人生いろいろ

人生いろいろ

自分の過去を冒険して文字に残したいと思いつき、ここに記します。ネタがないときには過去~現在~未来と自由に行き来します。

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あ〜、ついに出てしまう、野外一体型仮想実相空間でのゲームが・・・そうポケモンGOである。すでに海外では先行配信されていて、爆発的なヒットの兆しを見せているらしい。任天堂の株価も一気に持ち直し、高値続きである。

もともと、任天堂のゲームコンセプトは、室内にこもって一人で黙々とするのではなく、複数の友人が集まって同時に遊べる、ゲームは孤独ではないという考え方があった。そのコンセプトに従って、ハードもソフトも進化していき、現実でも学生が集まってわいわい言いながら、アルコールも手伝って興奮したものだった。しかし、これは、あくまでも、閉じられた仮想空間の中だけでの世界で、今回のソフトとは根本的に遊び方が違う。

いわば、ランニングソフトに組み込まれた屋外探検ゲームなのだ。最近の発達した人工衛星からの精度良いGPS位置情報を利用し、マップ上にポケモンを配置しておき、バトルして勝利すればゲットできる。テレビアニメと同じような経験ができる。どこにポケモンがいるのかは、様々な情報を得て推測するのだろう。スマホ画面から情報を得るので、ながらスマホ前提のゲームなのだ。

これまで、政府や業界などが口すっぱく注意喚起してきた「ながらスマホ」。本当にこのようなゲームは、日本で成立するのか?都市部の密集地でスマホを片手に、ポケモン探しにうろうろする光景は、当人たちには楽しいかもしれないが、周囲の人が被る被害は様々な形で現れるだろう。もちろん、当人たちが最も危ないと思うが。

何か重大事故が起こってから、初めて規制をかけて行こうとする従前の対応では、間に合わないかもしれないと危惧する。おそらく遊ぶエリアが限定され、都市部では難しいと思う。そうなると、ゲームの面白さが半減し、それほど爆発的なブームにはならないと考える。


任天堂さんの危機管理意識とすでに米で爆発的ヒットで市場にも大きな影響を与えており、膨大な利益の見込みを目の前にして、どう判断するのか、注目する。
音と聞いて、みなさん何を思い起こす?
それはもう生活の一部という若者、自然な中では様々な音が聞こえてくる。友達同士での井戸端会議、じゃれ合う子供同士の歓声、赤ん坊の泣き声、通学電車内での雑談、飲み会でのおっさんの会話、様々なシーンでその音量やトーンが違う。

妹と話していると興味深いことをよく聞く。
最近の小学校では、ビオトープという自然に近い沼地を校庭の隅っこに作って、ここで自然発生的に生まれくる生物、なかには幼虫を入れる場合もあろうが、水生昆虫や植物、両生類などの生物をできるだけ自然に近い状態で生育させ、自然とのふれあいが少なく、知識のない子供たちの教育の一環としている。

ある晩にその電話が小学校に鳴り響いた。
「小学校の横に住んどるもんやが、カエルの鳴き声がうるさくて、眠れへんのや!なんとかしてくれ!」
ちょうどビオトープには一匹のカエルが生育しており、元気なその鳴き声で子供たちは、カエルの鳴き声というのは、こんなものなんだと学習しているのだろう。昼間は暗騒音で気にならないこの声が眠る段になると気になって眠れないようす。教頭が出てなぜか平謝りで、一時的にカゴに入れて遠いところへ移動しやようだ。驚きべきはその電話をとった若い先生は、直ちにそのかえるを駆除しようと考えたということだった。呆れ返った妹は、こいつは問題の本質がなんもわかっとらんと憤慨しまくりだった。

虫と人間、共存しあって今日まで生きてきた。でも、この昆虫に対する偏見がこの頃垣間見られるのは非常に残念なことだ。春になればちょうちょ取り、夏はセミ捕り、秋はトンボと、あの手この手を考えて虫かごにいっぱいのコン虫を集めて、手でのつかみ方、その形態、鳴き声を観察した。最後は、逃がしてあげて夕方お腹減ったーと家に帰るのが日課だった。
しかし、こんな虫とり経験も今の子供世代では少ない、それよりもその親さえもが知らないのではないだろうか。

