○2004年4月、高校を卒業、母と姉と3人で上京(静岡から、東京を飛び越えて埼玉へ)
お母さんはリウマチで脚が痛かったけど、この頃はまだ誰かが支えていれば、びっこひきながらでも歩けたんだよなぁ・・・
○リウマチの治療をすすめても「病院は嫌だ」の一点張り
もっとすすめて病院に行かせればよかった。
○2013年4月、姉が手紙と鍵をポストに入れて突然家出
この時私はポストの前で手紙を読み、一人で「ドラマか?!」と突っ込んだ
○2013年4月以降、リウマチがひどくなり、ベッドで過ごすことがほとんどになる。
この頃からお母さんはトイレに行けなくなり、私が仕事から帰るとベッドで失禁していることが増えた。
辛く当たってしまうことが何度もあった。お母さん、ごめんね
○2013年11月下旬、お母さんが「気持ち悪いから救急車呼んで」と言うため救急車を呼び、そのまま入院。
○2013年12月下旬お母さん退院。
完全に車椅子生活になってしまいました。
おむつの、使用も始めました。
この頃は、仕事が忙しくて、家を7時に出て22時に帰宅、お母さんと1日何も話さないこともありました。仕事から帰って仮にお母さんが起きていても、うっとうしく感じてしまって自分の部屋にこもったり。お母さんにご飯を出して、自分は自分の部屋でたべたり。
寂しい思いをさせてしまっていました。
お母さんは家出したお姉ちゃんの名前を呼んだりして、一人で泣いている時がありましたが、私は、自分の身に起きている現実が何がなんだか分からなくて、整理できなくて、泣いているお母さんを見てみぬふりをしました。
色々と試行錯誤しながらお母さんの介護を自己流でやっていました。
病院は、母が行きたくないと言い張るため、行くのをやめてしまっていました。
○2015年2月、仕事から帰るとお母さんがおむつを外してベッドに失禁していました。疲れていたこともあり、お母さんにきついことを言って、とりあえずシーツとパジャマをかえて、臭いって言って、寒いのに、窓を開けて換気しました。
イライラがピークに達していました。
窓を開けたまま、私は自分の部屋にこもりました。
気持ちが落ち着いてお母さんのところにいくと、お母さんは寒い中で泣いていました。
心から自分は最低だと思いました。
私も泣きました。
お母さんが急に、「おばあちゃんに贈り物する」と、言い出しました。
おばあちゃんとはもう17年も会っていないので、明らかにおかしくなっていました。本気でヤバイと思いました。
平日の夜遅くでしたが、この時はお母さんの希望の通りにお母さんを車椅子で外に連れていきました。
まだイルミネーションがついていました。
薬局の前を通りかかったとき、お母さんが浅田飴を買うと言い出しました。いつもなら軽く聞き流してしまいますが、言う通りに買うと、「風邪引かないように」と言って私に浅田飴をくれました。
こんなに最低な私のことを心配してくれるなんて、お母さんの優しさが苦しくて、後悔と悲しさと、お母さんがおかしくなってしまったことをどう処理すればいいのか分からない気持ちがごちゃ混ぜになって、お母さんの車椅子を押しながら号泣しました。
今考えるとこの日を境に、お母さんの認知症は急速に進んでいきました。
でも、この頃の私はまだ認知症と認められずにいました。
お母さんはまだ58歳、私は28歳でした。
○2015年7月、とうとう、本気でどうにかしなければならないと自覚しました。
まず先に、訳あって10年以上異動させていなかったお母さんの住民票を静岡から埼玉に移しました。介護認定を受けるためです。
○2015年8月下旬、お母さんが要介護3と認定されました。
○2015年9月、MR検査などの結果、血管性認知症と診断されました。
○2015年9月から、介護サービスのデイサービスを始めました。
○2015年12月現在、月に2、3回のデイサービスを拒否されて困っています。
なんだか後半が雑な感じになってしまいました
私は親戚とも20年近く会っていないので、頼れる人がいないのです。結果、一人でお母さんの介護をしている状態です。
つくづく思いますが、働きながら介護をするのは、気持ちの余裕がなんにもなくなってしまうということです。
