波羅さんの戯言

波羅さんの戯言

ヘタレコスプレイヤー・波羅さんが、
日々の愚痴と衣装制作とその他もろもろをつぶやく場所です。
ツンデレ上等!ババァ上等!!って方も、そうでない方も
読みたい人は読めば?的なツンツンテンションでお送りします(たぶん)。

顔の乗っている写真はキュアと相方とのWEBページ(※検索回避がついているので、知っている方のみ閲覧してください)に掲載しています。あしからずご了承ください。

アメンバー、あめ友ご自由にどうぞ。アフェリエイトや迷惑系以外は受け付けてます。
アメンバー限定記事では、格安での衣装&コス衣装材料のお譲りや、写真付きのイベントレポート、作り方講座(派生編)などを掲載しています。
Amebaでブログを始めよう!
とうらぶはガツガツとコスするので、
作り方講座とかもまた再開したい。

さて、常にお久しぶりですばかりですみません。
すっかりツイッター民です、恐ろしいことに。
残すほど有意義な人生の送り方ができていなかったとも言うのですが。

そして始まる読み甲斐のない、人生に何一つ役に立たないお話です。

私だけじゃなく多くのマンガ好きは、
まずジャンルで読む本を決めると思う。
BL、少女、少年
その中でさらに、
スポーツ、リーマン、学園物
って好みを絞って、
読んだ中で好きだと思う作家の作品を次も買う。

私は、同人誌でもなんでも、
そうして作家買いをする。
もういい加減結構な長さヲタをやってるので、
初めの頃に好きだった人は、引退したり、プロになったり、まだ知らないジャンルで同人やってたりするし、
こういうのは蓄積されていくから、
どんどん追う人は増えていく。
で、あるとき「あ、この作家さんはもういいかな」ってパッタリと追うのをやめて本を全部処分する。
これが私のマンガ収集の基本的な流れ。

こんなことを話し出したきっかけは二つあって、
一つはとうらぶの即売会に行ったこと。
オンリーなんて本当に何年ぶりか分からないくらい久々に行った。
そこまでとうらぶ好きだったわけでもなかったんだけど、
凄く好きな作家さんがたまたまとうらぶに来てて、凄く私好みそうな新刊を出すといってたのがほしかったし、
たまたま仲の良い友人も行くというので行くことにした。
語り合える仲間と萌という強力な燃料が投下されると人間って一気にハマる。
そんなこんなで「とうらぶの同人」にハマった。
もちろんゲームも楽しいけど、作業ゲーの感は否めないので、ね。

で、そのオンリーは、本当に久々に参加した同人誌即売会(コミケはコミケという別物だと思っている)だったのに、
パンフレットを見ていたら、知っているサークルがいくつかあった。
あのジャンルのときのあの人、今とうらぶに来てんのか!あの作家さん画風変えたなぁ~!
って感じで感慨深さもあって、
売り切れてなかった所は一応買った(買えなかった所は支部とかツイッター見た)
で、読んで、
あぁ、これが時の流れだな、と。
昔凄く好きな作風だったサークルさんが、もちろんジャンルとキャラが違うんだから、作風は違って当然なんだけど、
受け取る私が進んだ方向と、書き手のその人が進んだ方向が、
こんなに離れたんだな、あの時はあんなに共感していたのに、
と、
なんか寂しくなった。
マンガに限らず、小説も舞台も音楽も、
人間が感性で受け取るものは、受け手の気持ちや状況によって受け取られ方は変化する。
いくら楽しい話でも、心が不健康な時では楽しめないなんてよくある話だ。
だからこれは全く特別な事ではないし、
同人業界長くいればよくあることで、いっそずっと同じジャンルで同じ作風でやり続けてる人が凄いなっていう部分もあるので、うん。

そしてもう一つのきっかけは、
ぼんやり過ごしていてうっかり新刊を買い忘れていた、とても好きな作家さんの新刊をさっき買った。
二冊も買い忘れていた。
三本の指に入るくらい好きなのに。何やってんだって自分でびっくりした。
で、
BL作家さんなので、短編で、それぞれ別の出版社から出てるんだけど、
まず最新刊を読んだ。
読んで、
血の気が引いた。

その作家さんは結構独特な絵を描く人で、
もともと私は同人の頃にその人のファンになった。
大流行の人気ジャンル、いろんな人がいる中で、
たまたま友人が買うというから買ったのがきっかけで、
絵が苦手で後で「なんで買っちゃったんだろう。ブーム中の熱って怖い」とすら思った。
思ったんだけど、作品の感性の部分が素晴らしい人だったので、
それから絵に慣れるまで2年くらいは苦痛に喘ぎながら買っては読んだ。
別の友人に勧めても、絵が苦手だったという返事がほとんどという人だった。
そしてその人が商業デビューして、
同人でも結構マイ設定がっつり入れて、キャラメイクもギリギリそのキャラだなって範囲の人ではあったので、
作風も変わらずに、とても私好みだった。
けど、これは売れないだろうなぁとも思った。
暗い、たるい、絵の癖が強い。
実際良い評判は見たことも聞いたこともなかった。
けど、そのレーベルでずっと描いて、
二冊、三冊でる内に、話の作りが洗練されてきて、
絵もスッキリして無駄な力みが取れて、
いい感じになったということは素人目にもよくわかった。
あぁ良かったなぁと思ってた。
で、
久々に読んだ最新刊。
話の基本的な部分はいつもと同じ。
根暗な主人公が明るくて強い恋人に救われる。
この人の話は基本的にこれしか起きない。
本人の性質なんだろうなって思う。
私は作家の性格が作品に出るのを全く何とも思わない。というかそれくらいの方が「その作家じゃないと」いけない理由にならない。
で、
物語の基本は同じだったんだけど、
垢抜けるどころか、
どこもドロッとした所がない、定規を当てて、カッターで切った切り絵のような、無味乾燥な話に仕上がっていた。
面白いかつまらないかでいえば面白い。よくまとまってる。今の時代にもマッチしている。
でも、この人が描かなくていい。
そんな話になっていた。
そして更にあの癖の強い絵が変わっていた。
いや、ライトな読者は気づかない。でも明らかに違った。
無駄な線(に見える)が多くて描き込みをしがちだった部分がすっきりして、
骨格が曖昧だったところが現実寄りになった。
そして何より、目の描き方が変わった。
この人の作品は、基本的に根暗なので、表情で見せるシーンが多い。
主人公の心情を表すのに、目のアップはよく出てくる。
何本も何本も描き込んで、常に潤んで、怯んだような目を描く人だった。
それが登場人物の感情とリンクして、深みを出していた。
のに、
それがスッキリ、サッパリした、今時の目になっていた。

