昭和維新の失敗が日本の軍国化をはやめてしまった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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二・二六事件を引き起こした青年将校達(皇道派)は、長州閥が消えて明治維新の趣旨から外れた当時の軍部指導体制を改革すべく昭和維新を成し遂げる心意気があったが、失敗してしまった。

この失敗が、かえって軍部独裁を完成させた。

たとえ青年将校達(皇道派)が維新を成功させたとしても、軍部主導の民主化は矛盾をはらんでおり、統帥権の問題で遅かれ早かれ軍部独裁になったであろう。

藩閥が存在していた時は軍部独裁を許す統帥権に関する問題は起こらなかった。政治部門と軍部の両部門に渡る人事を藩閥が押さえることが出来たからである。

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参考

①  二・二六事件  決起趣意書《現代語訳》(
参考)

日本は、万世一系の天皇陛下の下に、挙国一体となって八紘一宇をまっとうするという国家です。日本は、神武天皇の建国から明治維新を経由して、ますます体制を整え、今や日本の精神風土は、世界万民に開かれようとしています。

しかるに私利私欲にまみれた不逞のヤカラが政財界を牛耳り、私心や我欲によって陛下を軽んじ、民衆の生活をとたんの苦しみに追いつめているのみか、昨今では外国にまで侮られるという事態を招いています。いわゆる元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は、この国体破壊の元凶です。

ロンドン軍縮条約、ならびに教育総監更迭における統帥権干犯問題は、陛下の大権を奪い取ろうというたくらみでした。三月事件、あるいは学匪共匪大逆教団等は、政財界と利害関係を結んでこの国を滅ぼそうとするものです。最早、彼らの罪は万死に値する。

中岡、佐郷屋、血盟団の先駆者たちの捨身の戦い、五・一五事件、相沢中佐の閃発など、彼ら佞臣に反省を促す動きは、これまで幾度もありました。けれど売国奴たちには、いささかの懺悔も反省もなく、依然として私利私欲をほしいままにしています。このままでは、日本は完全に破滅に追い込まれてしまう。

いま、内外に重大な危急があるときです。私たちは、日本破壊を阻止するために、日本国破壊の不義不臣を誅殺しました。君側の奸を、斬りたおすのは、我等の任だからです。

私たちは、同憂の同志たちと機を一にして決起し、奸賊を誅殺して大義を正し、日本を守ります。皇祖皇宗の神霊、こい願わくば、照覧冥助を垂れ給わんことを。

昭和11年2月26日
陸軍歩兵大尉 野中四郎
                         外同志一同


② 二・二六事件(粟屋憲太郎、コトバンクより)
ににろくじけん

陸軍皇道派青年将校によるクーデター事件。1936年(昭和11)2月26日早暁、歩兵第一・第三連隊、近衛(このえ)歩兵第三連隊など約1500人の在京部隊が、首相・蔵相官邸、警視庁はじめ、政府首脳や重臣の官・私邸、朝日新聞社などを襲撃した。指揮にあたったのは栗原安秀(くりはらやすひで)中尉、安藤輝三(てるぞう)大尉、野中四郎大尉、免官となっていた村中孝次(こうじ)、磯部浅一(いそべあさいち)ら皇道派青年将校であった。

このとき岡田啓介(けいすけ)首相と誤認された義弟で秘書であった松尾伝蔵海軍大佐が射殺されたのをはじめ、高橋是清(これきよ)蔵相、斎藤実(まこと)内大臣、渡辺錠太郎(じょうたろう)教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長が重傷を負った。また神奈川県湯河原滞在中の前内大臣牧野伸顕(まきののぶあき)も襲われたが、危うく難を逃れた。

原因と経過

決起部隊には、青年将校の「昭和維新」の思想に共鳴する下士官もいたが、兵士の多くは初年兵で、「上官の命令」で事件に動員された。

事件の原因には、前年以来、深刻さを増していた皇道派と統制派の陸軍内抗争があった。両派の対立は1934年11月の士官学校事件、35年7月の林銑十郎(せんじゅうろう)陸相による皇道派の真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)教育総監の更迭、同年8月、その更迭の推進者と目された永田鉄山(てつざん)軍務局長が相沢三郎中佐に白昼斬殺(ざんさつ)された相沢事件など、エスカレートの一途をたどっていた。そこに皇道派青年将校の牙城(がじょう)である第一師団の満州派遣が決定されたため、青年将校たちは武力蜂起(ほうき)を早めたのである。

