七銀行をはじめとする堅牢な地銀が、
仙台を守っているといっても過言ではないかもしれない。
だから未だに預金は欠かさない。
僕の微々たる預金で思う存分投資して欲しい。

仙台に東京資本が金を落としてくれるのは結構だが、
仙台から吸い上げた金を東京に持ってかれるのは癪ですねと。


[仙台駅前周辺]
仙台駅西口で最も注目されている案件は、
仙台ホテルと大成商事GSビルの再開発。

開発主はオリックス不動産のようだ。

アフロの結婚式があった仙台ホテルは思い出深いが、
たしかに老朽化は否めず一体開発が期待される。


東口では、ヨドバシカメラの店舗改築や
劇団四季の劇場建設により仙台農協ビルが買収された。

また、
仙台市初の再開発ビルであるスカイビルの売却先が注目されている。

東口の宮城野大通りに自転車道ができていて驚いたが、
楽天カラーで統一するところあたりが面白い。


[東二番丁通り]
活気があるのは仙台トラストシティ、仙台ファーストタワー、
一番町平和ビルの並び。

仙台ファーストタワーには、藤崎が中心部の4店舗目として出店した。

オリジナルのファサードを用いたと発表しているが、
オーストリアでよく目にした商業施設のファサードだなぁという印象と、LED照明も相まってエロい雰囲気だなぁという印象がある。

グッチ、イヴ・サンローラン、セルジオ・ロッシといった
ブランド店が軒を連ねている。


一番町平和ビルといえば、佐々重が入っていたビル。
最短で2010年末オープンのようで、
10階建て程度の商業・オフィスの複合ビルとして計画が進められている。


森トラストの仙台トラストタワーはスケジュールを順調にこなしており、
2010年に完成予定。

仙台トラストタワーでは、
1万人が仕事・居住・宿泊などで利用すると想定されており、
近隣の商業地区であるサンモール一番町が積極的に集客策を展開している。

その中で、サンモール一番町の最大の目玉が、
地下鉄東西線一番町駅と連結する予定の商業業務複合ビル計画である。
事業費50億円で、地上9階地下3階になるそうだ。


[郊外]
仙台市案では、以下の8地区が主な区画整理事業の対象となった。

(1) 泉中央南 総事業費8億9000万円
(2) 荒井駅北 
(3) 荒井南  総事業費24億1000万円
(4) 荒井西  総事業費98億600万円
(5) 富沢富田 総事業費198億4700万円
(6) 愛子   
(7) 青葉山
(8) 六丁の目

あすと長町は、インフラ整備がほぼ終了。

ただいま工事中の地下鉄東西線八木山動物公園駅前広場であるが、
完成予想図を見る限り、
駐車場・駐輪場・バス停留所・タクシー乗り場で構成される交通結節点になるようだ。


面白そうなのが、2011年オープン予定の仙台水族館だ。
日本で2番目に古いというマリンピア松島水族館の仙台市移転計画で、
総事業費80億円だそう。

興味深いのは、水族館では初めて証券化型スキームを採用する点だ。
事業主体は合同会社の仙台水族館開発で、この会社に金融機関が貸付、
仙台急行などが出資、マリンピア仙台水族館と運営委託契約を結ぶ。

関わっているのが元ゴールドマン・サックスの方だけに、
僕としては眉をひそめたくなるわけですが。


長町では、ザ・モールの隣にララガーデン長町を今秋オープン予定。
三井不動産が建設しているようで、三井アウトレットモールなど仙台に積極介入している印象。


[教育]
青葉山に新キャンパスを建設する東北大学だが、
資金繰りに苦しんでいるようだ。
しかし、開校は予定通り2011年4月と変わらず。

産学官連携を目指し、企業の研究所を誘致しようと、
数年間は固定資産税100%免除する施策に打って出た。

東北学院大学は2020年までに泉キャンパスを段階的に移転する計画。
泉・土桶・多賀城のキャンパスを統合するのが目的のよう。
東北大学片平キャンパス南側を利用したいようだ。

驚いたのが、仙台電波高専と宮城高専の統合だ。
国立仙台高専として10月1日から始動するようで、
学科構成や専攻科を充実させていく意向のようである。



[参考文献]


仙台経済界2009臨時増刊号 仙台のプロジェクト100.仙台経済界.