小学館の学習ノートを長年飾ってきた昆虫シリーズが姿を消した。人気のカブトムシやクワガタもなくなる。蝶々や蛾、カミキリムシなど見慣れない昆虫のリアルな写真が表紙にあると、気分が悪くなるという。常日頃から慣れ親しんでない異物が、子供のノートの表紙だなんて、という抵抗感が生まれてしまった。科学が発達して高倍率のマクロ写真がとれるので、精細な昆虫リアルな映像に引いてしまうのかもしれない。そもそも、親の世代からはもっと他のテーマの表紙がないのかという注文があってもおかしくはない。

でも、いざ遊びに行くと山でも海でも生き物はうようよいる。これらがいるから、山も海もいかず、ひたすら都市部の雑草の少ない公園で遊ぶか、外遊びはせずに家でTVゲームに講ずるか、子供時代の環境の選択が重要と言える。都市部での高層マンションで育ったこどもは、虫の知識のかけらもないだろう。田舎の山林で育つ子供とは全く違った考え方になる。これが、この後にどうその子の人生を変えていくのか、少なくとも、人工物で生まれ育ったこどもの心のどこかに、何かが影響する気がしてならない。そのためにも、親たちは子供と自然を強制的にでも近づける努力を今後続けていくことが、非常に大切に思われる。
産経新聞の特集記事が今連載されている。「脅威か希望か AI新時代」
昨年来、政府が新たな成長戦略として、生産性向上を前面に出して競争力を深化させる段階にきていると声高に掲げている。各企業メーカーはこの戦略に従い、特に強力に人工知能AIの開発実用化に取り組んでおり、先陣を切っている米国に追いつけ追い越せと躍起になっている。

特集記事では、人工知能AIの時代の到来を知らせている。すでに米国では各企業が導入して成果を上げている。日本でも従来からある製造業で導入している単純作業の機械化ロボットではなく、機械が自ら膨大なデータから学習して最適な解を導く深層学習によって、自らが判断する段階にきているという。

人間が自ら考える領域がどんどん機械に侵食されていく脅威を感じる。過去の膨大なデータを分析抽出するのは、コンピュータの得意分野であることは否めない。人間の能力では数量的時間的にに限界がある。しかし、そこから機械自身が深層学習(Deep learning)をして、判断していくのが、この人工知能AIの特徴なのだ。人間が判断するのではなく、機械が答えを導き出す。人間の役割はその答えが妥当かどうか見極める高度な応用力がいるという。

人間て本来は横着な動物。何でも楽をしたがる、便利を求める、深く考えるのを拒む。人工知能AIが導き出した答えを本当にチェックできるのか疑問だ。機械が出した答えはあくまでも、過去の膨大な既往データからのものであり、今直面している問題が、果たしてそこから判断できるのか、まさに人間が人間をみる能力が重要と思う。特に教育や医療の分野では課題が大きい。IT技術の劇的な進歩に伴い、人間同士の関係が希薄になってきた現代に、本当にこの人工知能が有効なのだろうか。使い方を誤れば、本当に大変なことが起きる気がしてならない。

日本が米国に遅れをとるのは、まさに考え方の違いからであり、日本人は欧米人のような合理的な⚪︎か×か、0か1かといった考えではなく、曖昧模糊な考え方であるからだと思う。従来、これは優柔不断とか判断が遅いとか責任分散などと悪評高いが、こと人工知能AIの世界では、逆に機械に負けない人間らしさを発揮できると思う。だから、日本は欧米に追いつく必要はなく、独自で人工知能を深化させ、人間臭いAIを目指して欲しいというのが、私の本音だ。
入院前の祈願巡りも最後になった。5月31日は天候も良く標高の高い山でもいい天気だった。
高野山ケーブル駅をあとにして、大門行きの南海りんかんバスに乗り込んだ。乗客は僕以外は若い女性一人だけで、予想通りだった。ほとんどが奥の院前行きに乗る。最近は寺院仏閣の仏像に興味を持つ女性、いわゆる仏女がブームと聞く。一眼レフの望遠レンズを備えたカメラを片手に京都奈良の寺社を回る。御朱印帳に集印するのもよく見る。歴女と合わせて歴史に興味を持つ女性が増えているのは、間違いない。非常にいいことだ。