お母さんはリウマチで脚が痛かったけど、この頃はまだ誰かが支えていれば、びっこひきながらでも歩けたんだよなぁ・・・
○リウマチの治療をすすめても「病院は嫌だ」の一点張り
もっとすすめて病院に行かせればよかった。
○2013年4月、姉が手紙と鍵をポストに入れて突然家出
この時私はポストの前で手紙を読み、一人で「ドラマか?!」と突っ込んだ
○2013年4月以降、リウマチがひどくなり、ベッドで過ごすことがほとんどになる。
この頃からお母さんはトイレに行けなくなり、私が仕事から帰るとベッドで失禁していることが増えた。
辛く当たってしまうことが何度もあった。お母さん、ごめんね
○2013年11月下旬、お母さんが「気持ち悪いから救急車呼んで」と言うため救急車を呼び、そのまま入院。
○2013年12月下旬お母さん退院。
完全に車椅子生活になってしまいました。
おむつの、使用も始めました。
この頃は、仕事が忙しくて、家を7時に出て22時に帰宅、お母さんと1日何も話さないこともありました。仕事から帰って仮にお母さんが起きていても、うっとうしく感じてしまって自分の部屋にこもったり。お母さんにご飯を出して、自分は自分の部屋でたべたり。
寂しい思いをさせてしまっていました。
お母さんは家出したお姉ちゃんの名前を呼んだりして、一人で泣いている時がありましたが、私は、自分の身に起きている現実が何がなんだか分からなくて、整理できなくて、泣いているお母さんを見てみぬふりをしました。
色々と試行錯誤しながらお母さんの介護を自己流でやっていました。
病院は、母が行きたくないと言い張るため、行くのをやめてしまっていました。
○2015年2月、仕事から帰るとお母さんがおむつを外してベッドに失禁していました。疲れていたこともあり、お母さんにきついことを言って、とりあえずシーツとパジャマをかえて、臭いって言って、寒いのに、窓を開けて換気しました。
イライラがピークに達していました。
窓を開けたまま、私は自分の部屋にこもりました。
気持ちが落ち着いてお母さんのところにいくと、お母さんは寒い中で泣いていました。
心から自分は最低だと思いました。
私も泣きました。
お母さんが急に、「おばあちゃんに贈り物する」と、言い出しました。
おばあちゃんとはもう17年も会っていないので、明らかにおかしくなっていました。本気でヤバイと思いました。
平日の夜遅くでしたが、この時はお母さんの希望の通りにお母さんを車椅子で外に連れていきました。
まだイルミネーションがついていました。
薬局の前を通りかかったとき、お母さんが浅田飴を買うと言い出しました。いつもなら軽く聞き流してしまいますが、言う通りに買うと、「風邪引かないように」と言って私に浅田飴をくれました。
こんなに最低な私のことを心配してくれるなんて、お母さんの優しさが苦しくて、後悔と悲しさと、お母さんがおかしくなってしまったことをどう処理すればいいのか分からない気持ちがごちゃ混ぜになって、お母さんの車椅子を押しながら号泣しました。
今考えるとこの日を境に、お母さんの認知症は急速に進んでいきました。
でも、この頃の私はまだ認知症と認められずにいました。
お母さんはまだ58歳、私は28歳でした。
○2015年7月、とうとう、本気でどうにかしなければならないと自覚しました。
まず先に、訳あって10年以上異動させていなかったお母さんの住民票を静岡から埼玉に移しました。介護認定を受けるためです。
○2015年8月下旬、お母さんが要介護3と認定されました。
○2015年9月、MR検査などの結果、血管性認知症と診断されました。
○2015年9月から、介護サービスのデイサービスを始めました。
○2015年12月現在、月に2、3回のデイサービスを拒否されて困っています。
なんだか後半が雑な感じになってしまいました
私は親戚とも20年近く会っていないので、頼れる人がいないのです。結果、一人でお母さんの介護をしている状態です。
つくづく思いますが、働きながら介護をするのは、気持ちの余裕がなんにもなくなってしまうということです。
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