3.まとめ


心理学で扱う生体とは、比較的高等動物(チンパンジー、ハト、マウス、人間など)に限られるが、

生理学では動植物全般を扱う。


例えば、William Harveyが血液循環を発見したのは、

比較的血液の流れが遅いカエルなどでの観察にもとづいているし、

神経の働きの基本である興奮のメカニズムは、イカの太い神経線維(巨大軸索)で解明されたものである

(小幡,1997)


生体と物質の違いに関する生理学と心理学との見解の相違を知るためのよい例がある。


ここに、外見上人間そっくりのロボットがいるとしよう。

そのロボットは、知覚・学習・記憶・行動・感情などの面でも人間そっくりなのである。


心理学者はたとえそのロボットが機械じかけと分かっても、その行動や感情の表出を観察し、

さっそく研究にとりかかるだろう。


しかし、生理学者はロボットを解剖し観察した結果、

それが機会とプログラムで構成されていることを知った瞬間に研究をやめてしまうだろう。

(今村,1983)


これは極端な例かもしれないが、つまり心理学ではこのロボットを生体として扱うが、

生理学では物質として扱うということである。


このように、生理学と心理学は生体を研究対象としているのは共通でも、

心理学では生体を行動・知覚・学習などをするものとしてとらえ、

生理学は生体を細胞を基本構造として筋肉・臓器・神経をもつものとしてとらえているのである。


[参考文献]


新生理学/小幡 邦彦

¥5,775

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今村護郎 1983 行動と脳-心理学と生理学-.東京大学出版会.

2.心理学における生体と物質の相違について


心理学における生体と物質の違いを一義的に述べることは難しい。

なぜなら、その違いは時代にともない変化しているからである。


心理学という学問は、人間に身近な現象を取り扱う傾向が強いので、

時代や社会・流行などに影響を受けやすいのである。


現代の心理学は、幅広い領域にまたがっており、領域ごとに生体と物質の違いについても

異なった見解を示していると言ってよい。


また、心理学の歴史をたどっても見解が異なっていることがわかる。

ゆえに、心理学における生体と物質の相違について、

心理学の歴史をたどりながらその変遷をたどってみよう。


心理学の源流は、万学の祖であるアリストテレスにまで遡ることができる。

アリストテレスは、自身のヒエラルキー的世界観において生体と物質を区別した。


その世界観とは、最下層に物質をおき、その上に植物、

その上に動物、最上層に人間をすえたものである。


人間・動物・植物と物質の相違は、生命の有無である。

そして、高次の段階になるにつれ、生体やその行動の複雑性、適応力が上昇するというのである。


一方、古代一般の人々は、人間以外を生体とは認識していなかった。

人間はこころをもつものとして、他の存在とは別格であり、こころについて哲学的な試作を行っていた。


心理学が現在のように科学的・客観的な学問として成立したのは、19世紀後半のことである。

それは、心理学の父と呼ばれ、生理学者で哲学でもあったヴントによって行われた。


ヴントは生体と物質の違いを意識の有無としている。

それゆえ、意識が認められる人間以外は生体として扱っていなかった。


ヴントに反発し、ワトソンは意識という主観的なものを排除し、客観的な行動のみを研究対象とする

行動主義を打ち立てた。


つまり、ワトソンは生体と物質の境界を行動の有無と結論づけたのである。


一方、ゲシュタルト心理学というものも行動主義と時を同じくして成立した。

これは、科学的要素還元主義を用いず、複雑系の創発論的に、

知覚や感覚の全体は感覚的要素の総和以上であるとする立場である。


つまり、知覚や感覚の有無に生体と物質の相違を求めたのである。


それまでの心理学は人間以外の動物を生体としては厳密に認識してこなかった。


心理学で人間以外の動物を生体として扱ったのは、スキナーである。

スキナーは、ハトを魚雷にのせて魚雷を操作させようとしたことからも分かる通り、

学習できるものはすべて生体とみなした。


比較的下等動物は本能行動に依存するが、高等動物は発達するにつれて、

経験によって学習した行動に依存し、環境に能動的に働きかける。

このようなスキナーの立場は新行動主義と呼ばれた。


以上のような流れをくみ、最近の心理学が扱う領域は非常に幅広く、

産業・芸術・法律・政治・経済・社会・臨床・環境・認知・交通など数えればきりがないほどである。


先ほどは、その領域ごとに生体と物質の違いについての見解は異なると述べたが、

最近の傾向として、一部の心理学者が生体と物質の相違を意識や心の有無によると

考えていることも事実である(トランスパーソナル心理学など)。


心理学のある分野では、紆余曲折を経て、再びアリストテレスやヴントの時代の原点に帰り、

現在、心の科学として成立しているのである。


また、今回は生理学と心理学を区別したが、生理心理学という分野がある以上、

その区別に大した意味はないのかもしれない。


[参考文献]

生命倫理学入門 (哲学教科書シリーズ)/今井 道夫
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法と心理〈2006年 第5巻第1号〉特集 裁判員制度―制度の成立過程と法学的・心理学的検討課題
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法と心理学のフロンティア〈1巻〉理論・制度編
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法と心理学のフロンティア〈2巻〉犯罪・生活編
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Rで学ぶクラスタ解析/新納 浩幸
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1.はじめに


生体と物質の相違は、どのようなところにあるのだろうか?