1705年に再建された大門は、間口5間3戸総2階建てで、両サイドには仁王様が睨みをきかせている。東大寺に次ぐ日本第2位の大きさだという。門に入る前にふと前の道路の対面にある看板に目がいった。高野山町石道とある。読んでみると、ここからはるばる九度山の慈尊院というお寺までは石道が整備されていて、ハイキングコースになっている。しかし総距離22km、高低差400m、健脚で約6時間かかる道のりだ。あとで聞くと九度山の慈尊院はかつての空海の母君がおられて、高野山で修行中の空海は、月に9度もこの道を通って母君に会いに行かれていた。このことから九度山という地名になったという。しかし、この急坂の往復を月のうち9度も登り下りするとは、弘法大師様も相当な健脚なのであろう。おそれいった。

さあ、大門から奥の院弘法大師祖廟まで約5kmは、歩くことにした。途中で念願の中門も見ることができる。金剛峯寺は以前に行ったので今回はスルーする。12時前だが食事をしようと、目をつけていたつくも食堂の釜飯にありつこうと行くと、団体客で満員で涙を飲む。そこで以前にお土産を買った角濱ごまどうふ店の途中にあった蕎麦屋に行くも、営業しておらず、またまた落ち込む。仕方なく、東へ足を進めて中門に着いた。以前来た時は、礎石跡があっただけが、それに隣接して見事な中門が再建されていた。

柱間5つ戸口3つ、5間3戸の総檜皮葺の鎌倉時代の姿を推定して再建され、高野山の檜が約1,500本使われたようで、約50人の専門職人が携わった。前に立つと朱塗り新たな堂々とした姿に荘厳な気分になる。自分も少しは関わった仕事なので、感慨深い。初めて四天王像が納められ、新しく制作された広目天と増長天にはセミとトンボのブローチがついているのには、驚いた。これにもちゃんとした意味がある。

名残惜しくも中門を後にして、さらに東へと足を運んだ。比較的平坦できれいに整備されたアスファルト道路と歩道なので、軽快に歩けた。道路の両側には多くの寺院があり、高野山全域には全部で120もの寺院が宗教都市を形成している。実際、観光客以外では住民よりもお坊さんの方が多いのではないだろうか。そこら中に袈裟をまとったお坊さんが歩く姿を見かけた。曲がり角に食堂があったので、時間も押してきたこともあり入ったら、外国人が半分以上いた。ちょうど相席でカナダからきた大学生と日本の学生と3人になった。お茶や水は自分で汲みに行く。カナダの学生はうろうろしていたので、
Tee is self Service!
と日本語英語を言うとどうやら通じたようで、器用にほうじ茶を入れていた。そのあとは、前の日本の学生が触発されたのか、立派な英語で会話して私は聞き役になった。他にも3組の外国人グループがいて、英語が飛び交う空間になった。田舎の食堂でこんな経験も珍しいなぁと思いつつ、よくある味の親子丼をかきこむと、店を後にした。

しばらく東へ歩くと一の橋にたどり着いた。ここは正式な奥の院の入口にあたる。もう一つの入り口である中の橋は、バスで行くと奥の院前の終点で降ろされるが、そこから入ると貴重な墓碑を見逃すことになる。一の橋は結界の入口だという。実際、そこから風景ががらりと変わり、巨大な杉の大木が林立する中に、無数の石塔が並んでいる。大木杉の緑の隙間から突き刺すような光を受けた巨大な石塔群が、長い年月を物語る。雨水をしっかりと蓄えた苔が石塔を覆い、異様に澄んだ空気に囲まれる。まさにここは現世の世界にある結界だと感じた。
通路は石畳で整備され参拝しやすい。参道の両脇には数え切れない墓碑が建っている。~~家の墓が多く、地方の有名武家なのだろう。戦国時代の大名の墓碑もほとんど見られた。一人の坊さんが前から歩いてきた。自分の中の汚れた心が見透かされたような気持になる。一つ一つの墓石にその時代を真剣に生きた人々の魂が込められているのかと思うと、身が清められる思いだ。約2km歩くと大師御廟の入口にかかる御廟橋に着く。ここから先は本当の聖域であり、写真撮影も不可である。大師御廟では神妙に病気平癒を祈願して、中の橋方向に戻ることにした。こちらのルートは、各企業の慰霊碑が多くある。杉の木からは外れていて、太陽の光がまともにあたり、汗が出るほどだった。