蜂起部隊は首相官邸はじめ陸軍省、警視庁などを占拠し、川島義之(よしゆき)陸相に「蹶起(けっき)趣意書」を突きつけ、国家改造の断行を要求した。しかしその内容は、三月事件(1931)に関与した陸軍首脳の検束と統制派将校の追放、真崎大将の推戴(すいたい)、荒木貞夫(さだお)大将の関東軍司令官就任というまったく派閥的なものであった。

「股肱(ここう)の重臣」を殺傷された天皇は激怒し、当初から蜂起部隊の鎮圧を求め、3人の大将(斎藤、鈴木、誤認の岡田)を殺傷されたと聞いた海軍は自ら鎮圧の態勢を整えた。

しかし蜂起部隊に同情的な陸軍首脳の工作で事態の処理は混乱した。27日、枢密院の審査を経て戒厳令が公布されたが、戒厳司令官には皇道派系の香椎浩平(かしいこうへい)が任命され、反乱部隊も「麹町(こうじまち)地区警備隊」として戒厳部隊に組み入れられた。

しかし戒厳令の施行を推進した参謀本部作戦課長の石原莞爾(かんじ)大佐は青年将校の蜂起を逆利用して、軍事独裁体制の樹立を図ろうとし、また陸軍省、参謀本部の幕僚層にも皇道派への反感があったため、陸軍中央もついに鎮圧の方針に踏み切った。28日、反乱鎮定の奉勅命令が香椎戒厳司令官に発せられ、蜂起部隊は占拠撤収を求められた。

このとき反乱将校の方針は、帰順―抵抗の間を二転、三転し、一時は自刃の意思を表明したが、結局、抵抗の方針に決まり、「皇軍相撃」が予想される事態となった。29日、戒厳司令部は約2万4000人の兵力で反乱軍を包囲して戦闘態勢をとった。そしてラジオ放送や飛行機からのビラ、アドバルーンなどで「今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ」「抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル」などと、下士官・兵に帰順を呼びかけた。このため大部分の下士官・兵は帰順し、青年将校も野中大尉が自決したほかは、憲兵隊に検挙された。

結果とその影響

こうして4日間の反乱は鎮圧されたが、鎮圧後、陸軍首脳は、反乱軍に一時期同調したことを闇(やみ)に葬るため、関係者の処分を急いだ。すなわち、3月4日の緊急勅令により、4月28日から一審制、非公開、弁護人なしの東京陸軍軍法会議が特設され、わずか約2か月の審理で7月5日、主謀者の青年将校ら17名に死刑が言い渡され、北一輝(いっき)、西田税(みつぎ)、真崎らの裁判の証人として1週間後に出廷する磯部、村中を除く15名が同月12日処刑された。

また青年将校に大きな思想的影響力を与えた民間人の北・西田を検挙、軍法会議にかけ、事件を、北ら民間人に主導された少数の矯激な青年将校の反乱として印象づけるため、北・西田を、磯部・村中とともに翌年8月19日処刑した。青年将校に同調した真崎大将も起訴されたが、証拠不十分で無罪となった。

他方、事件後、陸軍の政治干与を批判する世論が高まり、事件で殉職した警察官に弔慰金が集中し、また戒厳令下で召集された第69特別議会では、民政党の斎藤隆夫(たかお)が軍部批判の「粛軍演説」を行い、大反響をよんだ。さらに反乱に動員された兵士が「上官の命令」によるものであったため、在郷軍人や地方指導者の間に兵役義務に対する動揺がみられた。

しかし陸軍首脳は、この「粛軍」世論を逆手にとり、「粛軍」人事の名のもとに、皇道派将校などを予備役に編入し、陸軍中枢は寺内寿一(ひさいち)、梅津美治郎(よしじろう)、杉山元(はじめ)、東条英機(ひでき)らの「新統制派」で固められた。

また1936年5月、予備役となった皇道派将軍の陸相就任を防ぐという名目で、軍部大臣現役武官制を復活し、軍部は内閣の生殺与奪の権を握ることになった。さらに陸軍は、部内の統制を図るには政治の姿勢を正すことが必要であるとして、事件後の広田弘毅(こうき)内閣の組閣に露骨に介入、「庶政一新」と「軍備充実」を強く要求した。

陸軍中央は事件以後、クーデター路線を排して、軍中央が軍の全組織を動員して国家改造を実現する方針を推進し、帝国在郷軍人会を勅令団体として中央集権化するとともに、民間ファシズム運動も軍の統制下に置いた。また財界首脳は、以後、統制経済による総力戦体制の構築が不可避であることを認識し、部内の急進分子を抑圧した陸軍中央と積極的に結合、「軍財抱合」体制がもたらされることになった。