本論文では、この疑問にせまるため生理学と心理学という異なる学問体系を紐解きながら、

生体と物質の相違について考えてみることを目的とする。


まず、生理学における生体と物質について考えてみよう。


1-1.生理学における生体と物質の相違について


生理学における生体とは、その基本要素が「細胞」であるものであり、

物質とは、その基本要素が「元素」であるもののことである。


生体も物質も、電子・陽子・中性子・素粒子からできていることは明らかであるが、

化学的に物質の特性を失わない最終の要素が「元素」であり、

生物の特質を失わない最終の要素が「細胞」であると言い換えることもできる。


アメリカの生理学者Cannonは、生体が常に合成と分解、摂取と排泄、刺激と反応を繰り返し、

恒常性による環境への適応をしていると定義した。


また、高木・中山(1960)は、生体をエネルギー消費、反応、成長、増殖、死亡、適応するものと定義する。


2つの生体に関する定義は、表現こそ違えど同じことを前提にしている。

その前提とは、生体における様々な機能は、すべて細胞なしには語れないということである。


なぜなら、そのような機能は生体に備わった細胞の働きに他ならないからである。

それは、福田・小川(1972)が、

「生体を成立させている器官や組織の働きは、個々の細胞の働きを土台としている」

と記述していることからも分かる。


そして、生理学では生体と物質の中間の存在も定義している。

その存在とは、ウイルス(Virus)である。


ウイルスは核酸とタンパク質からなる複雑な化学物質であると同時に、

ある環境では生物の特徴を示すようになる(山本ら、1982)。


[文献]


生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)/福岡 伸一

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時間は実在するか (講談社現代新書)/入不二 基義
¥819
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福田邦三・小川県三 1972 人体の解剖生理学,pp.9-11,南山堂.


高木健太郎・中山昭雄 1960 生理学入門,朝倉書店.


山本敏行・鈴木泰三・田崎京二 1982 新しい解剖生理学,pp.1-8,南光堂.

3.都市と人間の相互作用

これまで論じてきたことからも明らかな通り、都市と記号論との関係は深い。
それでは最後に記号論の視点から都市と人間との相互作用について論じることで締めくくりたい。

最初に論じたように、宇宙観の変遷に伴い都市の構想は変化してきた。
放射状の都市は、異質性・異方性を有した特異な場所として存在している。
つまり、境界・領域が曖昧であるということだ。

一方、グリッド状の都市では、均質化された空間であるため領域がはっきりと区分されているものの、
断片化され人間の行為の連続性を遮断してしまう。
そこでは、記憶が曖昧になってしまうだろう。

森(2001)は、近代都市を記号都市だと言っている。
つまり、都市は脳の外化であり、あらゆる面において言語脳の生成物である用語(ターム)によって
デザインされ維持されているということである。

これは、記号の象徴性を強調している。
なぜなら、象徴性とは表象のことであり、時間と空間を越えてめぐらされるものであるからだ。

また森は、象徴性には感情が伴うことも述べている。
都市によって抱かされる感情とは、魅力であり恐怖だろう。

人間は全体が見通せないものに関して魅力を感じるとともに恐怖を感じる傾向にある。
これらの感情を想起させる都市とは、やはり不思議な存在である。

また、先述の通り、都市に溢れる情報の質と量が劇的に変化したことを述べた。
情報の質の変化は、我々のコミュニケーション手段に影響を及ぼす。
そして、情報の量の変化は、我々の感情・感覚に多大な影響を及ぼす。

篠田(1982)は、「都市の混沌ぶりが各種記号の氾濫を生み出し、
都市で生活するものや働くものたちを疲労させ混乱させる」と述べている。

つまり、過激な刺激(情報)にさらされることは、
人間の情報処理能力や注意資源の限界を考慮すると自己防衛を取らざるを得ない状況だということだ。
その自己防衛手段とは、情報を自ら遮断し、無感覚になることである。

4.結論

以上のように、都市と人間の相互作用を論じてきたが、
都市が我々の感覚を鈍感にしているとすれば、何か解決策はないだろうか。

吉岡(1989)が、その解決策の手がかりを与えてくれている。
彼は、人間の住める真の都市を
「単なる生活や仕事の場であるばかりでなく、
近代化のもたらす道徳的な美質(因習や偏見からの自由、異質な人々同士の対話と共存)の象徴的な表現」
を含むものとしている。

インターネットやユビキタス社会も結構であるが、
もう少しだけ目の前の事象や他社との直接的な対話を重視してもよいだろう。
さらに、自分の感覚を大事にし、直接的な体験を通して物事の本質に触れるべきだ。
現代の高速化社会において、いかに自分の位置を見失わないかが、
これからの課題になるだろう。


って、当たり前のことのようだけど難しいんだよね。
言われなくても分かってるって感じではある。

[参考文献]
都市・記号の肖像/森 常治
¥6,825
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篠田浩一郎 1982 都市の記号論.青土社.pp241-.

吉岡洋 都市と近接性.日本記号学会(編)1989 都市・建築・コスモロジー(記号学研究9). 東海大学出版会.pp.57-68.