あぁ、なんてことしやがった。

そういう意味で血の気が引いた。
今の作風の方が受け入れる人は多いと思う。絵も今の方がポップで入りやすい。表情も誤解を生まない(前は笑ってるのか泣いてるのか分からないとか多かった)。
商業誌として、編集が「いい仕事」したのだろうし、そうでないなら本人が「気づいた」のだと思う。
それで正解だとも思う。本は所詮「商売」で、売れなきゃ意味がない。
手に取られて、買われて、売り上げが発生しなければ先はない。
けど、
読者としての私は、
他の作家でも描ける話は描いて欲しくない。(人間が生涯に生み出せる作品の数なんて限界があるのだから)
あの絵とあの話という独特の世界はもうこの世から消えてしまったのかという絶望。(しかもそれに変わって生み出されたのが量産型の作品)
で頭がいっぱいになった。
しかもよりによって、
その後に読んだ一つ前の新刊では、
画風がとてもいい効果を生んで、話も個性的に仕上がっていて、
たまたまデビューした頃と同じような題材だっただけに、
デビュー作から今までの成長、洗練が見れてそれもあってファンとしてつい泣いてしまった。(最新刊で打ちのめされた精神状態だったことが大きい)
あぁ、こういう作品はもう見れないのか、と。

いっそ、とうらぶで久々に再会したサークルさん達のように、
離れていたら「まぁ変わるだろうな」と受け入れるし、
「離れていいやと思う程度」であればこんな事にショックは受けたりしない。
個性が伸びて、磨かれて、素晴らしいものになるだろうと思っていたものの進む方向が、よりによって私が少し離れた隙に、こんなに違ってしまったのかという悲しさというのが最も適切かもしれない。

前にも一度これに似たものは経験したことがあって、
けれど受け取り方が真逆だった。
私がやはり三本の指に入るくらい好きな作家さんで、
大和名瀬さんってBL作家さんがいるのだけど、
彼女は最初少女漫画で、そのあとBLになって、その頃はショタを描いてた。
可愛らしい絵柄だし、可愛らしいお話だった。
その延長線上で高校生や大学生の話も描くようになったけど、
もともとショタ系なので、イマイチぱっとしないというか、面白いんだけど、どこか突き抜けない感じがあった。
そして出たのが「くちびるの行方」っていう本だった。
この本単品の話をすると、明るく元気で癒される話の人なのにシリアスな、しかもリーマンもので子供が一切出てこないという苦手分野詰め込みました、みたいな話で、正直あまり面白くない。絵も今に比べるとやや不安定。
なので誰かに名瀬作品をすすめるときには最初に除外する。
けど、
この作品は現段階で言えばこの作家さんのターニングポイントの作品と言ってよくて、
この作品は本当に描くとき苦しかったんじゃないかなって部分が多々見受けられるんだけど、
それによって得た個性、画風、作風、描写力がその後の作品でいかんなく発揮されて、
今の作品はとても洗練されて面白い。
元の作品も好きだったけど、もう「この人しか描けない」の域だと思う。
だからファンのコレクションとして、デビュー作と好きな作品と並んで重要だと思っているのがこの作品だったりする。
これをやらせた編集はいい仕事したと思う。(売れる本を作るのが編集という考え方には反するだろうと思うけど(実際の売れ行きなんてわからないから)、その先に得るものの大きさ考えたらいい仕事)

それを思うと、今回の件は、
やっちゃったなぁー
と。
もしかしたら長い目で見たら、これもプラスのターニングポイントで、
後々コレクションとして重要な立ち位置になる作品かもしれない。
好きな作家ではあるし、この編集部の方針というだけで他社で描いたら違うのかもしれないし(数社で描いてる)、まだ買い続けますけれども。

結局のところ、
私は、売れるものを作るのが商売だ、と頭ではわかっているのに、
それでも、あの才能・個性を曲げたくない、という自分のエゴに勝つことができないだけなのだ。

私は学生時代、圧倒的な才能を持つ友人たちを得る機会を経て、
一握りの才能ある人に素晴らしい作品を生み出してもらうためには、多少の犠牲はあって構わない、と思うに至った。
私が美人や才能を持つ人を好きで、そういう人に惚れ込んで奉仕する癖があるのもそれを基にしているし、
感想は手紙にして本人に伝えるという基本姿勢もそこからきている。

結局人間の根底はエゴだ。
ただ、そのエゴも表から見たら黒くても、裏から見たら白いかもしれないものだ。
だから、一番美しい角度を人に見せるようにする。
それが「大人」ってやつなんじゃないかな、と思いつつ、
あー、やっぱり寂しさで胸に穴が開きそうだ……。
デビュー作でも読んで寝よう。

大和名瀬さんは絵も美しいし、話も本当に面白い作家さんなので(感動系というよりホンワカハッピーエンド系)
巻き添え事故のように名前出しちゃいましたけど、心からオススメしておきます。
コミケにも毎回出てて、私も毎回通ってます。先生めっちゃいい人なんやでぇ……(((o(*゚▽゚*)o)))


こないだ脳科学がどうだかという番組で、

好きになるのは本能で、
しかしそれでは色々不都合が多いので、
脳が勝手に「好きな理由」を作り出す

という話をやっていた。
なるほどなぁと思った。

よく好きなタイプにピッタリなのに好きになれない人っていうのがいるのも、
これを逆説的に考えれば当てはまるじゃん。

で、別に恋愛の話をしたいわけではないのですよ。

好きに理由はいらない。

の話をしたいんです。
コスプレ業界の人間なのでどうしてもコスプレの話になりますけど、

好き!楽しい!

って、もっと単純なものになれないのかなっていうのがコスプレをある程度やってると発生してくるジレンマなんですよね。

最初は何かしらの興味を持って、
やってみて、

あ!なんか楽しい!

ってなるんですよ。ならない人もいるけどw
で、
そこまではいいんだけど、
そのうち「私はコスプレの何が楽しいんだろう」
って考える。
これは人間の心理だからもうどうしようもない。脳みそがそういう風に出来ちゃってるんだから。

なんだけど、
好きな理由が発生するということは、
好きではない部分を発生させるということでもあって、
自分の中に「これが楽しいんだ」というある意味の枠やルールを作ってしまう
ということに他ならない。

素敵な写真を撮るのが好きなのだ。
と理由をつければ、
素敵な写真が撮りにくい場所=家でのコスはしない。イベント会場も写真写りが良いところ。衣装も写真写り重視。合わせの友人や撮影機材やカメコさんもそういう人になる。
コスプレを通じた交流が好きなのだ。
と理由をつければ、人が集まるイベントにいったり、コスカラに行ったりするし、交流が盛んなジャンルをどんどん勉強していくことにもなることもあるだろう。

コスプレって「今の」アニメやゲームがメインのこの形は生まれてまだ歴史が浅くて、
っていうかそもそも二次創作同人で同人誌作るなんてのも歴史は浅いんだけど、
「こういうものだ」なんて俯瞰して一言で表せる状態には至ってないっていうか、
ある意味まだ作ってる途中で、だからこそ懐が深い。
衣装を作ること、衣装を纏うこと、メイクを工夫すること、ウィッグや髪を工夫すること、体型を作ること、イベント会場で交流すること、歌うこと、踊ること、撮影すること、撮影されること、他人のコスを眺めること、人の目に自分のコスプレを披露すること、その空間で息をすること、写真を加工すること、写真を披露すること、ネットで交流すること、他人の写真を見ること、他人から褒められること、他人を褒めること、取材されること、普段の自分(本名や境遇)を消しされること、理想の人間になったかのような感覚を得られること、
もう楽しいと感じられる(であろう、ね。私が上記全てを感じてる訳ではない)点をあげたら本当にキリがない。
そして、
例えば撮影重視派の人からしたら、
歌うとか踊るとかの人は、汗かいて衣装やメイクが乱れるから、ダンパやコスカラは「ちょっと違うな」だろうし、
レイヤーとの交流派さんなら、
スタジオ貸切でカメコさんと個撮なんて「まずやらない」だろう。

別にそれで終わってりゃいいのに、
他人のスタンスにグチグチ言って、そこで終わればいいのに、更にその他人に口出したりするからもうなんつうか…。
しかも「私は"正しいコスプレ"をしている」という意識がそこにあるからややこしい。

そんなことになるくらいなら、

なんか楽しい!