中の橋を渡ると広いバスロータリーになり、高野山駅行きのバスに乗り込んだ。帰りは接続がうまくいって、ケーブルで降りたらまもなく特急こうやに乗ることができた。四両編成で走行も快適だった。特急料金710円がかかるのは仕方ないか! 橋本で乗り換えることなく、最短で帰宅の途につけた。途中外国人の団体さんが反対方向の列車に乗っていた。これからの時間では、おそらく高野山の宿坊に泊まるのだろう。精進料理や仏教の雰囲気を存分に味わえることだろう。

全歩行距離は8km程度だったが、平坦な道が多く立寄りも多かったので、体力的には問題なかった。これで歩け歩けはしばらくおあずけで、入院しての本番の治療に向けて心を新たにすることにする。




高野山奥の院、1200年前に弘法大師によって開山された聖地であり、入り口である一の橋から最も奥にある弘法大師御廟に至るまでの約2kmの参道の両脇には、約20万基の墓碑があり、よく知っている戦国大名の名前もほとんど出てくる。

先日、擬似的にではあるが京都仁和寺の八十八ヶ所巡りをして、病気平癒を祈願してきた。そのあと、偶然に石井光太の蛍の森を読んだ。いろいろな思いが交錯して、やはり、総本山の高野山に祈りに行こうと思い立った。それと昨年4月に172年ぶりに再建された中門も見たかった。着工前に一度行ったことがあるが、中門跡地には礎石だけが現存していた。

あらかじめ買っていた高野山・九度山1dayチケット阪急版を持って、いざ出陣。真田九度山にも行きたかったが、一日で両方行くとなると、相当な強行軍となって、ゆっくりとしている時間がないので、九度山は今回は止めて、当初通り高野山奥の院に行き先を絞った。
天下茶屋駅で南海電鉄高野線に乗り換えて、和歌山方面へと向かった。急行で橋本駅に着くと、高野山方面行きの列車に乗り換える。ここから観光列車「天空」が出ていて、乗りたかったが、時間が合わずやむなく二両編成の普通列車に乗り込む。入口に頭が当たりそうな外国人が、大きなリュックを背負って観光ガイドブックを片手に何組も座っていた。その他は定年後の元気な登山姿の男性や、これまたかまびすしい女性3人組(決してかしましいではなく)ーーなぜか3人なんやなぁーー。それと、ツアーリズムの団体さんなどがいたが、若い男性はほとんどいない。若い女性グループは結構いた。

橋本駅を出発すると、車窓からはいきなり山々の新緑の密度が高くなる。カーブに差し掛かると脱線防止アングルに沿って、列車の車輪がレールに擦れる音が鳴り響いた。以前行った学文路(カムロと読む)駅から例の九度山駅に停車した。あたりは六文銭と真っ赤なのぼり旗だらけだ。名残り惜しいが通過した。高野下駅を過ぎると列車は、いきなり急勾配の上り坂を山の斜面に沿って左右に曲がりながら登っていく。さながら山岳鉄道ばりだ。スイッチバックするかもしれないほどの急勾配だ。何よりも驚いたのは、鉄道の線路の位置だ。窓から線路の脇を見ると、ほぼ垂直に見える崖が迫っていた。脱線したら数十m下まで落下して一貫の終わりだろう。線路と崖の法肩が1mくらいしかない!あー恐ろしやと肝を冷やしているのも私くらいか?他の乗客は、車窓から流れるように現れる新緑が混在する山々や、時折現れる田舎の集落などに見入っていた。そして最終の極楽橋駅に着いた。標高は539m、少し下界よりもひんやり感ずる。

ここからはケーブルに乗り換える。日本有数の急勾配ケーブルで、乗り込むのも急階段を登ってぜいぜい言いながら車内に入る。さっきの外国人夫妻も一緒だ。ニコンのカメラでしきりにシャッターを切っていた。これから行く高野山にワクワクしてとれた。私もだ。太さ50mmものワイヤーロープの引っ張り力で急斜面を登っていく。わずか5分の乗車だが見応えは大きい。高さで植物の植生が変わるのも分かった。最大傾斜29度(100mで57m上がる)の斜面を駆け上がる。途中、すれ違う場所では、その太いワイヤーが油にまみれて真っ黒になって、汗をかいて引っ張っている姿が見えた。あっという間に高野山駅へ到着した。標高867m、すでに悠久の聖地の澄んだ空気に変わっていた。