『松本清張著『昭和史発掘 第7~13巻』(1968~71・文芸春秋) ▽林茂他編『二・二六事件秘録』全4巻(1971~72・小学館) ▽江口圭一著『昭和の歴史4 十五年戦争の開幕』(1982・小学館) ▽粟屋憲太郎・小田部雄次編『資料日本現代史9 二・二六事件前後の国民動員』(1984・大月書店) ▽伊藤隆・北博昭編『新訂二・二六事件 判決と証拠』(1995・朝日新聞社) ▽池田俊彦編『二・二六事件裁判記録』(1998・原書房) ▽北博昭著『二・二六事件全検証』(2003・朝日新聞社) ▽須崎慎一著『二・二六事件 青年将校の意識と心理』(2003・吉川弘文館) ▽高橋正衛著『二・二六事件「昭和維新」の思想と行動』増補改版(中公新書)』


③ 皇道派と統制派のちがい(参考)

皇道派…二・二六事件を起した派。国粋精神に重きを置いて思想問題を取扱い、天皇の軍隊は神聖なる存在であって、一旦緩急ある場合には一身を犠牲にすべきものである、従って、国体の明徴を期し、皇道を履(ふ)み、世道人心指導の先駆者たるべきものであるとなす。二・二六事件後、軍部から排撃された。 

統制派…当時の軍部の主流をなした。皇道派のような者は軍内部の乱脈の源であるとして極端分子を排し、統制に意を注いだことから統制派という。この派は、軍の幹部派主流をなすものだったが、元来軍部は藩閥勢力を受け継いだもの(注: 当時、既に薩長の藩閥の力は薄まり、各種派閥が跋扈していた)であって、政治策謀に興味をよせ、軍を中心とする政権を立てて軍の独裁実現を実行しようとした。 その思想は「皇政維新法案大綱」による。三月事件、十月事件を策謀した。 

【出典】・1952(昭和27)年 中央公論社 重光葵著 「昭和之動乱」 上巻


④ 当時の主要人物、、、藩閥の傾向は無い。

⒈ 岡田啓介: 総理大臣、海軍大将、福井出身
⒉ 斎藤実: 内大臣、艦政本部長岩手出身
⒊ 渡辺錠太郎: 教育総監、陸軍大将、愛知出身
⒋ 鈴木貫太郎: 侍従長、海軍大将、千葉出身
⒌ 牧野伸顕: 前内大臣、伯爵、鹿児島出身
⒍ 高橋是清: 大蔵大臣、官僚、東京出身
⒎ 川島義之: 陸軍大臣、陸軍大将、愛媛出身
⒏ 林銑十郎: 前陸軍大臣、陸軍大将、金沢出身
⒐ 真崎甚三郎: 前教育総監、陸軍大将、佐賀出身
10. 荒木貞夫:                  陸軍大将、奈良出身
11. 永田鉄山: 軍務局長、陸軍中将、長野出身
12. 東条英機: 次期首相、陸軍大将、東京出身
13. 石原莞爾: 作戦課長、陸軍大佐、山形出身


⑤ 昭和期における藩閥(wikiより)

昭和期に入ると藩閥出身者が高官を独占する事はなくなり、陸軍三長官を務めた長州出身者は寺内寿一(寺内正毅の子)一人であり、海軍三長官を務めた薩摩出身者も財部彪(山本権兵衛の女婿)、山本英輔(山本権兵衛の甥)、野村直邦のみであった。


⑥ 軍部における藩閥について(ヤフー知恵袋より)

海軍の薩摩閥は日清戦争の前に高級将校(将官・佐官クラス)の大量整理をやった際、一掃されたと言われています。もっとも、実際には一掃というほどではなく、例えば日清戦争の連合艦隊司令長官である伊東祐亨元帥や軍令部長(当時)だった樺山資紀大将は薩摩藩士出身、日露戦争の時の連合艦隊司令長官である東郷平八郎元帥もそうです。(日露戦争の時の軍令部長は前述の伊東元帥)なので完全に打破されていたとは言い難い面もあったとは思われますが、島村速雄元帥が軍令部長になった頃からは出身に関係なく登用されているようですね。

陸軍の長州閥に関しては例えば東条英機の父英教も陸軍軍人でしたが、この人が長州閥に逆らったために予備役編入されたと言われています。(これが日露戦争の頃の話です) 長州閥がいつなくなったかというのは難しい問題ですが、おおむね第一次護憲運動のあたりではないかと思われます。これは、この時に桂太郎が失脚したことや、その数年後に長州閥のトップである山県有朋が宮中某重大事件で失脚していることなどから想像したものです。