で終わっておいてくれればどんなに平和かって、思うんですよ。

これね、レイヤーはついコスプレ業界の問題だって考えて「もうコスプレ疲れた」って発言するけど、
本気でやりこむと大抵の趣味は同じような問題に直面するから、
コスプレが疲れるんじゃなくて、「好きに理由をつける」と全部そうなるんだってこと伝えておきたい。

私の経験から言うと、
まず観劇。
はぁ?ただ見てるだけの趣味にそんな問題発生しねーだろ?って思うでしょ。
これね、それくらいの突き詰めすぎない「好き」を推奨したい。
まずありがちなのが、
その舞台に関する感想ってか自分の解釈があるじゃない?
これ、そのままにしとけばいいのに、
つい
「自分の解釈はあっているのか」
「他人はどう思ったのか」
「作者はなんと言ってるのか」
を突き詰め出しちゃったりするんですよ。
小説も芸術も「正しさ」を求めたらもうアウトね。
まず解釈が一般的なものと違った場合に
「自分は観劇に向いてないのだと思う」
「この脚本家や演出家や役者はどうも自分と合わない」
「世の中の解釈が間違ってると思う」
の大体3つに分かれて、
1つ目の人は観劇から徐々に離れる。
次に他の作品をどんどん観ても解釈が世の中とま全く合わないと、
「そもそも世の中の舞台と自分は合わないんだ」
と思って観劇から離れる。
でも観劇ってそうじゃなくて、観てる時やその後の心への働きが全てなんじゃないかって思うと、そんな理由で離れるとかおかしいじゃん。
歌舞伎だって、確かにその作品の時代背景とか衣装やカツラの意味を知ってるとより楽しいよ。でもそこは「より」であって、知らなきゃならない訳じゃない。

楽しいと感じました。それでおしまい。

でいいじゃん。
それに理由や「正しさ」を求めるから「楽しくない」が生まれる。

クラシック音楽もロックも、

聞いて心地よかった。それでおしまい。

でいいじゃん。
この曲はこう解釈するのが正しいのだ。この曲は駄作だ。って言われたって聞いて好きな曲は好きだし、好きになれない曲は好きになれないのが人間なんだから仕方ないじゃん。

私は子供の頃から「相手次第で勝ち負けが決まる」ものが好きじゃなかったので、ずっと得点競技やってたからかもしれないけど(まぁ点数やタイムで結局は勝ち負けがつくんだが)、
スポーツに関しても、

この競技やってて楽しい。それでおしまい。

で、いいと思ってる。

どんな趣味でも、気に入らないこと、辛いこと、いろいろあるよ。
その時に、
「単純に、やってるとなんか楽しい」っていうのが一番強いなって思う。

私はこれが楽しいんだ。
って絞ると、それが辛さや嫌さに負けた時に「楽しくない」になっちゃう。

試合で勝つのが楽しい。
歌詞が心に響く。
あの役者の顔が好き。

一見プラスな理由たち。
でも「それが変わってしまったとき」にこういうのは弱い。
「漠然」の持つ引力はすごいと思う(何せ川端なんて「漠然」の所為で自殺するくらいだしな)。

突き詰めることそのものは悪いことじゃない。
っていうか我が一族はどうも「歯止め」の位置が人より深くて(よく言えば「探求心旺盛な学者肌」)、
親類の殆どと、そして私もつい突き詰めがちだったりする。
それゆえに「嫌いになってきたもの」も多い。
だからこそ思うのが、
最初から持ってる「漠然とした好き」を見失なっちゃダメだなってこと。
深海にどんどん潜っていくと、光がなくなって上がどっちか分からないような状態になりやすいから、
上はあっちだなってたまに見上げないと危険だなっていうのとよく似ている。

スランプを抜けた先には、もっと広いフィールドが待ってる

ってよく言うけど、そもそもそこまで行かないことは悪じゃない。
浜辺で波と戯れる人とダイバーの間に海への愛情の差があるだなんて理論は馬鹿げてる。

だからこそ

好きに実は理由はないんですよ。

っていう脳科学の説を私は全面的に信頼したい。
というかそうであって欲しいと思う。


昔のヒット曲の歌詞で、

ダイヤモンドだね、あぁいくつかの場面

あぁうまく言えないけれど、宝物だね

っていうのがありますけど
(若者のために一応注釈。プリンセスプリンセスっていうガールズバンドの「ダイヤモンド」って曲。この曲と「M」は分かりやすく名曲なので一聴お勧めしたい)
これを同じ意味の別の言葉に置き換えると

輝いてるね、一つに絞れない思い出たち

言葉で表現できないけど、すごく大切で好き

って感じで、
この曲は全編まさに「好き」の話をしていて、
そのサビが「漠然とした好き」で、
これが人の心に響いた理由になんか納得したりしました。

ワンズの「互いの全てを知り尽くすまでが愛ならば、いっそ永遠に眠ろうか」っていうのもあったなー。

って歌詞の話を始めると段々年の話になりそうだなwやめようwww

とりあえずそんな、いつもお馴染みのオチのないお話でした。

ピカソの絵は理解しきれないけど、
子供のように書くのが一番難しい
っていう彼の発言はまるっと同意。


※タイトルは単にエルビスの曲だよ。知らねーよって人もきっと聞いたらわかるよ。

私は性別によって「相容れない」と考えることは愚かだ、と思っている。
思ってはいるのだが、
学生時代に「男とは相容れないのかもしれない」と心から思った事件があった。

私は大学時代、体育会系の部活(サークルではなく部活)に入っていた。
女子は全国でも1桁しか学生の競技人口がいないような競技だったので、
部内は男子しかいなかったし、活動も男子の試合が基本だった。
(男女で能力が変わるような競技じゃないのに、全国大会とかはなぜか男女に分かれてた)。

で。
私が3年の時だと思う。先輩の引退試合だったんだけど、
僅差で負けて2位だった。

しかし

実際は運営本部の点数計算のミスで、
本来は優勝だった。
表彰式で優勝したチームはわかってて黙ってて、
そしてうちのチームもわかってて黙ってた。

そりゃあ優勝チームは勝つか負けるかなら黙ってて勝ちたいだろうから分からなくはない。
が、
信じられなかったのはうちのチーム。
「言わないの?」と聞いた私に言ったのだ。

「表彰式で騒ぐのはみっともない。
圧倒的に勝たなかった俺らが悪い」

いやいや。
コンマ何秒を削るために軽量化に時間かけるような競技じゃん。
1センチのズレとかまでこだわるような競技じゃん。
なのに計算ミスは許すとかわけわからん。

て、私は思った。
そして、その「圧倒的に勝たなかった俺らが悪い」で全てを片付けた男子たちにまったく共感できないどころか、物凄い溝を感じた。
勝ちたくて必死にやってきたから勝ちたいのだ。結果にこだわりたいのだ。負けたら泣くほど悔しいのだ。
かっこつけようが喚こうが、勝ちは勝ちで、負けは負けなのだ。
その考え方が、全く相容れない。
愕然とした。

