根岸競馬場
明治天皇も、たびたびお楽しみに…


慶応2年・根岸村に日本初の「近代競馬場」誕生。
文久元年(1862年)、横浜新田堤(現在の山下町あたり)に外国人が競馬場をつくり競馬を開催していましたが、外国人が増えるにしたがって、居留民たちは幕府に乗馬や競馬ができる土地を提供してほしいと要望してきました。


当時は生麦事件など外国人殺傷事件が続いたため、幕府は警備のし
やすい外国人遊歩道内の根岸村に決めたといわれています。そこで、この競馬場の歩みについて『磯子の史話』などを基に綴ってみました。

工事は慶応元年(1865年)5月に始まり翌年9月ごろ完成、この突貫工事には根岸村や滝頭村などの人たちも働きに出たといわれています。

その規模は、馬場の外周972間3尺5寸(約1770m)・幅16間(約29m)、ほかに馬見所も造られ、スタンドの中央は1等、左端は2等と分かれ、現代の競馬場に匹敵する規模の日本最初の近代競馬場でした。


慶応3年春に、ここで初回の競馬が開催されましたが、入場者はほとんど居留外国人で、根岸村の人たちは柵の外から見物していたといわれています。

明治6年(1873年)に、明治天皇が西郷隆盛をお供に初めて根岸競馬
場にお出でになり、その後明治14年から32年までの間に13回観戦に訪れられています。天皇は競馬がお好きだったといわれていますが、

当時の競馬場は内外の高官や実力者が集まる一大社交場でもあったので、天皇は外国の人たちと親交を深め、後進国というイメージを払拭し、条約改定などの懸案を早くしようという意図もあったといわれています。


明治8年に日本人の馬主が登場。西郷隆盛の弟、従道で、「ミカン」という馬で出走、日本人として初優勝しています。明治17年に、日本競馬倶楽部が組織され、外国人と一緒に普通の日本人も競馬を楽しむことができるようになりました。


その後、年々競馬ファンが増え昭和9年の春季競馬では入場者が10万人を突破しましたが、太平洋戦争のさなか昭和17年を最後に競馬場の幕を閉じ、海軍に徴用されました。戦後はアメリカ軍に接収されゴルフ場になりましたが、昭和44年に返還され、同52年に「横浜市根岸森林公園」として開園、また同時に隣接して馬の博物館などが整備された「競馬記念公苑」も設けられました。

いま公園は市民の憩いの場として皆様から親しまれていますが、私も子供のころ仲間と凧揚げなどをした楽しい思い出があります。