「――ああ、俺。お母さんから話は聞いた。」
「俺も同意する。」
私はこの後に夫が何を言ったのか、全く、覚えていない。
「俺も同意する」
その言葉だけがこだまのように、私の頭の中でリフレインして
いたことだけは確かだ。
何?この明るさは――
まるで、この言葉を切り出されるのを待っていたような、
爽やかですらある、夫の物言いに、私は胸がざりざりした。
その昔、一緒に暮らすことになったあの日、
マンションの管理人に、嬉しそうに私を紹介していた
夫の爽やかな笑顔を、私は何故か思い出していた。
どうしてこうなってしまったんだろう。
それは、ずっと持ち続けていた私の問いだった。
この疑惑のずうっと前から。いつも私の中にあった。
そうなんだ―― 私はここを通りたくなくて、ずっと我慢
し続けたんだ。さっぱりと別れの言葉を受け取るに違いない、
夫の軽やかさを見るのが恐すぎて。
「ああいうご主人に限って、いざ別れ話を持ち出されると、コロッと
変わるらしいわよ。」「急にすがって来たりしてね。」
そう友人たちに言われても、私には、妙な確信があった。
夫は未練のかけらもなく、あっさりと別れを認めるだろうという事。
そう思っていたとおりの、夫の態度だった。
私は、この時に、新たに、そしてこれまでの何倍も大きく
傷ついてしまう。それが恐くて今日まで逃げてきただけなのだ。
逃げたところで、「真実」はひとつなのに。
もう、弁護士と話す気力も失せていた。
夫が愛人を匂わせたあの言葉を初めて聞いた日のように、
私はひどく動揺していた。
気を取り直して、弁護士事務所のドアを開ける。
相談するのはここが初めてではない。
弁護士を紹介してもらえるつてなどなかったから、
TVや雑誌で活躍していた女性弁護士を見て、
ある程度名の知れた人なら間違いはないのではないか、
などと勝手に思い込んで相談に行ったのだ。
それが、けんもほろろ、ボロクソに言われ、思いっきり落胆して
帰ってくる始末。
「借金しかないオトコに慰謝料なんて、いくら証拠があったとしたって、
そんなの、絵に描いたモチにすぎないのよ」「大体、その証拠だって
その程度のものじゃ無理ね」
イライラしているのを隠す様子もなく、その弁護士は言った。
この女性弁護士の言うことは間違いではない。いや、寧ろ大正解
なのだ。
私だって、慰謝料が取れる、などとは思っていなかった。
ただ、「俺は絶対に浮気していない」「裁判だって絶対に勝つ。
俺は何もしてないんだからな」と言い続ける夫の鼻を明かして
やりたかった。
公の場で、「あんたの言っている事は間違っている」という事を
認めさせてやりたい、ただその思いだけだったと思う。
今思えば、そういう事を弁護士に求めるのはお門違いなのだが、
そのときは、そんな心情も、「同じ女性だから分かってもらえるの
ではないか」、などという期待をして行ったのである。
そして、一度目の失敗に懲りて門を叩いた、この日の先生――また
しても女性だが――には、「え?私?私に頼むのぉ?」「う~ん、いや
まあ、できなくはないけど・・他の先生でもいいんじゃない?」
という信じ難い事を言われ、「ほんとは早く離婚しちゃったほうが、お金が入るのよ
ねえ。手当てだなんだで、月5万位は入ってくるから。」という言葉を土産に、
これまた、すごすご帰ってくるハメとなったのだった・・
がっくりと肩を落として帰った私を迎えたものは、仰天するほどの
夫の大胆な行動だった。
■もう、シングル気分?
「別居する」「離婚を希望する」
これだけで、夫は、もう、何をしてもいい身なのだ、と
解釈したのだろうか?
そう思いたくなる位の変わりようだった。
それまで、店で使うつり銭を、私が仕事の合間に両替して
セットして、夜テーブルに置いておいたものを、帰宅した夫が、
店の売上金と伝票、領収書類と引き換えに持って翌朝出る、
というのが開店して以来のパターンだった。
それが、別居の話をした翌朝、夫は突然、「もう、店の事は一切
やらなくていい」と、帳簿から何から、一切合財をごっそり車の中に
積み込んだのだ。
「これから店に関することには口を出すな。もう、お前は協力者じゃ
ないんだからな。」
その翌日は店の定休日。この日、夫は以前からの知人の
個展に出かける事になっていた。
その「知人」こそ、かつて、店のバイトの女の子に
「いやあ、お母さんたちにもちろん内緒で」会って、
「してくれバージョンだったから、しても良かったんだけど」
などとほざいた、あのY子の母親なのだ。
その個展に行くという。
「今日は遅くなる。」
(いいだろ、俺が何をやったって、関係ないだろ、
もう夫婦じゃないんだから。)
まるでそう言ってるかのような、物の言い方、態度だった。
今まで、搭載していても、あまり意味をなさないでいた
位置検索PHSだったが、それが、効力を発揮するときが
やってきた。
今日は個展の最終日である。終了後、食事や飲み会も
あるのかもしれない。
その後の行動はどうなのか。
夫はどう出るのか。
子供たちにリビングでTVを見させている間、私は2階のTV
の画面を食い入るように見つめていた。パソコンを持っていなか
った私が位置情報を見れるのは、インターネット用に購入した
機材をTVに繋げてようやくなのだ。
しかし、プリントはできないので、記録に残したいときは
いちいち、電話で接続してFAXする、という、非常に手間の
かかるものだった。
夜8時 個展会場付近に表示
夜9時 個展会場 動かず
夜9時半 移動開始!
○○街道 ―― どこへ?
○○通り―― 帰ってくる?まさか?
○○2丁目付近―― 地元の駐車場付近・・
夜10時 ○○付近 ―― 飲み屋とホテル、両方にかかる
際どい場所に表示が点滅・・
私は・・私は、飛び出して行きたかった。
家から自転車でも10分強で着く場所なのだ。
だが・・やはり、できない。
ホテルなのか、飲み屋なのかわからない。
本当にホテルの出口から出るところを写真にでも撮れなければ
証拠にはならない。
飲み屋から出たところで会ったとして、言い訳なんていくら
でもできるのだ。
尾行?面が割れていてやるのは、かなり難しい。
私は、決定的なところを押えられる自信よりも、夫と出くわした
ときの恐怖の方が大きかった。
結局、この場所には、22時から0時半まで、約2時間半ほど
滞在したようだった。
そして、その表示は駐車場付近へ変わり、夫の店がある場所へ
移動し、そして、家に帰ってきた。
相手は誰なんだ?Y子なのか?韓国女性のウンソなのか?
あの位置検索ができなかった時間に行っていた場所は
一体どこなんだろうか?本当に個展に行ったのだろうか?
やはり、位置検索だけをしていても、その現場を確かめる
事ができなければ、意味が無かった。
この日以降、夫は店を終えたあとに、平然と遠出をして帰って
くる事が多くなっていった。
私を殴り、別居を言い渡され、離婚を申し出られているというのに、
まるで、シングルになる事を待っていたかのように、好き勝手に
動き回っている夫の行動に、私はどうしようもない怒りを覚えた。
この怒りこそ、優柔不断な私が、夫から離れるために必要な
原動力となったのだった。