六根清浄なるが故に五臓の神君安寧なり 五臓の神君安寧なるが

故に天地の神と同根なり 
天地の神と同根なるが故に万物の霊と同体なり万物の霊と同体

なるが故に為す所の願いとして成就せずといふことなし 
六根清浄大祓

心身とも祓い清まり、自分の意識をわざと消して私念を去り、

六根清浄となると、ものごとにこだわらず、五臓の神が安らかで、
無念無想の状態になります。
即ち、これが混沌の初めの機前であり、一心清明です。
この際に注意しなければならないのは、自分が自分でないと

意識することで天地の神と同体になるだけでなく、
先ず、神勅を奉戴し、命持ちとして大御心を頂き、天皇様を中心し、

修理固成した上で祈願すべきであるということです。

心身とも祓い清まれば、自然な状態になり、心が正しくなります。
そうすると、ある程度は大神に守って頂けるのですが、

これは神縁の強弱によります。
つまり、神縁が薄い場合、心身とも祓い清まり自然な状態に

なっただけでは十分でないのです。
そこで、祈祷をおこなったり、神勅に従うことが必要になります。

神垂祈祷・冥加正直 御鎮座伝記

心正しければ祈らずとも神は守らん、まして祈れば、

陽復記、度会延佳、 

「天地の自然になる道にもあらず、人の作れる道にもあらず、

此道はしも、可畏きや高皇産霊神の御霊によりて、

神祖 伊那岐大神、伊邪那美大神の始めたまひて、

天照大御神の受けたまひたもちたまひ、伝へ賜ふ道である。」

直毘霊 本居宣長

道徳となると、どうしても滅私奉公を説きやすいのですが、

各人の個性は神から与えられた使命であり、
この特性を伸ばすことにより公共の役に立つことが即ち、

修理固成であり、天壌無窮の皇運を翼賛することなのです。
個人の適性にあう形で個性(好きなだけでなく、得意なもの)を

生かしつつ、社会に貢献することなのです。
神社において氏子崇敬者の私益である個人的祈願を受け、

祈祷するように、邪でない私益は捨て去るのではなく、
この私益を満足させる形でなおかつ、公共の役に立つように

しなければなりません。
滅私奉公でなく、"活私奉公"とでもいうべきものですね。