学生時代のそんな思い出は、
未だにちょこちょこ顔を出す。
野球で打球がギリギリアウトの時、
テニスでギリギリインの時。
そして今回また顔を出したのは、
白鵬先生の審判批判発言だ。

※白鵬審判批判発言問題
33回目の優勝(歴代一位)を掛けた稀勢の里との取り組みで、土俵を割ったタイミングが同時と見なされて取り直しになったことに「後で映像で見たが、こちらが勝ちだと子供でもわかる。元力士なら取り直しがどれだけ大変かわかってもいいのに」(意訳)と発言し、審判を批判した問題。ちなみに取り直しでは白鵬の勝ち。

映像で見る限り正直どっちが先か分からないし、
そもそも相撲は、
基本的には土が先についた方とか土俵から出た方が負けだけど、
場合によっては剣道とかもそうだけど
審判が「技が決まった」と判断しないと勝ちにならない。(※心技体の一致)
だから映像でチェックしてもどっちが勝ちかなんて決めきれない。
そんなことは白鵬だって分かってると思う。
それでも白鵬が「あれは勝ちだった」と言いたくなったのは、
勝ちにこだわっていたからだと私は思う。
「横綱なんだから、そんなせこい勝ち方するな」「変化するな」
とか言う気持ちも分かる。
実際私も序の口でも変化すると微妙な気持ちになる。
けど一方で、かっこ悪くても何でも「勝ちたかった」んだな、と思う。

「横綱なんだから、常に勝て」
という無茶ぶりに白鵬はよく応えてと思う。
強く、真面目でいなくてはならないのだという、「横綱の品格」というレッテルとうまくやっていこうとしてるとは感じる。
確かに傲慢と感じることもあるけど、なんかそこに私は怒りみたいなものを感じる。

今回の発言で、さっきは省略した一部に、
「肌の色が違っても」
という発言があったのを書いておきたい。
白鵬はモンゴル出身で、我々と同じ黄色人種だ。
私はそこまでの相撲マニアではないので、同じ回しで同じ体型の日本人力士とがっぷり組まれて顔が見えなくなったら、どっちが白鵬か分からないと思う。
だから実際に「肌の色による」差別はないと思う。
けれどどこの国出身の力士かってことで、贔屓目が存在してしまっているのは隠しようのない事実だ。
どこの国というか、日本かそれ以外か、という区分。

相撲は日本の国技であるから、
横綱は日本人であることが好ましい。

この言葉を、多くの人が違和感なく受け入れたり、発したりする。
けど、これは差別だよね。
同じようにそれを愛して、頑張っても、どうしようもない国籍や人種で「不適切」のレッテル貼られるんだよ。
自分がやられてみてよ、たまったもんじゃないでしょ?
特に「勝ち負け」の評価や結果が、「審判」によって決められるもので、そんな考えが心の隅にあるんだよ?
白鵬が「国」って使わずに肌の色って言ったのかは、予想でしかないけど、帰化したって所詮は「外人」なんでしょ?ってことなのかなって思う。

マスターキートンにも、
「外国に行って、私がイギリス人だと実感することはよくあるが、
日本では、私が外国人なのだと実感した」
ってセリフが出てきて、
あの当時と今とはだいぶ社会の空気も変わったけど、
相変わらず排他的体質が残ってるものは多い。

日本人に横綱になって欲しいなぁ

という言葉は、
一見して誰も傷つけない、希望を言ってるだけの言葉に感じるけど、
現横綱三人にしから、たまったもんじゃないよね。
逆説的に、いじわるく言うと、

モンゴル出身横綱は私は待ってません

ってことなんだから。

そこで、「でもあの人は日本人じゃないけど、立派な横綱だから認める」と言われるためには、勝つしかない。
同じ強さなら、日本人が有利。
だから同じ強さじゃ駄目。
圧倒的に勝たないと。
常に勝たないと。

そうやっていくうちに「勝つ」っていう所に変なこだわりが生まれても驚かないし、
強くてもマイペースだった朝青龍の存在があったから、白鵬はそこも気を使ってきたと思うよ。
けど、やっぱり何かと「日本人横綱」に拘る発言されて面白くなかったとは思うよ。
その結果、俺は強いんだから横綱だろ?って傲慢な気持ちになっても驚かない。
強すぎて嫌われるだけならまだそんなに気持ちも変化しなかったんじゃないかな、というのが私の予想。
なんていうか、深層心理の部分で常に感じちゃってたことが今回の言葉なんじゃないかな。
遅かれ早かれ、きっと白鵬はこれ言ってたと思う。

そんなに日本人横綱がいいなら、
開き直って、

外国人力士は基本的にヒール扱いです。
強くても横綱枠には一人までです。

とか決めればいいじゃん。
決まってたらそれでもいいよって人しか来なくなるよ。
それが本当に相撲のためだと思うならやりゃあいい。それをしないでぐちぐち「でも日本人横綱がいいな」って。
「外国出身の力士に負けないように日本出身の力士にも頑張ってほしい」くらいがセーフなんじゃないかな。
これだと甲子園で出身県の学校応援するような感じだし。

部活や習い事は、
努力は実るということを学ぶためにやるのだ
という人がいるけれど、
私は部活や習い事は、
負けや限界を知るためにやるのだ
とも思う。

もちろん努力は尊い。
練習を重ねて出来るようになったことは沢山あるし、
勝つ喜びもあった。
けれど今の私にプラスに働いているのはむしろそこよりも、負けたことや限界を感じた経験だ。

努力だけではどうしようもない問題は世の中に沢山ある。
そこで、他人の力や才能に頼るとか、別の方法を考えるとか、計画を立てるとかの判断をさせてくれるのは、限界の経験があるからだ。現実と真っ直ぐに向き合わされた経験があるからだ。
誰もが子供の頃の夢を叶えるわけじゃない。だからこそ世の中は成り立っていると私は思ってる。

そんな話を思い出した今日この頃でした。
雪積もったら雪撮行きたいような、寒いからこもっていたいような。
語るよ。

お久しぶりです。
人見知りやめよう2014を掲げてアーカイブ優先で日記書いてたりしたんですが、
アーカイブって、お友達とかアーカイブに登録しているレイヤーが相手になるという至極当然の理由で、
「読者」がふんわりしている方が私にはやはり良いのだなとTwitterとかもやっていて思いまして、
やっぱりブログに戻ろうと決めました。
いやー、ずっと放置してたので、
なんと昨日のヒット数がちゃんと更新してた頃より2桁も少なくて、
流石だな、って思いました。