2015年にリニューアルした高野山駅では、バスの案内係が行き先と発車時刻を大声で案内していた。ここから女人堂停留所までは、なんと南海りんかいバスの専用道であり、一般車両はもちろん歩行者さえも通行禁止なのには驚いた。なるほど、歩くのは結構距離もあり高低差も大きい。歩く人はケーブルには乗らずに、極楽橋駅から石畳の不動坂ハイキングコースを登ることになるが、女人堂まで約1時間で着く。リピーターにはいいかもしれない。

ここでほとんどの人は、奥の院行きのバスに乗るが、奥の院に入ると2時間程度かかるので、昼のタイミングが合わない。そこで、まずは高野山の入口である大門行きのバス乗った。どんな寺院でやはり正式な門から入るのが筋だろう。

さて、長くなるのでひとまずここで。次はいよいよ結界の世界へ。


電車の座席に座っていた。駅について出入口の扉が開くと、トートバッグを肩にかけて高いハイヒールを履いたお洒落な女性が、前の座席に座った。と同時にバッグからスマホを取り出して、延々と画面とにらめっこ状態だ。横を見ても若い女性のほぼ8割以上はスマホを見ている。いや、女性に限らず若い世代はスマホをいじっている人が多い。今やありふれた光景かもしれないが、この光景を普通と感じるのは、現代社会なのかもしれない。

「ぼーっとできない」
今や、一人でいるときには、ほとんどの時間はスマホを触っている。食事の時も、テレビを見ていても。さらには、二人以上でいるときにも、それぞれがスマホを見ている。せっかくのデートでもレストランで料理が来るまでの時間に、会話するでもなくスマホを見ている。歩きながらも、自転車に乗りながらも見ている。電車の運転手さえも運転中に見ている。それほどまでに脳を支配してしまったスマホは、もう自分の内臓であるという歌さえある。

ぼーっとする時間は、現代の若者にはないのかもしれない。何も考えずにぼーっとする。この時間に何かとてつもない「ひらめき」が生まれることがある。私も、過去に何か問題にぶつかって解決策が見出だせない時に、このぼーっとしている時に、「あっそうか!」とヒントがひらめくことがあった。何も考えていないようで、脳は何か解決策はないか働いているのだろうか。突然前が開けることがあるのは事実だ。

だが、このぼーっとできない人は、常にスマホの画面に脳が動かされ、他のことをしようとしてもできないのではないか?何か壁にぶつかると、どうしたらいいか思い悩む前に、スマホで検索して類似したそれらしい答えを見つけて、解決したように思っていないか? しばらく考えて脳を働かせ、ヒントを見いだすことが私は重要だと感じる。自分の経験や知識からヒントを見出せるほど、まだ長く生きていないというかもしれないが、脳をそのように訓練させることが大切と感じる。

昔の家なら縁側に座って、お茶でも飲みながらぼーっとできる。でも 縁側でなくともベッドで横になって、あるいは、ソファーに寝転んで、何もせずにぼーっとする時間を持つことは今の時代には必要かもしれない。
4年に一度五輪が開催されるのが閏年で、本年がこれに当たる。この年に、四国八十八カ所の霊場を巡るお遍路の御利益は、通常の3倍の御利益があるとのこと。ただし、通常は1番札所から回る「順打ち」ではなく、逆に88番札所から1番へ巡る「逆打ち」で回ることが条件である。しかも、今年は丙申という60年に一度の年で、逆打ちで弘法大師に巡り合えたという話が残っており、貴重な年なのである。そのために、各旅行会社かのは、逆打ちのお遍路の企画が目白押しだという。