いずれも藩兵の指揮官あがりの高級将校から陸大・海大出の高級将校にとってかわる時期くらいには藩閥は実質的には消滅し、その代わりに陸大・海大出のエリートたちが中心となっていったのだと思います。ちなみに陸軍では陸大閥、天保銭組(陸大卒業の徽章が天宝通宝に似ていたため)といって陸大出身者が中央で出世していくルートとして認識されていました。逆に陸大を出ていない者は無天組(おそらく無・天保銭組の意)として連隊などの部隊指揮官というような棲み分けになっています。また海軍では薩摩閥に対する措置として、兵学校の成績+海軍大学校の成績で出世コースがだいたい決まる制度をとっていましたが、これが今度は別の弊害を生んだことは有名です。

ちなみに太平洋戦争当時の参謀本部、軍令部のあたりのはこの陸大出、海大出が大半を占めています。まあ実戦経験は前の戦争がおおむね40年近く前のものだったので、もともと実戦経験者は少なめですね。例えば聯合艦隊の山本元帥で日露戦争の頃に兵学校卒業直後だったんで、それを考えるとほとんどいなかったでしょう。ただ、陸軍にしろ海軍にしろ大学校に入る前には必ず一度は現場で勤務しています。だいたい兵学校・士官学校卒業から10年ほどは現場勤務をして、その後大学校勤務して、海軍なら大型艦の艦長をやり、陸軍なら連隊長をやって中央、みたいなキャリアの積み方だったと思います。

あと中国戦線での実戦経験者はけっこういました。有名どころでは陸軍の作戦を担当した服部卓四郎大佐、辻政信大佐あたりはそうですね。(海軍は陸戦主体で主に航空隊しか出してなかった関係で実戦経験者は軍令部には少なかったようです)


⑦ 統帥権干犯問題(参考)

もともとは明治憲法の欠陥なのだが、それまでは元老制度によってこれが問題となることはなかった。しかし、昭和に入ると元老のほとんどは死に絶え、必然的に内閣の権威も衰えてしまった。ここに統帥権干犯問題という軍部の横暴がまかり通ってしまった原因がある。

統帥権干犯問題は、伊藤博文に始まった日本の政党政治の息の根を止めることになった。

注: 元老とは明治維新の功労者で藩閥のトップ


⑧ 第19回衆議院議員総選挙(wikiより)

1936年(昭和11年)2月20日に投票された衆議院総選挙。

1936年(昭和11年)1月21日、立憲政友会は、衆議院に岡田内閣不信任案を提出した。これに対して首相である岡田啓介海軍大将は、衆議院を解散した。

総選挙に当たり、岡田内閣及びその支持基盤である軍部、革新官僚(新官僚)は、選挙粛正(選挙革正)を名目に政党の弱体化を企図し、前年の1935年(昭和10年)5月8日に勅令で選挙粛正委員会令を出し、さらに選挙粛正中央連盟(会長、斎藤実前首相)を結成していた。こうして選挙粛正を名目に買収、供応を監督し、迂遠すれば、政党はその力を抑圧された。

第19回総選挙においては、あたかも選挙粛正中央連盟下で総選挙が運営されるような形勢となり、政党は、連盟の監視を意識しながら選挙戦を闘わざるを得なかった。

各党とも、軍部、革新官僚に対して迎合的な姿勢が見られ、挙国一致体制の確立をスローガンに掲げていた。岡田内閣に対して、野党となっていた政友会が「挙国一致性において、岡田内閣は弱体である。」としたことが、若干の政府批判であった。

総選挙の結果は、与党であった立憲民政党が第一党となり、逆に政友会は鈴木喜三郎総裁が落選するなどの大打撃を受けた。このため、岡田内閣の政権基盤は安定化すると思われた。しかし、選挙からわずか6日後に二・二六事件が起こり、岡田内閣は総辞職した。


⑨ 当時の山口県の安倍寛の動向(wikiより)

「金権腐敗打破」を叫んで1928年(昭和3年)の総選挙に立憲政友会公認で立候補するも落選した。1933年(昭和8年)に日置村村長に就任し没するまで務めた。その後、山口県議会議員兼務などを経て、1937年(昭和12年)の総選挙にて無所属で立候補し、衆議院議員に初当選した。

支那事変中は1938年(昭和13年)の第一次近衛声明に反対し、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)の翼賛選挙に際しても東條英機らの軍閥主義を鋭く批判、無所属・非推薦で出馬するという不利な立場であったが、最下位ながらも2期連続となる当選を果たした。