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個人の判断基準なのか、集団の判断基準なのか。判別することは難しいです

複数人で取り組むとき。

チームや仲間や家族であったり共同体や国や社会であっても、複数人で取り組むときに現れてくる難しさを一つ紹介します。

判断基準の話です。

個人一人ひとりには、その人に特有の判断基準があるのをご存じかと思います。AさんにはAさんの判断基準があって、BさんにはBさんの判断基準があります。

Aさんの判断基準と、
Bさんの判断基準は、

それがつくられてきた背景が違うために、同じものとして作られることはありません。

そして、判断基準は個人としての判断基準もありますが、集団としての判断基準があることも皆さんは薄々は感じているかと思います。

日本の判断基準、
アメリカの判断基準、

或いは、

この時代の判断基準、
戦国時代の判断基準、

それから、

非文明としての人類の判断基準、
文明をもつ人類の判断基準、

などなど、個人一人ひとりというよりも、複数人といいますか、共同体として持つ集団判断基準とでも申しましょうか、そういったものの存在には薄っすらと気付かれている方も多いと思うのです。

そして、言葉を話したり、考えたり、気付いたり感じたりすることは、何かしらの基準の上に乗ったものですが、それが個人の判断基準から出たものなのか、それとも集団の判断基準から出たものなのか、それをハッキリ自覚できていることはチームワークを組む上でとても大切なことです。

皆さんは、如何でしょうか?

今の判断が個人の判断基準から出ているものなのか、それとも集団の判断基準から出ているものなのか、お分かりになります

見るということも深い

描かれた富士山があります。
人間が描いた富士山です。

それは人間が富士山を見ているんですよね。

そのように見えているのは、人間としている立ち位置を人間の五感覚脳に置いているからです。人間が見るときに五感覚脳の認識は耳・目・鼻・舌・皮膚の内の主に目を使うそうですが、認識の80%を占めている目は認識活動に大きな影響を与えそうですね。

目から情報を受け取り脳へ伝達するような感覚機能を視覚と言いますが視覚で受け取る情報は、可視光線で受け取るのですが可視光線の波長で大体、

350[nm]~750[nm]

の範囲だけを脳が処理します。世の中にも宇宙自然にも200[nm]や900[nm]やそれ以外の波長の電磁波も沢山あるんですけれど、それらは視覚イメージとして作り上げる処理には生かされません。

人間はこの範囲の波長を受け取りますし、他の存在たちは違う波長や周波数の電磁波を受け取っているので、人間の認識活動とは似ているところもあるかも知れませんが、受け取る周波数帯域が違うんですね。

人間が見るためにはまず、(人間にとっての)可視光線の波長域にある電磁波を視覚から受け取ることから始めます。

200[nm]や900[nm]の電磁波は見ることが出来ません。X線だとかマイクロウェーブは見ることが出来ないですよね。

また、可視光線の波長域であっても、その電磁波を視覚から受け取らなければ見ることが出来ません。光のない暗闇ではモノが見えませんよね。

その様に、

見えるためにも、見えるまでに整えられた条件がありまして、その条件を満たしたときに見える現象に立ち会えるんです。

見るということは、
結構、深いです。

共通の個人、特別の個人という表現

本ブログ『HITOTSU学大好き!zakkyのブログ』では、共通の個人について記事を書くことが多いです。

共通の個人という表現は耳慣れないかと思いますが、共通の個人は特別の個人と共に理解するとイメージが受け取り易いかと思います。

特別の個人とは、

記事を書いている私とか、
記事を読んでいるあなたとか、

Aさんとか、
Bさんとか、

名前のついている個人といいますか、それは誰々だと個人を特定できる状態のことを指します。

よくアイデンティティと言ったりします。

インターネット社会になってからは、IDを目にする機会が増えてきましたが、誰だ!?に対して誰某だ!と特定できる状態のことを指します。

地球人類75億人がいましたら、
特別な個人は75億人います。

共通の個人とは、

この名前の付いている特定された個人ではない人間の状態を指します。誰にも彼にも当てはまる人間の状態ですね。

Aさんも、Bさんも、Cさんも勿論のこと、75億人全人類であったり、今までに生まれては死んでいった人たちも皆んなみんな含んでいる人間という意味です。

こういう表現を共通の個人と言っています。

皆さんは、両者を意識したり、使い分けて話したりすることはありますか?