浄土真宗本願寺派信行寺・僧侶ブログ

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浄土真宗本願寺派信行寺の僧侶が日々を綴ります。

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お釈迦さまが求められたのは、しあわせではなく、「しんじつ」でした。

それは自分の欲がみたされたときにしあわせを感じる感情ではなく、

本当に変わらないもの、誰もにあてはまること、そしてそれに依って

生きることができることがらでした。

 

おいしいものを食べたとき、しあわせを感じるかもしれませんが、

長続きはしません。

何よりどれほどおいしいものでも同じものをずっと私たちは

食べ続けることはできません。飽きてしまうのです。

 

しんじつはそのようなしあわせとは質が異なるのです。

たとえば私のいのちは必ず老いて、病んで死を迎える。

これは「しんじつ」のことがらなのですが、

いつでも、どこでも、だれにでもあてはまる本当のことなのです。

老病死のことがらは私を貫く無常のことわりです。

 

お釈迦さまはそのしんじつを明らかにされて、私たちに安らかに

生きる道を説かれました。

 

あるときに、小さなお子さんから、「お坊さん、しあわせってなあに?」と聞かれたことがあります。

皆さまでしたら、何とお答えになりますか。

 

私はすかさず、その子に、「僕はどう思うの?」と聞きましたら、ちょっと考えこんでしまいました。

そこで「今、しあわせ?」と聞いたら、「うん」とうなずきます。かわいいですね。

 

大人になると、色々と考えますから、しあわせの条件は、本当増えるのかもしれません。

そして、なかなか自分がしあわせと素直に思えないものではないでしょうか・・

そうしますと、今の自分がしあわせと思えるのでしたら、その瞬間をありがたく、大切にしたいですね。

 

ところで、仏教の開祖であるお釈迦さまはどうだったのでしょうか。

考えてみますと、お釈迦さまは、王子として生まれ、キレイな御妃と結婚し、子供さんももうけています。

出家するまで、ほんとうに恵まれた満たされた生活を送っていたと、どの経典にも記されています。

それでは、そんなに人もうらやむ生活を送って、つまり「しあわせ」そうであるのに、なぜ出家して

その生活を捨てたのでしょうか?

そこのところはよく考えてみたいところです。

 

お釈迦さまは、しあわせである状態から、それを捨てて、さらに何かを求めたのです。

つまりその意味からすると、仏教はそもそも、しあわせになる教えではないともいえます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

親鸞聖人の御言葉に「如来大悲の恩徳」があります。

阿弥陀如来の大慈悲によって私が救われるご恩ということです。

 

この恩という漢字は、小学校では6年生で習う字です。次第に習う学年が後になってきたようです。

恩という字は、原因の因という字の下に心と書きます。
現在を結果と見るときに、現在の自分を育てて下さった因(もと)を知る心のことをいいます。

 

それでは現在の自分を育てて下さった因とはどのようなものでしょうか。

今ここにいる私は、育ってて下さった親のご恩をはじめ、ありとあらゆるご恩を受けて生きています。

そのことは目に見えるものだけでなく目に見えない因縁にまで思いを寄せると、
生きとし生けるものすべてのご恩を受けて生かされているといえます。

人間だけでなく、動物も、植物も。空気さえも。

 

そして、仏さまのご恩。私のいのちをお育て下さった大いなるはたらきへのご恩。

そのはたらきとは、どんな境遇の私をも浄土の救いへ導かんとする法の力のことです。

 

才市(さいち)同行の言葉には、「南無阿弥陀仏が目に見えぬ 大きなご恩で目に見えぬ」とあります。

 

本当に南無阿弥陀仏のおはたらきは、ご恩が大きすぎて目に見えないのです。

目に見えずとも私の口から南無阿弥陀仏となって声となってはたらいて下さっています。

 

合掌

 

 

 

 

 

 

 

お釈迦さまはどのような幸福の中にあっても、生老病死の苦悩から逃れることはできないと

説かれました。

 

そのため、その苦悩を消し去るという方法ではなく、苦があっても苦にならない、悲しみがあっても

悲しみとならない、そのような世界に眼を開かれていくという方法を示されたのです。

 

むしろ苦しみ悲しみがあって初めて開かれてくる世界があるのです。

民族、国家、貧富、性別どのような違いあろうとも、誰もが生きる拠り所とできる世界があることをお釈迦さまは示されて、

その世界に私たちの本当の居場所があることを説かれました。

 

その浄土と呼ばれる世界に眼が開かれると、私たち一人ひとりの苦しみ悲しみの質が転換し、

苦悩する人全体が救われ、お浄土を生きる拠り所としてこの現実世界を生き抜く人となるのです。

 

合掌

 

お釈迦さまは抜苦与楽(ばっくよらく)を説かれたと伝えられます。

抜苦与楽は苦を抜き、楽を与えるということで、

人間の苦しみの原因を明らかにして、その苦しみから解放し、真実の安楽の境地を

私たちに示されたのです。

 

ではそのお釈迦さまの苦からの解放とはどのような方法だったのでしょうか。

 

前回苦しみの原因は、「いのちあること」すなわちこの世に生まれたことと言いました。

そしてその生を起点として、「生老病死」という生まれて、老いて、病いとなって、死んでいく、

という苦しみが私たちに続いていきます。

それは誰一人として逃れられない苦しみです。富める人も貧しき人も、例外なく

逃れることができません。

 

このような人間苦は厳然たる事実であり、祈って解決できるほど甘くありません。

またたくさんお金があってもほとんどどうにもならないことが多く、私たちには

まったく別の次元での解決が必要なのです。

 

(つづく)