さて、今日のお話。
前々から書いてたりしてるので、またかよwって話なんですけど、

なんか
世の中本当に「正義」に飢えてんなぁ、と思う事例が私の周囲で続いていてですね。

一言に正義って言っても、
勝てば官軍とまで極論は言わないけども、大きく分けると、

・悪を叩くことが正義

・信念を貫くことが正義

ってあると思うんです。
この世の悪を成敗するという信念を貫く正義、もあるとは思いますけど。

この二つは一見おなじ「正義」なんですけど、
全く性質が違うんですよね。
例えば人数。
前者は「悪」という他者がいることが前提で、
後者は自分一人で成立する。

この二つは芝居でもよく出てくる題材で、

『忠臣蔵』とかは(脚本にもよるけど、多くの場合)、
吉良という悪人に仇討ちをする、ので前者。

『シンドラーのリスト』とかは、
誰かを成敗するのではなく自らの良心に従った行動をするだけで悪を叩いたりはしてないので後者。

って感じ。

私は芝居やエンタメとしてはどちらも好きです。
しかしですよ。

現実世界は3時間やそこらの芝居のように簡単じゃないじゃないですか。
例えば歴史とかでもさ、

織田信長は善人か悪人か

とかいうのは人によって考え方が違うと思うのね。

コンクリ殺人事件のやつら(あえてやつらと使いますよ、私は)みたいな本当にこれは人間の所業か?みたいな『完全なる悪人』っていう存在もごく稀にいますけど、
殆どの場合、
対立する両者もその方面から見たら正義だろうと思うし、
その正義が『完全なる正義』である場合はそこまで多くなくて、
両者が「嘘を付かず」に状況を説明したとしても、
嘘は言わないまでも、本当の事は言わないとか、
確かに見ようによってはそうとれる、
みたいなものが多い。
あと、自分には些細なこと。
でも相手には大きなこと。ってのも。

私はどちらかというとこれで「勝手に被弾」することが多いです。
なんていうか、感受性が豊かとか、共感力って言葉使うとプラスっぽく聞こえますけど、
何にでも感情移入する悪いくせがあって、
いじめっ子、いじめられっ子の両方に感情移入して、第三者なのに辛い、みたいな。
無駄に掘り下げると、
いじめっ子といじめられっ子の両方に自分の性格や容姿と共通する部位をみつけて、あの人がやる(やられる)なら、私もいつかそうなるのであろう、
という恐怖とか不安とか自己嫌悪。
それといじめてしまう心理と、いじめられている側の心理に思いを馳せて吐き気をもよおす。
で、その心理を相談すると、いや、お前とあれは全然ちげーし、と言ってくれる友人に恵まれた学生時代だったのでなんとか大人になれた気がします。

さておき。
正義なんてそんな不確かなものなんですよ。
人を殺しちゃいけない、とか
人のものを盗んじゃいけない、
みたいな一見普遍的な正義の基準すら、
「正義のためなら、悪人を殺すこともやむなし」
↑戦争のきっかけになりがち
「正義のためなら、悪人から金を巻き上げてもよい」
↑ネズミ小僧とかもこれな
って変化するからね。

それ故に、
私は日常生活で正義を振りかざす楽しさを味わいたいという方々には、
「信念を貫く正義」
の方を是非とも使っていただきたいと思ってる。
何故ならそれなら大抵の場合は他人を巻き込まないから。
その正義が自分の正義と違っても、無視すればいいだけだから。
よしんば接しなければならないとしても、お互いの歩み寄りが可能だから。

悪を叩く正義の方が
結果がすぐ出て目に見えて満足が得られやすく、
単純で簡単ですよ。
でも信念を貫いて、一方から見れば悪とされたものが改善、改良された方が不幸になる人が少ないじゃない。
って、思うんですよ、ね。
まぁ無駄に正義大好きな今のコス業界は、
信念を貫くためという大義名分で、
他人に価値観押し付けるとか、悪を叩くとかが横行してるんで、
大変に見苦しいですけど。

反面教師として学ばせていただくのが正しい接し方なのかなぁと思ったり思わなかったりです。

うん、久々に長文書くとやっぱり楽しいや。
そういえば、次はワンフェスです。モンハンにするか、黒猫のウィズにするか、もう作ってある妲己で行きます~。
この間ツイッターで、
「別に芸能人でもなんでもないんだから、レイヤーは好きにレタッチしたっていいじゃん!」
っていう内容のやつが回ってきてですね。

私も基本的には同意なんですけど、
それについて「努力を怠ること」をイコールにするのは私の価値観的に違うから、
その注釈が付けれない状態で「140字で表現」っていうのはやっぱり難しいのだな、と長文書きな私は思いまして、すっかりツイッターから距離を置きがちです。

さて。
レタッチ自体は、「画像を公開する」上ではした方がいいと思います。
だって画像は残るものだから、気持ちよく公開した方が良いですしね。

前の仕事がビジュアル雑誌の編集者で写真のレタッチ指示とかもしてたので、
その経験から言うと、
モデルが3次元の生き物で、しかも予算や撮影内容の都合上、「一番理想のモデル」を使えない以上は、
当日の撮影では、
目的(メイクなりヘアスタイルなり衣装なり)が一番理想的に撮れる角度で、
モデルがそこそこの顔で撮れているものを、
最終的にレタッチして掲載する。
というのが私が雑誌で写真セレクトの時に選んでいた基準でした。

ちなみにこの選び方は私のコス写真の選び方とも共通していて、
私は自分が作った衣装が可愛い(下手だが、愛情は別)というタイプの人間なので、
衣装がそれっぽく映っていて、
そこそこの顔で映っていて、
あとはレタッチでなんとかなる、というものを選びがちです。
(集合とかはその限りではない)。

で、入社したての頃は編集長が違ったので、その人の方針で
レタッチは最低限にしろってことで、
アホ毛すら消させてくれない、もちろん黒目に変なものが映り込んでいても消させてくれない、
という状況だったため、
逆に言うと、
撮影にものすんごい時間がかかって、スタジオ使用料が凄いことになった。
(当然延長料金がかかる場所での撮影は金額が張る=それ故に社内スタジオと、ヘアメイク担当者が持っているスタジオを使う事が多かった)
で、編集長が変わり、
「読者は写真で判断するんだから、レタッチはいくらしてもいい。むしろレタッチした後の画像がどれだけレベルが高く見えるかが大切」
というような方針に変わった。
それ故に、今度は、
レタッチを前提に写真を撮影し、掲載写真を選ぶようになったので、
当日に「こういうゴールになるはず」という想像力が必要になった。

で、その結果ですね、
結果から言うと、「あぁ、レタッチしなくてもいいレベルで作れる人が本物なんだな」という結論になったんですね。
話が吹っ飛んだように感じると思うので解説します。

レタッチは所詮CG加工ではないので、レタッチなんですよ。
直しても限界は来る。
だから、最初にレベルの高い、加工する必要がないくらいのもの、を作れる人の写真をレタッチした方が、
やっぱりレベルが高いんですよ。
そもそもイベントにしろスタジオにしろ、コス撮影は時間との戦いだから、「時間内にベストな写真を撮る」のが大前提で、
そもためには、そもそも「ベストな写真が撮れるように用意する」のが必要だから。
銀とアルミ箔では、どんなにがんばって磨いても輝きが違っちゃうって言うとわかりやすいかもしれない。
アルミでも凄いがんばって工夫して、一カ所だけに集中すれば、写真はそれっぽくなるとは思うけども。

なので、やっぱりレベルが高いものには敵わない、というのが私の持論です。
ゆえに、レタッチそのものは『画像のレベル』や『そもそも本人の満足度の為に』したほうが良いという理論とは別に、
ただ、レタッチありきではなく、自分を磨くことは必要、
という気持ちがあるので、
「別に後でレタッチするしぃ~」
を前提に手抜きをするのは、絶対に自分ではしたくないなと思うというお話でした。

