東日本大震災被災者支援ボランティア第3陣 報告 | 堺市の交通まちづくりを考える会

東日本大震災被災者支援ボランティア第3陣 報告

 先般、皆さんのご支援、ご協力を賜り、無事に石巻から帰阪することができました。
 片道950㎞をレンタカーで19名が往復し、移動で2日+現地で3日間、水産加工工場での缶詰洗浄と漁港でのワカメの種付けに従事しました。
 被災後7ヶ月を経た今もなお、水道・ガス・電気が全く供給されないことに驚きと怒りを禁じ得ませんでした。地盤沈下により漁港や沿岸部は冠水します。
 3日目は郡山市に投宿し、生活協同組合あいコープふくしま理事長の佐藤さんはじめお母さん理事3名から原発被害を聞きました。底の見えない明日の地獄。疎開や避難が30万都市では不可能の中、怒りが渦巻いていました。
 今回、参加者のおひとりが以下のように報告を作成いただきましたのでご報告させていただきます。


「復興どころか復旧さえまだまだ終わっていない」

■ワカメ養殖の種付け

総勢19名。東日本大震災被災者支援ボランティア第3陣はマイクロバスで宮城県牡鹿半島へ出発。名神・北陸道・磐越道・東北道・三陸道から石巻市の突端まで約1000㎞、午前6時半堺出発で現地着は、夜もとっぷり暮れた午後10時。15時間半の行程。

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 翌日朝7時、宿を出発。リアス式海岸の牡鹿半島に続く小さな漁港と集落は、津波で壊滅的打撃を被ったまま、震災後7ヶ月も経て、復旧がようやく始まったばかりなのだ。復興などまだまだ先。一体、この国の政府は何のために存在しているのだろう。漁業などは捨て置け、なのか。これではまるで「棄民」ではないか。
 しかも牡鹿半島は、立地面では、市街地が壊滅的打撃を受けた石巻市中心部を通ってなお、車で1時間以上かかるため、被災者支援ボランティアが入っていなかった地区。
 我々が着いたのは荻浜(おぎのはま)。1.0~1.5㍍沈下した岸壁をかさ上げし、漁港の機能を少しずつ取り戻そうとしている最中。しかし何と、未だなお港には電気も水道も通じていない。
 多くの人命が失われ、転出していく人もいる中で、荻浜地区の人々は、主な生業としていた牡蠣養殖を今年はあきらめていたという。転機となったのは、9月9日の羽山媛神社でのお祭りに、それまでこの地区での瓦礫撤去に従事していた多くのボランティアが参加したこと。お祭りに合わせて神社やその周辺の清掃作業にも参加し、当日は御輿担ぎも。

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 このお祭りの取り組みの中で、地区の人々が、漁業再興を決意し、既に数週間遅れていた牡蠣の種付けが始まった。しかし、牡蠣の収穫が現金収入となるのは2~3年後。そこで、半年くらいで現金化できるワカメ養殖を始めることに。しかし漁民の方にとっても初めての体験。ボランティアとともに手探りで始めた。

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 我々19名が到着して取り組んだのが、このワカメ養殖の種付け。現地に数ヶ月前から入っているピースボート災害ボランティアの女性スタッフから、説明を受け、早速皆生まれて初めての作業に取りかかる。

■散乱した100万個の水産物缶詰。洗浄作業
 翌日は荒天のためワカメ養殖の海上への敷設ができないため、石巻市中心部に出向いて石巻漁港沿岸部の水産加工工場へ。この辺り一帯は津波の直撃を受け、街全体が壊滅したところだが、前回5月に来た頃に比べて瓦礫こそ撤去されてはいるものの、こ こも地盤かさ上げは手つかず。そのため、満潮になると海水がひたひたと押し寄せてくる。ほとんどの工場が更地や壊れた建屋のままに放置されている。復興の端緒にさえ着いていない。

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 株式会社木の屋石巻水産さんにおじゃました。こちらの在庫缶詰100万個が、津波で工場内外に散 乱したという。瓦礫やヘドロの中からボランティアの助けも借りて、70万個を回収。うち35万個が何とか食用に耐えられるもの。

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 ラベルも剥がれ、内容物を示す缶詰底の印刷が消えたものもあり、鯨大和煮、金華さば、まぐろの尾肉大和煮など内容不明の場合も。これまで道の駅やKスタ宮城など各地で、一個400円、三個1000円で販売しているとのこと。外は汚れていても、そこは缶詰。中身は食べられるのだから。
 我々も、まだ洗い終わっていない5万個の洗浄に、工場長の説明を受けて取りかかる。
 泥やさびをたわしでゴシゴシ。ここもピースボートが最初から関わっている。