ところで、「順打ち」はじゅんうち、「逆打ち」はぎゃくうちと読み、意味は前述の通りである。
面白いことに、建築の地下工事の進め方にも、「順打ち」と「逆打ち」がある。しかし、読み方が違う。後者の読み方は”さかうち”と読む。地下工事は通常、はじめに底まで土を掘って空間にしてから、構造物を下から上に順番に作っていく。これを「順打ち」という。そのため、地下の構造物が完了しないと、地上の工事に移れない。
ところが、地下の土を底まで全て掘る前に、順に上から1階分ずつ土を掘って、構造物を作り、また、その下を掘って、構造物を作る、要は地下の構造物を上から下に作っていく方法が「逆打ち」である。地下を全て作る前に地上の工事にかかれるので、工期が短くなるのが最大のメリットだ。

実際に四国八十八カ所を巡るには、相応の時間が必要であり、よほどの事情がない限りは実行は難しい。しかし、擬似的に一つの場所に四国八十八カ所の札所のお砂を埋めて、巡礼することで実際に回るのと同じご利益が期待できる。お砂踏みと称して、東寺をはじめ様々な寺院で定期的に開催されている。

連休最後の日曜日に、京都仁和寺の裏山にある八十八カ所ウォークに行った。仁和寺の裏山となる御室八十八ヶ所霊場の札所でスタンプを押しながら巡拝する行事が、月に一回ある。スタンプラリーをしなければ、いつでも、裏山にある札所を巡ることができる。なんと、この施設群は仁和寺の僧侶が190年ほど前から作ったとのことで、歴史がある。裏山の高低差約200m、総距離3kmの山道沿いに、88か所のお堂が建っており、順番に参拝しながら巡るのである。

当日は、通常順打ちでいくのを、逆打ちで回ることにした。裏山の参拝道は枯葉に覆われて滑りやすく、急坂も結構多い。木々の新緑で太陽の光が遮られ、ひんやりとした空気を感じた。野鳥たちの鳴き声がしきりに響き、自然石を積んだ階段を息を切らして登って行った。お堂が目の前に見えると、納められた観音様や如来様に手を合わせて、祈念した。特に薬師如来様のお堂では、病が消え去るようにお願いした。

登りでは相当傾斜がきつく、体力が低下した身体を鞭打った。ゼイゼイ息をして登っては、休憩しながら、成就山山頂に着くと、京都市内が一望できる広場に出た。あ~見晴らしのいいこと、疲れも一掃できる。しばらく、眺めに満喫してから、下山の一途をたどった。八十八カ所のお堂を逆打ちで回り、最後の1番札所に到着した時、弘法大師の偶像に手を合わせて、無事88個のスタンプが押せた。約3時間半かかって回り、お昼もだいぶ過ぎてしまった。

ガクガクした足に鞭打って、完了したスタンプ帳を持って、スタート時点の受付に持っていくと、終了の印をもらって無事終わった。想像以上に体力的にはきつく、一人では挫折したかもしれない。奥方と一緒で助かった。徒歩9km、12,000歩だった。御利益があることを願って、また歩こう。

 体力回復のための歩き、この前の日曜日は奈良県初瀬を歩いた。

 五月の牡丹の花がそろそろ咲き頃で、何よりも階段が非常に長いことが記憶に残っていた。以前に訪れたのはもう大分昔のことだ。それと本堂に見事に納められた、大きな長谷型観音像も、迫力でご利益に預かりたいと願う。

 

 GW期間のため、近鉄も急行列車を長谷寺駅に停車するサービスだった。こじんまりした駅を降り立つと、すぐに階段を降りる。眼下に流れる初瀬川の橋を渡るまでは、階段と斜面を延々と下りていく。これは、帰りが辛いなぁと思いながら、他の観光客と群れになってゆっくりとひたすら降りる。橋を渡ると、右に折れて長谷寺への参道が開けた。

 

 参道の両脇には町屋が並び、名物の草餅やわらび餅の店や食堂や旅館などが賑わっている。特に草餅は鉄板で焼いた餅が美味しく、つい食べ歩きしてしまう。地元の野菜や乾物の店も多く、これは帰りに寄ってみよう。町屋の前にはボタンの花を鉢植えした区画があり、藁の屋根で日光を避け、その中に見事なボタンが咲いていて、目があちこちに忙しかった。

 

