侘助は北鎌倉から親友と歩き、カメラで競い合って撮った茶花。


駅の前には侘助という喫茶店があり、そこでお互いのカメラとレンズの組み合わせをいつも考えてから出発した。


友は茶庭にも親しかった。


特に小堀遠州の庭が好きだった。


大学で造園の一級をとり造園技師になる。


北から鎌倉の師の家、雪の下まで歩くのが習慣であった。



師はいつ行っても着物姿。


出かけるときは茶人の帽子をかぶる。


洋服のお姿を見たことがない。


家は本来は青山で父親が病院をしていたが、上海から戦後帰ると焼野原であったという。


鎌倉の家は別荘だったそうだ。


70を過ぎておられたが元気であった。


鎌倉の町の人は宗匠と呼んだ。





最近は歳か。


床屋に行かない。


髪が伸びないので自分で刈れる。


師のように角刈りか坊主頭が茶人らしいと思うが。


いっそそうしようとすると家内が反対の声を上げる。


坊主頭は嫌いと昔からである。


師の角刈りの白髪は素晴らしかった。


最後の最後まで師は素晴らしい平点前を見せてくれた。


上海でも中国の方が多く習いに来たのが分かる。


師は子供たちに囲まれて、


いつ行っても釜にはお湯が沸いていた詫び茶人だった。


古都保存法を作り、鎌倉の景観と自然を守ってくれた。


80を過ぎても安国論寺に茶室を作り、地元の主婦にのんびりと教えておられた。


私には辞世の句を書いてくれた。




五蘊皆空の教えを釜に寄せ寂定といる道のうれしさ


現世を憂きものとのみ思うマジ


あやにえに日を釜に託して

   

その後裏にまた書いてあるのを発見。


狂歌である、先生らしいテレだ。


色は匂へど香りは失せ行く利休ネズミの雨にぬれ


十万億土の入り口で?


たった一枚だが結婚式に来てくださった師の写真があった。