とはいえ最近の体型の崩れっぷりは半端無く、
それが仕事故にトレーニングの時間を全然取れてないとか、ストレスによる暴飲暴食とかが原因だとか、
年齢的なことがあるとか、もういろいろあるんですけど、
それを言い訳にせずにがんばる事こそレイヤー道と見つけたりみたいなアレがソレで、
そもそも衣装作りもまだまだだし、造形とかもう笑っちゃうレベルで出来ないし、
メイクとかウィッグのセットとかもうアレなんですけど、
つまるところゴールがない趣味だから向上心は忘れたくないっていうか、
そもそもコスプレって写真を撮るし、公開もするけど、
私は三次元の趣味の延長線上に「写真」が存在していて、もともと2次元のものや好きな物を具現化するのがコスプレの真骨頂であるように思うので、
「イラストの代わり」も、別に楽しみ方の一部としてあるとは思うんですけど、それでもやっぱり三次元に再現した時のクオリティは求めたいっていうか、
っていうグルグル。まとまってないのに文章化しようとするからいけないんだな、うん。

まぁそれゆえに最初が三次元な時点でらんらんのコスは不毛ではあるんだ。衣装の布面積が少ないゆえに体型補正の限界があっという間にくるのに、らんらんの場合は腰と足っていう最も大事なパーツが丸出しだから努力とかの次元ではないから。それでも似せようとするっていう足掻きがなんつうか。
まぁいいんです。あれはファンが本人とお揃いの衣装着ることに一番の意味を見出してる感が強いから。

ともあれそんなお話でした。
※アーカイブと、同じ内容です。


なんかここしばらく合わせばっかりだから尚更っていうのがあったとは自覚してるんだけど、

コスプレってやっぱり楽しいなぁ、と。

コスの楽しみ方、どこに楽しさを見出すかっていうのは人それぞれだと思うし、
一つだけが楽しいのではなくて、
楽しいことをいくつも複合的に持っているのもコスの特長だと思います。

で、
私はそのキャラのことをずーっと考え続ける機会を貰えるっていうのもコスの楽しい部分の一つだと思えるんです。
私は特に自作するので、どんな構造で衣装を作るか考えた出した時から、イベント当日の夜まで、そのキャラのことを昼夜、それこそ24・7で考える時もあります。
基本的にストーリーやキャラクター上、絡みのある人や絡んだらいいと思っているキャラクターを選んで合わせるので、写真の構図だけじゃなく、その構図にいたるサイドストーリーとかまで考えるのでネタはつきません。
あと、合わせだと記憶力低下に日々拍車のかかる私の場合は、合わせメンバーが投げたネタに気づけなかったりするので、その対策?でもないんだけど、もう一度一話目から見たり、ゲームやり直したりするから話を反芻して味わうからっていうのもある。

なんかコスってそういう意味で恋愛に近いと思うんですよね。
思い出して、こうならいいのにって願望を想像して、自分を磨こうと思わせてくれて。

シャドハは本当にずっと大好きで好きなゲーム筆頭に必ずあげるけど、それでも普段ずっと考え続けてるかっていえばそうじゃないし、
もっとキャラの気持ちやストーリーを掘り下げようと思わせてくれたのが今回のあわせだったのね。
もともと「理解」はしてるんだけど、そこに気持ちを「乗せ」たり、「入った」りは、やっぱり「二次創作」しないと厳しいと思ってるんですね、私。
そういう意味で同人誌作る時もコスする時も作品をより楽しめるな、と。
ソニアとテレーズやる幻水だって大好きだけど、テレーズがそこまで好きかって言えば正直なところ単品ならバレリアさんやジルの方が好きですけど、
被りなしだったこととか、シンが好きな人だからってテレーズのコスすることに決めて(シンさんイケメンだし真面目だし強いし忠義っていうか変態並みにテレーズさんに命かけてるところがすげー好きです。部下&敬語攻めもそもそも好物です)、
シンとテレーズのこと考えたり、ゲームやり直したりしてると
テレーズのことも見る目が変わって、好感度もめっさ上がったりして、
それによって視野を広げてくれたりもして作品をより楽しめたりもするんですよね。
(ちなみにシンテレは妄想が暴走してB4コミック同人誌50頁分位の話が膨らんでるので是非だれかそれの再現合わせとか是非してやっていただきたい)。

恋愛もさ、告白するとき、初デートのとき、プロポーズのとき、とかいくつも「主役イベント」は存在するけど、そこまでの期間も意味あるものじゃないですか。
学園祭が当日の楽しさとは別に準備が楽しいとかいうのの理論と同じで。

なんか、そういうのを自主的に感じにいけるっていいなぁとぼんやりと久々に思いました。
ま、そう言ってる私でもそう感じないコスもあるっちゃあるので、そこだけに楽しさを見出してる訳ではもちろんないんだけど。

コスプレはこれが正解です!って定義したがる人、昔もいたけど、今みたいに幅を利かせてなかった気がする。
別に誰がどこにどんな価値を持つかは自由だとは思うんだけど、
靴まで作ってないのは愛が足りないから、とか
カラコン入れないのはダメ、みたいなのは、
正直微妙です。
「自分が」そうしたくない、のはわかるんだけど、他人にまでそれを「強要」するのはどうかな、と。
最近ディーバやってるので寝不足です。
でもかなりのハイペースでやってるからあっという間にコンプな勢いよw


本題。
私基本的に「作品が好きで」コスすることが多いから余計にそう感じるんだろうけど、
よく思うのが、
最近は誰にどこでどう撮ってもらいたいと思うのかのキャスティング的なこともレイヤーの仕事なんだなってことで。
レイヤーにも男装が得意、女装が得意、造形が得意、肌出しものが得意とかいろいろあるように、
カメラマンさんだって、
明るくてふわふわしたのが得意な人もいれば、硬いライトの方が好きって人もいるし、暗めが好き、質感出すのが好きとかいろいろいるじゃないですか。
そこで誰にお願いするのかもセンスだなって。
そんでもって、自分がどのキャラをどうやるかっていうのもセンスだな、と。

うまい人ってだけでお願いするのももちろん無しではないと思うけど、
やっぱりその人の味や個性と、レイヤー側の個性が合わさって一つの写真になる訳だから、そこが噛み合わないと消化不良になるじゃない?っていう。
好きなキャラか似合うキャラかっていう理論も、私の場合は「作品が好き」が基本だし、脇役は美味しい・楽しいが骨身に染み込んでる舞台ヲタだからどのキャラも大概好きになれるしね。

で、このセンスに関しては、
上手い下手とかじゃないんだよね。
レイヤーにしてもそう。味や個性は上手い下手とは別のところにあると思う。

で。
最近私思うところあって積極的に交流したり合わせに参加したり主催したり、
柄でもないことやってますけど、
凄く違うタイプの合わせに参加したからなおさら、そう思うんだよね。


