R68年オフ

 

ロケッツは2年目にしてスーパースターをゲットします。
 

【エクスパンション・ドラフト】

 

このオフはサンズ&バックスが誕生。

ジョン・マグロックリン、デイブ・ギャンビー、ジョン・バーンヒルを失いました。

 

この中でマグロックリンは来季、バックスで活躍し、オールスターに初出場。

のちに永久欠番にまでなります。

 

【ドラフト①~スーパースター~】

 

昨シーズン、ウェスタン・ディビジョンの最下位だったロケッツは、イースタン・ディビジョンの最下位だったブレッツとのコイントスに勝ち、ドラフト1巡目第1位指名権をゲット。

そして、エルビン・ヘイズを指名しました。

 

6フィート9インチ・235ポンドのCでヒューストン大出身(ABAのヒューストン・マーベリックスからも指名されています)。

攻守に強力なビッグマンで、カレッジ時代の通算は平均31.0点・17.2リバウンド。

NCAAトーナメントの通算リバウンド数、歴代一位という記録も持っています。

 

ヒューストン大では、最初のアフリカ系アメリカ人プレイヤーのひとり(バスケではドン・チェイニーも)。

ヘイズ曰く、同大に入るまで、白人のコーチや教師はおらず、白人と試合をしたこともなかったんだそう。

HCのガイ・ルイスについては ”リスペクトを持って自分に接してくれた初めての白人” としています(自宅に招待したりしてくれたとか)。

 

ヘイズはのちに武器となるターンアラウンド・ジャンパーをここで磨きました。

”ビッグE”という愛称が付いたのもカレッジ時代。これはヒューストン・ポストのライターが名付け親で、エンタープライズという海軍の航空母艦に因んでいるそうです(これも”ビッグE”と呼ばれる)。

 

カレッジ時代のハイライトは、4年次のシーズン中、68年1月20日に行われたUCLA戦。

16勝0敗だったヒューストン大は、シーズンを跨いで47連勝中のUCLAを71対69で破ったんですね。

 

ヘイズは39点&15リバウンドをあげ、一方のルー・アルシンダーは15点&12リバウンド(目を怪我していましたが)。

残り30秒を切って69対69と同点の場面で、ヘイズがターンアラウンドを打とうしてファウルされるんですが、ここでヘイズは苦手なFTを2本ともヒット。

これが決勝点となりました(FT成功率60%ほど)。

 

これは、初めて全米中継されたNCAAのレギュラーシーズンの試合で、”Game of the century”と呼ばれます。

ヒューストンのアストロドームで、5万人以上のファンの前で行われました。

試合前にヘイズがジャバーを馬鹿にするなど、話題になる要素が多かったようです。

 

因みにその後、NCAAトーナメントのセミファイナルで両チームが対峙したときには、逆にヘイズが10点に抑えられ、ヒューストン大は69対101で大敗しています。

 

【ドラフト②】

 

2巡目第15位でジョン・トラップ、3巡目第23位でスチュ・ランツ、4巡目第37位でハリー・バーンズ、7巡目第79位でリック・アデルマンを指名。

 

トラップは6フィート7インチのF。

ニックネームは”ジョンQ”で、ジョンQ.トラップとも呼ばれます。

ヴォーヒーズ・カレッジ、パサデナCC(コミュニティ・カレッジ)、UNLVで1年ずつプレイしました。

 

パサデナCCでは、チームは州のチャンピオンになり、トラップは2種のMVPを受賞。

このときのHCはジェリー・ターカニアンでした。

UNLVでは平均21点&11.4リバウンドをマーク。

ヘイズは、”カレッジ時代に対戦した中で最もタフだった相手”にトラップの名前を挙げています。

 

ランツはネブラスカ大出身のG(6フィート3インチ)。

3年次と4年次には得点とリバウンドでチームをリードしました。

学生時代に結婚しており、ロケッツ入りを機にサンディエゴで生活をスタートします。

 

バーンズはノースイースタン大出身のスウィングマン。

バーンズの在学当時、同大はディビジョンⅡだったんですが、そこでは好成績をマーク。

二度、ディビジョンⅡのトーナメントに進んでいます。

 

身長は6フィート3インチでしたが跳躍力があったようで、ジャンプショットの他、ビッグマンの上から押し込むティップインも得意だったとか。

メキシコ・オリンピックのトライアルにも招待されています。

 

アデルマンはロヨラ・メリーマウント大出身のPG。

4年次には平均21.0点をマークしています。

 

【6月半ば】

 

初代エグゼクティブが誕生。ピート・ニューエルが就任しました。

 

この人はバスケットボール・キャンプなどでの指導が有名で、のちに”貢献者”として殿堂入りするんですが、このときはまだカレッジでのお仕事を終えたばかり。

 

46年から60年までサンフランシスコ大、ミシガン大、カリフォルニア大バークレー校のHCを務めており、59年にはサンフランシスコ大でNCAAチャンピオンに。

60年にはローマ・オリンピックの男子代表チームのコーチも務めました。

(※このときのチームはジェリー・ウェスト、オスカー・ロバートソンらを擁した圧倒的なチームで、2010年にチームとして殿堂入りします)

 

ストレスのため、医師の勧めでコーチは60年に辞めますが、そこからこの年まで、サンフランシスコ大でアスレチック・ディレクターとして働いていました。

 

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※メキシコシティ・オリンピックは68年10月に開催されます。

 

この大会においては、アメリカにおけるアフリカ系アメリカ人への扱いに対する抗議として、ルー・アルシンダーが参加を拒否。

その他にも複数のNCAAスターが不参加を表明し、ヘイズもそのひとりでした。

 

この年、68年の4月にキング牧師が殺害されており、それを受けてアフリカ系アメリカ人のアスリートたちが大会のボイコットを検討するも国際的に批判されて…といったことがあったそうです。

ジャバーやヘイズたちのバスケ選手たちの行動を4月の事件と結びつけた記事は見つからなかったんですが、影響はあるかと思います。