 途中天満神社入り口で左折し、少し行くと総本山長谷寺の石碑があり正面に修復中の仁王門が見えた。門を潜ると記憶にあった登廊が続いた。先が見えないほど長い階段だが、蹴上は10cm程度と低いので、それほどきつい勾配ではない。途中で宝物館に立ち寄り、また階段を息はずませて登った。登廊の両側にはボタンの花が賑わっていて、しんどさを和らげてくれる。様々な色があり、珍しい薄緑の花も見えた。途中から階段の蹴上が倍くらいになって少し休憩しながら登って行くと、本堂の手前の鐘堂の真下にゼイゼイ言いながら到着した。

すぐに本堂内に納められた十一面観音菩薩様の足元へ直接行ける、特別拝観の列に並んだ。狭い堂内の通路を抜けると眼前に、その全体のお姿が入りきらないほどの壮大な立像の足元にたどり着いた。そのおみ足を撫でながらお願いする。高さが10mを超えるその立像を納めるために、本堂の高さは通常の概念を超えた容積率だ。

 

 内陣から外に出て本堂内部にも大きな空間が広がっている。所々を飾る欄間や蛙股の木彫りには目をみはる精緻さを感じた。清水と同じく谷側には見事な外舞台があり、新緑の若葉を交えた山肌を遠くに眺め、新鮮な空気を思い切り吸い込んだ。

 

 ここから川面まではひたすら下りだ。階段と斜面を膝に負担がかからないように、慎重に下っていく。ボタン以外にも多くの花が咲いていて、目を和ませた。大手毬の一群の白色は斜面にふんわりするアクセントになっていた。さて、橋を渡ると今度は駅まで、延々と登り坂だ。覚悟してゆっくりと上がる。案の定、しばらくすると息が上がってきて、休憩タイムとなった。何度か休憩しながらなんとか無事駅前にたどり着いた。

 

 今回も約7kmの歩きだったが、上り下りがあったので実際はそれ以上の負荷だった。体力は少しは回復してきたかなぁ。

「最近の若いもんは・・・」
この出だしで話が始まると、「あ~また年寄りの若者批判が始まったか」と聞く耳を持たない世代は多いだろう。若い世代からすれば、「そう言うお前も昔は同じやったんと違うんか?」と言いたいだろう。確かにそうかもしれない。しかし、よくよく考えると、年齢は確かにそうだが、周りを取り囲む環境が全く違っていることは、人の考え方に大きく影響を及ぼしていることは相違ない。

 いわゆる常識と考えていることが、通じないということがままある。
 社会人になってから、いろいろな時間の制約を受ける。特に様々な会議があり、何時何分からどこで会議があると事前にメール連絡か、口頭指示がある。こんな時は、いかなる理由があるにせよ、会議前の5分前には部屋に入って会議の準備をするのが通常だろう。ところが、平気でこの会議に遅刻してくる。悪びれもせずに。あとで叱咤すると、自己的な言い訳をして、仕方がなかったと自分を正当化する。

 また、会社が周到に準備して実施する研修期間に、平気で休む。金曜日か月曜に休んで三連休でどこかに遊びに行くのだろう。本人にとっては、貴重な研修期間でありそのために講師が資料を作成し、時間を割いて情報を提供してくれるその時間を、平気で遊びのために休んでしまう。
「お前な~、研修の時は休まんようにしろよ」
というと、
「あ、事前にメール連絡しておけばいいですか?直属の上司には口頭で言っていましたが」
うーん、そこかーい? 耳を疑いたくなる発言に唖然とした。さらに突っ込もうとすると、研修期間中に年休を取得してはならないという社内規定があるのか?と正論を言う勢いなので、それ以上言う気力が失せた。

 「この書類に目を通して、最後の手続きの紙に記入して持ってきてくれ」
後日持ってきた書類に目を通そうとすると、なんと、鉛筆で記入されている。
「お前なぁ、こういう書類は消せないボールペンで書くのが当たり前や。書き直しや」
「えっ、そうならそうと、事前に言ってくれればいいのに」
(ハァ~?そこまで言わないとわからんのか?お前には常識が通じないのか?)と心の中で情けなく感じた。

 「こういう時は、事前にこう言っておく方がいいで」
ミスした後で二度と失敗しないように釘を刺したつもりだった。しかし、また同じミスが起こった。
「この前に言ったことをしていなかったのか?」
「すぐ、します」
はぁ?同じミスを2回しないとお前は実行しないのか?1回目は馬耳東風か?問いただすと、もう同じミスは起こらないと思ったなどと言い訳をして、自分を正当化する。