日曜に全員に初めましてなボカロ通常合わせに参加したんだけど、
私、基本的にボカロは曲の衣装ばかりなのね。
それは「作品をコスする」っていういつもの傾向から来てるんだけど、
作品のコスの時ってポーズや写真の方向性がその作品のテイストに引っ張られるっていうか合わせるから、
演劇に例えるなら、脚本があって、装置や衣装もそれに合わせたものが用意されてる典型的演劇に近いから、演技力とかが関わると思うんだけど、
ボカロ通常って、どちらかというと「キャラクターをコスする」のに近くて、
これはなんていうか、演技力より読解力だな、と。脚本を読む力。
もちろんキャラクターを表現するんだけど、
そこに明確な世界観があるわけではなくて、
一人一人がそのキャラクターになることで即興演劇的にポーズやひょうじょうや構図が決まって行くっていうか…。
レースクイーン系も近いけど、あれは「女の子を綺麗に見せる」っていうのがゴールだからまたちょっと違うんだよね。

で、ボカロ合わせで、
基本的にはいつもしがちなポーズのオンパレードになってしまってましたけど、
その中でもいつもあまりしないポーズとか表情とかを自分がしようとするのが面白いなーって思いました。
でも演技力の問題でしたいことができているかはまた別の話なんだけど。

で。
キャラクターでコスするときは、いろんな撮影のテイストで変化するのも味だな、と。
作品だとどうしてもテイストがある程度決まってるけど、
キャラクターであれば、よほどペラペラのキャラクター設定じゃなければ結構いろんな表情や動きも違和感ないんだな、と。
そこは面白さだなぁって思いました、今回。
着地点を見据えて組み上げる作品系も楽しいし、
あえて化学反応を試せるキャラ系も楽しいな、と。

まぁ、それだけの雑感の覚書なんですけど。

とりあえずそういえばTGS1日目参加します。白猫ティナの予定です。
コミケとかTGSは写真じゃなく、お祭りで自分がこの作品好きだっていうだけで衣装選ぶからまたちょっと違って面白いです。
それが人の性だと思ってる。
そういう欲があって当然だと思ってるし、
むしろそういうのが私は何一つないんですと強情に主張する「立派な人」のうち、少なくない人数が、
自分の主張で疲れていることも知っている。

皆様は論語を読んだことがあるだろうか?

私は小学生の頃、よくいる、勉強も運動もそこそこ以上出来る子供だった。
そして性格がかなり自己中だったのにも関わらず、
よくわからないが友達が仲良くしてくれる子供だった。
が、育った環境などの背景から、そんな自分が平凡な人間であることも分かっていたので、
少しでも深みのある人間に見せようと必死だった。
実際に深みのある人間になろうとすれば良かったのだが、素質の違いというものをまざまざと見せつけられながら10年弱育った後では、そんな気力もなかった。
ハリボテでもいいから、とりあえず面汚しにならない程度に「立派な人のふり」をしようと思っていた。
そこで浅はかな小学生が始めたのが図書館の本をひたすらたくさん「借りる」ことだった。
しかしこの小学生は活字が苦手だった。
お話を見たり聞いたりするのは大好きで、月に一度母親と観劇に行くのを待ち遠しく思っている子供ではあったが、
いかんせん、読むという行為は苦手だった。
妄想力こそ豊かだったが、受け取った文字を具現化するということへの想像力が貧困で、とどめに漢字が読めなかった。
けれど本はよく借りた。
いつも図書館の本を持ち歩いていて、貸し出しカードが何枚にもなる。
という、姿に満足していた。当時の小学生たちはあまり本を読まなかった。

それでも借りるだけでは申し訳ないので、たまに読んだりした。
その中でたまたま開いたページに載っていたのが、
「富と尊きは人の欲するところなり」(記憶なので多少違うかも)という論語の一節だった。

お金持ちになりたいとか、偉くなりたいなんていうのは、
人間の欲なんだから、仕方ない。

という意味で、私は「この人正直だなー」と思って、論語を読むことにした。
その「偉くなりたい」は私の「賢く見られたい」と同列だと思ったので、それを大の大人が堂々と肯定するとかすげーなって思って。
凄い後悔した。
読書家ではない私が読む本ではなかった。
けど、中身はすごく面白かった。


ここから本題。
(あいかわらず前置きが長いw)


論語の中に、
金儲けは悪ではない。
偉くなることが悪ではない。
という話がある。

自分の夢や理想の実現のために、
金が必要ならば、稼ぐしかない。
自分の生き方が評価された結果、
名誉をくれるというならいただこう。

つまり、金や名誉が手段や結果であって目的じゃないならいいんじゃねーの?
っていう話で、

あまり頭が良くなくて語彙も多くない小学生は、
モヤモヤっと頭の中で思っていたことに答えをもらったようで、
このおっさんスゲーな!と、
もう、うん千年前に亡くなった偉い人に親しみと愛着を感じたのだった。

かけっこの一等賞もそうだけど、
もともと持っているものとか、比べる相手とかにも左右されるけれど、
頑張ったから評価されるんであって、
そこを皆お手手繋いで一等賞みたいなのは、それこそ自分が負けないために他人を勝たせないっていうエゴや欲を、
「無欲」というオブラートで包もうとする行為の浅ましいことったらないと思ってますし、
寄付や援助は、まずそれを出来る財力があることが前提なのだから、金持つもことが悪なのであれば、寄付や援助も悪から生まれることになるよねっていう、ね。
うちはそこそこ裕福かもしれない家庭でしたけど、
皆がそこそこの地位や金を持っていたのは、それを欲したからではなくて、自分のやるべきこと、やりたいこと、理想や夢を追いかけた結果の副産物だということは小学生だってわかっていましたから。

で、
そんなこんなで、金も名誉もそのものは悪ではないと思う一方で、
それを追うのも人間だとは思うんですけど、

思うんですけど、ね。


最近の皆さんの、なんていうか、オブラートの包み方が、あまりに雑なんじゃないですかね、と。


たとえばこないだから突然大騒ぎになっているコミケの撮影&レイヤーのマナーですけど、
私が見かけてウワァと思ったのはやっぱり自分がレイヤーなのでレイヤー側の姿勢で、

自分の名刺を、まるで駅前でチラシ撒きながら歌ってるストリートミュージジャンの人みたいに置いて、囲みで撮影されてる人とか、

胸の谷間とかホワイトボードに自分のカイブやブログのアドレス書いて、それを写させる、とか、

そういう、
ウン?っていう撮影のされ方をしているレイヤーさんがそこそこの数いらっしゃいまして、

別にROM出してて名刺配って宣伝する友達とかもいるし、そこは仕方ないのかなって思うけど(商品の宣伝が大変なことは本業でもなんでも承知してるので)、
なんていうか、
「あくまでコスプレは手段であって、目的ではない」っていうのが、あまりにあからさまだなって。
昔からトラレタのねーちゃんは一定数いるし、私はそういう人たちも別に「人間らしいな」で片付けてきたんですよね。
だってその人達にもあくまで「コスプレが好き」っていう根本があるのはわかってたから。
「コスプレイヤーとして人気者になりたい・たくさんの人に撮られたい」のが主で、「『自分』が人気になりたい」とかではなかったように思います(そこまで積極的に交流してこなかったことが今更ながら悔やまれます。彼女らの心理を聞いておけば良かった)。
が、
今はあくまで「自分が人気になるための手段」がコスプレなんですよね。