■ピースボート災害ボランティアセンター
我々が現地での3日間お世話になったのが、社団法人ピースボート災害ボランティアセンター(PBV)。世界一周船上旅行を実施しているピースボートが母体となって、阪神淡路大震災でのボランティア活動の経験を元に、トルコ地震、スマトラ沖地震など世界各地での災害で活躍。
 専従スタッフは4人だが、30人近い長期の無給ボランティアが常駐スタッフとして、全国各地からの短期ボランティアを受け入れている。
 時々刻々変わっていく被災者のニーズを的確に捉えるとともに、それにふさわしい支援活動を、自治体、社会福祉協議会、自衛隊などと連携して確立し、短期ボランティアをそこにマッチングさせていく、いわゆるボランティア・コーディネートの活動だ。ほとんどが20歳代~30歳前後の若いメンバー。
 スタッフの上島安裕さんは29歳。石巻市にこれまで入った全国のボランティア20万人/日のうち5万人をピースボートが受け入れている。

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石巻市でのPBVの活動は多岐にわたる。個人一般ボランティアを受け入れる石巻市社会福祉協議会にもPBVから人を派遣すると同時に、石巻災害復興支援協議会の中核を担う。
初期は泥かき(マッドバスターズ)、支援物資の配送、炊き出し、入浴支援から始まり、避難所毛布にわくダニ退治(ダニバスターズ)、仮設住宅の網戸作り、仮設住宅への戸別訪問・安否確認を兼ねた週刊新聞配布、引きこもりを防ぐ仮設住宅周辺の菜園作り、漁業支援等々。
市内の縫製工場跡を借り受けて、ボランティアの宿舎を設けている。簡易畳を敷いて雑魚寝、シャワーと簡易トイレの生活。

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我々を荻浜で受け入れてくれた漁業支援チーム責任者の平部明日香さんは、4ヶ月石巻市に常駐している。宿舎と食事は提供されているとは言え、生活費は自分持ち。これまでの蓄えを取り崩しながら活動を続けている。彼女のようなメンバーが30人。毎夜、ミーティングを行って、ボランティアの配置を行っている。

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このようなコーディネートが行われていなかった時期は、混乱によってボランティアお断りの時期もあったという。「石巻モデル」とか「石巻の奇跡」とも言われる活動を支えているのが、彼ら若い力だ。収入源は募金と国際団体からの基金(およそ6千万円)。行政からは補助はないという。


■「この地に残って暮らす。暮らすしかない」そして「暮らしていける」(郡山市)
 4日目の作業は午前中で切り上げ、福島県郡山市へ移動。それぞれ4人・4人・2人のお子さんを育てている3人のお母さんの放射能汚染との闘いのお話しを伺った。
 いずれも、生活協同組合あいコープ福島の理事さんだ。理事長佐藤孝之さんは前回に引き続き参加して下さった。
 橋本拓子さんはしっかりと話される。「当初は不安とストレス。爆発当時、そのことを知らず、余震で子どもを家に残すこともできず、買い物にも給水にも連れて出て、あの時高濃度放射能に子どもをさらしてしまった、と泣き崩れるお母さんもいた。避難と言うが、仕事、住宅ローン、田畑、友達。この地に残って暮らすしかない。しかし皆で勉強し、これまでの数々の事故を隠してきた東電の背景を見て立ち上がる力が湧いてきた。内部被曝に対しても、測定し除染し、生産者と一体となって放射能を除去する努力を行い、『不検出』の食物を生協に供給してもらい、免疫力を高める話し合いを行うなど、皆で話し合う中で、やっていける、大丈夫だとの確信を共有できるようになってきた。それでも不安はゼロにはならない。子どもが恋し、結婚し、出産していくまで続いていく」と(岩波書店『世界』9月号にも取材ルポ掲載)。

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 阿部さんは「生産者が、表土を削りベクレルを下げ移行計数の少ない作物は『不検出』に。これまでの有機、堆肥にこだわる農業の成果。どんな闇にも希望がある、との藤沢周平の言葉。私にとっては希望は生協運動だ」。郡山より放射線量の高い福島市の弦巻さんは、「初めは不安から、県内の農産物はダメだとぶつかったが、交流会・学習会、生産者との協力の中で、『ここで子を産み、育てよう』『子育てしているお母さんに安心な食べ物を提供しなくては』と変わってきた。子どもたちのために、これから長い闘いが始まる」。
 佐藤理事長からは、「放射能の恐ろしさだけではなく、人間にはそれを跳ね返す力も備わっている。放射能で破壊された卵子は受精しないし、食べ物や精神力が、取り込んだ放射性物質を排出する。子どもたちも屋外で汗を出させて、その後シャワーをしっかり浴びて除染する。きちんとした科学的知識と、生産者と一体となった努力、そして財力で放射能から我が身を防衛していく。不安は絶対になくなりはしないが、不安を包み込む考え方が求められている。生協独自の放射能基準ではなく、生産者とともに努力し、不検出や微量という結果を出して判断している。東電への賠償請求で、逸失損失を請求している。避難などでの組合員減少、被曝かでの労働の精神的苦痛も積算して請求した。放射能問題で各分野での専門家が協力し合っていない現状が歯がゆい」。
 大阪にいてメディアやネットの情報では得られない、現地での苦闘を学ぶことができた。
 28日夜、5日間の活動を終えて、マイクロバスが大阪にたどり着いた。

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