日本書紀、古事記、万葉集は白村江の戦いの後の百済人が渡来して来た後の時期に書かれ、内容を分析すると当時の日本語は8母音であったと言う学説がある。上代日本語八母音説とか、上代日本語特殊仮名遣いと呼ばれている。
現在、学説としては当時の日本人は全員、8母音の日本語を喋っていたことになっており、5母音の神代文字で書かれた古文書は全て偽書とされている。
近畿は旧首都であり政権側の渡来人達が集住し、ここの方言(関西弁)は最も変化が大きく新しいもので、周辺に影響を及ぼしていると見られている。この様な地域に白村江の戦いの後、大規模な渡来として終期となるが、多くの百済人が入植し、ヤマト政権にも参加したことが知られている。すなわち、百済人の喋った言葉が現在の関西弁の主柱となったと考えられる(参考)。
この百済人の言葉が8母音の上代日本語であったのではなかろうか!しかし、従来の近畿の言葉も周辺の方言も5母音であったので、逆に影響を受けて数十年で消滅したのであろう。それにも関わらず、関西人は今でも東京式アクセントの標準語を話すことが不得意で、どこでも変な京阪式アクセントの関西弁を押し通している。
雑談
ここでは関西弁を一括りに扱い、百済人の言葉であったと指摘した。しかし、宮中での言葉はさらに違っているようだ。その言葉は百済人達よりさらに古い秦の始皇帝の直系子孫達の言葉が関わっているのかも知れない。
参考
1.はじめに
若かりし頃、世界に誇る古典 「万葉集」 を、古典文学全集で読もうとした時、原文がすべて漢字で書かれていましたので、大変驚いたことがあります。
「万葉仮名」 という言葉がありますので、てっきり " かな " で書かれているものと思い込んでいたのです。
しかし、万葉集ができた時代の日本には、" 平仮名 " や " 片仮名 " はまだ発明されておらず、漢字の音で日本語を書き表していたことがわかりました。
次の歌のように、漢字の音読み一字が日本語一音に相当する表記法、いわゆる 「 借音仮名 」 を 「 万葉仮名 」 と呼んでいます。
万葉仮名は、古事記や日本書紀の歌謡、訓などの表記でも使われていますが、圧倒的に使われているのが万葉集なので 「万葉仮名」 なのです。また、ひらがなやカタカナと区別するために、 「真仮名」 「真名仮名」 「男仮名」 と呼ばれることもあります。
なお、万葉集の中で、すべて万葉仮名で書かれている歌の数は、約1/4とのことです。
[ 793番 作者:大伴旅人 ]
余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子
ヨ ノ ナカ ハ ムナ シキ モノ ト シル ト キシ
伊与余麻須万須 加奈之可利家理
イ ヨ ヨ マス マス カナ シカ リ ケリ
イ ヨ ヨ マス マス カナ シカ リ ケリ
残りの歌は次のように、漢字を訓で読んだり、万葉仮名を使ったりする折衷表記です。上にあげた歌の作者:大伴旅人も、折衷表記を行った歌を作っていますので、その時の心情を表現するには、どちらがよいか考慮したのでしょう。
全部、万葉仮名の歌の方が、気持ちを " そっちょく " に表しているように感じます。一字一字に心を込めて詠んだのではないでしょうか。
[ 28番 作者:持統天皇 ]
春 過 而 夏 来 良之 白 妙 能
ハルスギテ ナツキタルラシ シロタヘノ
衣 乾 有 天 之 香具山
コロモホシ タリ アメノ カグヤマ
2.上代八母音説とは何か
大まかに言えば、奈良時代までは、現在の五つの母音 [a] [i] [u] [e] [o] のほかに [ ï ] [ ë ] [ ö ] (少し曖昧な発音)を加えた、八母音であったという説です。
そして、通常のものが 「 甲類」 、曖昧なものが 「乙類」 と分類されました。
しかし、奈良時代も終わりになると、甲類・乙類の区別があいまいとなり、平安時代以降は乙類が消えてしまったと言われています。
研究史的には、江戸時代に、本居宣長、石塚龍麿、草鹿砥宣隆が発見しました。
1917年(T6)に 橋本進吉 が 「帝国文学」 に論文 「国語仮名遣研究史の発見-石塚龍麿の仮名遣奥山路について-」 を発表して以降、国語学界でさかんに論じられるようになりましたが、橋本はこの現象を「上代特殊仮名遣い」と命名しました。
主だった研究者として、有坂秀世、池上禎造、金田一京助、大野晋、服部四郎、ローランド・A・ランゲ、森博達、松本克己、森重敏らがいます。
3.上代八母音説の欠陥
八母音説の最大の欠陥は、島国の言葉というものは、外国に征服でもされない限り、おいそれとは変わらないのが世界の常識であるにもかかわらず、わずか数十年で重要な母音が消えてしまったことを説明できないことです。
八母音説に真っ向から反論したのが松本克己です。彼は乙類は言語学で言う 「 異音 」(前後の語のつながりで発音が変化) にすぎず、奈良時代も母音は五つであると発表しました。
そして、帰化人が日本人が発する異音を聞き分けて、それに漢字を当てたとしています。
その帰化人は半島から来た人間ではないかと、五母音説を補強するのが、中川芳雄、藤井游惟です。なお、ハングルは現在も八母音です。
元日本語教師の藤井は、韓国での経験などをふまえて、その帰化人は百済人であると断定しています。その理由として、白村江の戦いで百済が滅亡し、百済人が多く日本に帰化したことをあげています。彼らが 「史(フヒト)」 になり古事記、日本書紀作成に貢献したという判断です。
そして、五母音に戻ったのは、帰化人一世が絶え、二世、三世も日本に永住することにより、甲類・乙類の区別ができなくなったとしています。
ただし、藤井は万葉集まで帰化百済人が書いたとしていますが、それには疑問があります。そもそも当時の支配階級や歌人たちが、文字を書けなかったということはありえず、彼らそのものが半島から日本にやって来た渡来人であり、当初は「異音」 を聞き分けていたが、世代を重ねることによって、土着の日本人の言葉使いに同化したものと考えられます。
[参考]
1982 中川芳雄 「ハングルから見た上代特殊仮名遣甲類乙類の漢字音 : 第Ⅰ部
甲類乙類漢字とハングル(華音東音)対照表」
常葉学園大学「研究紀要」・第2号所載
2007 藤井游惟 「白村江敗戦と上代特殊仮名遣い」(東京図書出版社刊)