ニコニコ動画の生放送しかり、
ブログのエロ投稿しかり。
どんどん過激になって、どんどん歯止めが利かなくなってっていうのは、全部、
「他人を出し抜きたい」「他人より人気になりたい」
だから
「他人がまだやってないことをやらなくちゃならない」
そのために
「露出する」「ルールギリギリのところ(場合によってはアウト)を攻める」
ってね。

人間が元々持ってる欲、「富と尊き」よりさらに下世話ですが、
「自分が特別でありたい」「認められたい」っていうエゴをゴリッと表にむき出してる感じしか感じないんですよね。
私このあいだ「世界で一番尊い満足の得方は『自己満足』だぜ」って話書きましたけど、
本当にその真逆だと思うのね。
他人ありきで、他人に認められたい、他人を出し抜きたい、全部他人の評価。

コスプレは前よりハードルの低い趣味になりましたよ。
衣装だって安価でどこでも手に入るし、
コスプレイベントもたくさん開催されていて、
以前はネット上でコスプレ通じて交流しようと思ったらホームページを自分で作らなきゃならなかった(だから一定暦以上のレイヤーって衣装の作り方とかだけじゃなくHTMLに詳しかったりする/苦笑)けど、アーカイブやキュアは登録無料で簡単に画像も上げられるしね。
だから簡単に始められる、簡単に「手段」に出来る。

しかもカイブはランキング形式で順位が付く。
順位付けされたら一番になりたくなるのが人間心理で、
(正直なところカイブは、このレイヤー順位?だけじゃなく、
そういう「人間心理」をうまい事使うサイト構成になってるのでそこのところはあまり好きになれないんですが)
そういうのが「特別になりたい」心理をさらに刺激してると思うんですよね。
もともと「特別になりたい」ではなく「コスプレって楽しそう」という心理で始めた人ですら、ネットに翻弄されて、そういう方向に頭が切り替わってしまっても私は驚かない。

そして「ハードルが低くなった」分、コスプレは「お金がかかる趣味」にもなったんですよね。
作って当たり前の時代は(業者に衣装を発注する人もいましたけど)、
大抵の人は作るから材料費くらいしかお金がかからない(材料今より高かったけど)。ウィッグも今ほどガッチガチにセットしない傾向だったから使い回せるし、自毛だって別にどうってことない。小道具もせいぜい30センチ(コミケ基準w)くらいが基本で、まぁたまーに気合い入れて長物作る人がいるくらい。手間がかかるから1クールごとに新作いくつも出す人もそんなにいない。本当に好きで、ずっとやりたい衣装作る人が多かった。
それが全部、良いクオリティのものが、そこそこの値段で売られてる。
だから買う。
買うからお金がかかる。

それをどうやって回収するか、どうやって節約するかってなったら、
お金持ってる人やおごってくれる人にたかるとか、
ROMで儲けようって考えるとか、
って浅はかに考えるのが十代・二〇代前半にはありがちだと思うんですよね。
自分の体なら資本も大してかからないしって思うだろうしね。
で、売れるROMを追求したら、市場原理からいって「若い女」に金を出すのは男性からの方が圧倒的に多く、
健全なものよりも性的な物の方が男性に売れやすいのも然り。
で、あっち方面に突き進んでくんだろうなぁ、と。

なので、極論を言えば、
「エロに浸食されないコスプレ」を守ろうと思ったら、
ああいうのをしちゃう子達に「もっと簡単」で「もっと特別扱いされる」趣味を提供したらいいだけだと思うんですよね。とっさに思いつけないですけど。

エロカメコは昔からいるし、登録不要のコミケ会場は初心者カメコさん向きで、その中にパンチラとか胸撮りたいとかでくる人がいるのは珍しくないので、
今回の問題を「ローアングルで撮るやつらが悪い」で片付けようとしてるレイヤーさんたち怖いなーって思います。
確かに『実行犯』はその人たちですけど、その人たちをコミケに来るように誘導し、エサを与えてるのは一部のレイヤー側なんだから。
(もちろんそういう子達の巻き沿いになって被害にあってしまってるレイヤーがいることも事実なので、レイヤー全員が悪いわけではないですよ)
その子達をどうしていくか、
その子達が変わらない・他に行かないのなら、どう共存していくか(すみ分けるなりなんなり)、
っていう問題な気がします。


こういう「認められたい」「特別になりたい」っていう人間の欲は、
別にコスプレに限んないんですよ。日常生活でもどこにでも溢れてる。

身近な例だとツイッターのRT数とかファボね。
RT数とかファボは、本来は自分の言葉や考えが共感されたり認められた結果で、
それが嬉しいんだと思うんですよね。
たくさんリツイートされてフォロワーが増えると、自分が人気者であるかのように思える。
だからどんどん『リツイートされるツイート』をしたくなる。フォロバするからフォローしてっていうツイートをしたりする。
そして途中から「共感を実感させる”手段”」だったRT数やファボ数、「つながること」が目的だったフォロワー数という、
数そのものが「嬉しさ」に直結してしまい「目的」に成り代わり、
結果としてパクツイが横行する。


SMAPの「世界に一つだけの花」は素敵な曲だけど、
完璧に『ナンバー1にならなくても、自分は特別だ』と思える「自己満足の極地」にいられるほど人は強くも単純でもない。
だから逆にあの曲が響くんじゃないかと思うんです。
だって、「ナンバー1じゃない自分だけど、特別なんだからそれでいいじゃないか」
=「ナンバー1になりたい」から辛い思いをしてきたけど、「(その代わりに)『特別』なんだからそうじゃなくてもいいよね?」っていう「ゴール地点のすり替え」心理がそこにはあるってことじゃないですか。

これはもう論語の時代からある人間の性なので、私ごときが頭を悩ませてもどうこう出来るものでもないですし、
多分今世紀内っていうか人間が劇的な進化っていうか変化でも遂げないかぎりなくならないことなんで、
「次のコミケまでに解決しましょう!」なんて無理だと思うんですよね。

だからとりあえず目先の話だけをすれば、
「コミケのコスプレのルール」を変えちゃえばてっとり早いんじゃないですかね。
別に前ので不便じゃなかったっていうかコミケのコスプレはあくまで「オマケ」だと私は思うので、

・胸は2/3以下しか見せちゃいけません。
・尻も1/2以上見えてはいけません。
・肌色タイツは不透明なもの(具体的には下に黒い布を入れても色が透けないもの)を着用しなければなりません。透ける場合はNGです。
・膝上のスカートの場合はパンツの上にスパッツやインナーを着用。

とかにして、それがいやな人は別のイベントいけばいいと思う。
トイレとかで更衣室チェックの後に衣装に手を加えてしまう人もいるけど、
コスプレ広場の入り口でチェックすればいい。
それだけで大分減ると思いますね。
「表現の自由を守る」って言葉を準備会はよく使うし、その理想は立派だと思う。
けど、多少制限された程度で出来なくなる表現なら、その場に向かないって話でもあると思う。
本物の肌使わなくても、肌色の生地でごまかすとか、いくらでも手段はあるんだから。

とりあえず承認欲求を満たすためだけにコスが食い物にされるっていうのはね~、メジャーになった故のことだからね~。
とりあえず正直書き飽きてきたので終わりますw
飽きずに読んでくださった方、飽きたけどなんとか読んでくださった方、ありがとうございます。
凄いです。