最近、「自分とか、ないから」というしんめいPさんが書かれた東洋哲学の本が評判になっていますが、それとは少し違う視点で「自分とは何か?」を考えてみます。

 

~とは何か?」と言う問いは、例えば「善とは何か?」と言えば「善とは絶対善(善のイデア)に合致している事である」と言えます。そうであれば「自分とは何か?」と言う問いもまた同じで「自分とは絶対自分(自分のイデア)に合致している事である」と言えます。

それでは絶対自分とは何か? 絶対とは対が絶えていることを言います。そうであれば絶対自分とは自分の対であるすべての他人に絶えているものを言います。つまり自分自身だけにあり他人には絶対にないものなのです。ですから絶対自分(自分のイデア)とは自分にだけあり、対するすべての他人には絶対にないものとは何か?を考えればいいのです。

 

私が思うにそれは「自分の経験」だと思うのです。自分が生まれた時からいろんな経験をしますが、その経験は自分だけのものであり、自分と全く同じ経験は他人には絶対にないもなのです。例え双子であっても各自経験することは必ず違うのです。どんな人に出会い、どんな出来事に出会い、そしてそれに対してどう思い感じたのかなどの経験はその人一人一人違うものであり同じであることは絶対にありません。ゆえに自分だけにあり他人には絶対にないものとは「自分の経験」と言えるのではないでしょうか。

 

私は心と言うのはコンピューターのプログラムと同じだと考えていています。コンピューターは「何か入力があればプログラムが働いてその答えを出力する。そのプログラムとは「記憶」です。コンピューター内に書き込まれたいろんな記憶(プログラム)が働き出力をするのです。そしてそれは人間も同じで何か外的刺激(入力)があれば心に書き込まれた記憶が働き何らかの行動(出力)をします。そして心に書き込まれた多くの記憶と言うのはその人の経験により何かを感じて記憶されたものなのです。

 

自分とは何か?それは「絶対自分(自分のイデア)に合致するものである」と言えるならば絶対自分とは「その人の経験による記憶」であると言えるのではないでしょうか。自分とは自分の唯一無二の経験であり、その自分の経験によって記憶されたもの(自分のプログラム)こそが「自分である」と言えるのではないでしょうか。

 

また私は以前に「自分(私)とは何か?」について考えると言う投稿で「自分(私)とは生まれ持った唯一無二の個性こそが自分と言うのではないかと投稿しましたが、この生まれ持った個性(遺伝子に書き込まれた記憶)とその後成長に伴う自分の経験による記憶、これらが相待ったものこそが「自分である」と言えるのではないでしょうか。

 自分とは何か? 自分とは「経験である」、その経験によって自分の心、思い、自分のプログラムと言うものが創られていく。自分の数多の経験こそが自分とは何か?の答えと言えるのではないだろうか。

 

自分とは何か?という問いは自分の心とは何か?と言う問いでもあり、それは唯一無二の自分の経験により蓄積された記憶、プログラム、絶対自分に合致しているものであると言えるのではないだろうか。

 

「自分なんてないから」と言うのも卓見ですが、哲学的に言えば「自分とは自分の生まれ持った個性と自分自身の経験による記憶、プログラムである」と言えるのではないでしょうか。