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教職を履修している私ですが、
同じく教職履修中の先輩の中のひとりに、
・どんなことがあっても自分が上
・常に自分の側に正義がある
・困ったときは、コネとカネがすべてを解決してくれる
・他の人は知能が著しく低くてカス
という感じの言いたい放題の人がいる。
もう、話し出したらとまらない。
反論しても、
きっとおまえがバカだから俺の言いたいことがわからないんだ、
たてつくつもり?
ってことになりそうだから、
誰一人として反論も反対もしない。
にこにこ話を聞いて、
そうですかぁ、それはすごいですねぇ、
って心にもないような適当な相づちを打っておく。
結局のところ、彼にとって本当の友達は存在せず、
注意する大人にも今まで出会ったことないのだろうなぁと、
話を聞き終えてあきれて疲れきったら
なんか哀れだなぁ、と思ってしまった。
常に自分の側に正義があるなんて嘘だ。
正義と悪なんて表裏一体じゃないか。
どんなに自分が正しいと思ったって、
誰かにとって悪になってることだってある。
だからこそ、自分を貫くことは
時に暴力的で難しいことなのかもしれないけれど。
だけど、いま、私はそういうことすべてを自覚した上で
自分を貫きたい。
先輩のような人と話しているときの自分の在り方も。
進路のことも、勉強も、
彼氏のことも、彼氏といるときの自分の在り方も。
人の悪口を言わず、澄んだ川のように透明で穏やかでありたい。
大変なことはいっぱいあるけど、
ぶれない自分をつくりたい。
そして、その自分が自分らしくないな、このままじゃだめだなって思ったら
その都度変えていく。
自分の心の声にも、ひとの声にも、
心を傾ける。
凛としていたい。孤高でありたい。
強くなりたい。
忙しかったり、余裕がなかったり、
ちゃんと考えてはいるんだけど
バタバタと送ってしまったメール。
ちょっとしたニュアンスや言い回しが雑になっていたかもしれない、
不快な気分にさせてないかな、
もっと別の表現はできなかったかな、
今だったらこういうふうに言えたかな…
とか見返すとすごく不安になる。
言葉なんて、自分の中にあるものはただの記号に過ぎない。
言葉が言葉として本当に意味を持って
生きたものとして動き出すのは
いつだって相手に届いてからなんだ。
私の送り出した記号が、
相手の心の中で優しく踊ってくれるように、
自分の記号を客観的に見て送り出したいなって思う。
そんなわけで、
自分でも(では)計り知れない影響力を持った存在である
自分自身が一番怖い今日この頃です。