 共通して言えることは、上司に自分の過ちを素直に認めようとしないことだ。指摘されると自分を正当化しようと、言い訳を考え、ときには正論をかます。理屈に長けているので、相手のツッコミができないように屁理屈を考えて、自分の過ちをごまかそうとする。
 なぜこのような思考回路になるのだろうか。なぜ、ごめんなさいが言えないのか。これも取り巻く環境の変化がそうさせた一端かもしれない。親が子供を叱らない、少子化の時代でちやほやされて育ってきた。中国でいう小皇帝である。また、携帯やゲームなど自分で操れる世界に慣れていて、他人からとやかく言われることが昔に比べれば圧倒的に少ない。他人から非難された経験が少ないから、いざ、厳しい社会に出た時にその反動を受けて、自分の非を認めたくない気持ちが生まれる。ほんの一部かもしれないが、このような傾向があることは否定できないのではないだろうか。だとしても、社会に出てから洗礼を素直に受けて、自分を修正していこうとする気持ちになれば幸いだが。そうならない場合は、本人も苦労するだろう。
 毎週土日のどちらかは、歩け歩けの日。
 土曜日は何十年ぶりかで、宇治の平等院鳳凰堂に出かけた。4月から5月の時期は色々な花が楽しめる季節で、今回は藤の花を見るためもあった。宇治の抹茶が外国人観光客に人気で、京阪宇治駅を降りると案の定、多くの聞き慣れない言葉が耳に入ってきた。世界遺産人気も相まって、さすがに人出が多い。

 さて、駅からすぐ宇治橋をのんびりと渡り、やや流れの速い川面を見ながら平等院の表参道に入った。参道沿いには、宇治茶に関連する多くの店舗が軒を連らねる。老舗の宇治茶の店や茶団子などの和菓子店、人気の抹茶スイーツの店など、どこからも抹茶の香ばしい匂いが漂う。

 平等院の表門で拝観料を支払い中へ入ると、すぐに左手に藤棚が見えた。ほのかに淡い紫色の花を垂らした藤の花はほぼ満開に近く、可憐な感じがした。匂いはほとんどない。鈴なり状態で花をつける形態は、ゆきやなぎや小手毬など、あるいは高級花のらんなどがあって、どれも美しいフォルムを醸し出す。



 十円玉でお馴染みの鳳凰堂の側面が見え、周りの人たちが一斉にシャッターを切り始めた。藤の紫、ツツジの赤、新芽の緑と色あざやかな自然の中で、修復を終えた鳳凰堂が壮麗に佇んでいた。正面から見ると、格子窓の一角が丸くくりぬかれたところから、阿弥陀如来坐像のお顔が拝めた。予約した内部拝観の時刻までに、ぐるりと一周歩き、2001年竣工した鳳翔館に入った。現物の対の鳳凰が凛と向かい合い、平安当時の銅製の梵鐘がずっしりと鎮座していた。千年以上も前の鋳造や金属加工技術に驚愕しながらも、様々な楽器を弾く雲中の菩薩たちは楽しげだった。

 鳳凰堂の内部に入った。国宝の壁画を間近に大人数で入るので、壁面保護のための説明には念が入っていた。その壁画は千年以上の時間でほとんど判別できなくなっていたが、本尊の阿弥陀如来坐像の金箔はかなり残っていた。上部壁面にある雲中菩薩群は、一部鳳翔館に移設展示されているものの、それぞれが繊細な表情と楽器が彫刻されていた。
 
 世界遺産となっている宇治上神社を見てから、名物の茶そばで一服して、旧商店街をぶらついてから、JRで帰った。そう、後で知ったが、何気に行った宇治神社は、日本遺産に登録されているという。世界遺産の鳳凰堂や宇治上神社とは別に、日本遺産というものがあること自体、初めて知った。登録されたことを宇治神社の神主当人が知らされていないというのも、お粗末な話だ。役所の安易なネーミングに唖然とする。

 当日も約10kmの歩きだった。平坦な道が多かったせいか、息も上がらずに軽快な1日だった。