久しぶりにブログ書きます。
1か月たち、すこし落ち着いたのでお知らせします。
去る、11/9に母が他界しました。
肥大し、悲鳴を上げていた心臓が止まってしまいました。
7年前、猛暑の中での、あるスーパーの掃除のバイト中に、熱中症で倒れ、救急車で運ばれました。
それ以来、心臓が弱くなり、すこしずつ肥大していったようです。
少し動くと呼吸が荒くなり、長時間の歩行ができにくくなってきました。
下肢も浮腫がひどくなり、物理的にも動くのが大変な状態になっていました。
亡くなるまで、入退院を繰り返してました。
10月の下旬、元は下肢の浮腫がひどく、左下腿の傷から細菌が入り赤く腫れていたのでそれを直すということで入院しました。
翌月11/5、担当の先生から呼ばれました。
「もう心臓がいつ止まってもおかしくない状態です」
妹はすすり泣き、父と僕も絶句しました。
このとき母は、呼吸はしづらそうでしたが、比較的元気に話もできてました。
その3日前にも見舞いに来ていたこともあり、母は、
「おまえら、そんなしょっちゅう来て、私死ぬんか?」
色々言い訳して否定しましたが、かなり胸が締め付けられました。
そして、僕が次にこれたのは、その日である11/8。
前日に妹から意識がはっきりしてないと聞いていました。それでも8日の午前中はうなづくなどの反応は見せていたとのこと。
僕が行った18時ごろは、もうこちらの呼びかけに反応できなくなっていました。
それでもバイタルなどは低いなりに安定していました。
12日は三女の音楽会。それを録画したビデオ持ってくるからと言い残し、翌10日も来るつもりで、いったん自宅に戻りました。
帰宅して、2時間ほどした22時ずぎ、妹からLINEで、母の脈が弱くなっていると病院から連絡があったと知らされました。
急いで、50分かかる病院へ。
しかし、あと10分ほどで着くというあたりで、妹から、
「おかん死んだ」
と1行のLINEがきました。
静かに目をつぶる母。
くやしさと哀しさの中、先ほどまで苦しそうにしていたのがウソのように穏やかな顔を見ると、
「つらいの終わってよかったな」
と思ってしまいました。
苦しんでいるときはあれだけ浮腫んでいた顔は、嘘のようにいつもの顔に戻ってました。
病院に霊安室がなかったので、すぐにでも母を葬儀場に連れて行かなくてはならず、落ち着いて悲しむ間もありませんでした。父は葬儀屋に連絡し、1時間もしないうちに、そこからほどなく近い葬儀場に行くことになり、そこで、通夜と葬儀まで2日半いることになりました。
あっというまに荼毘に服され、箱に入った母。
こんなことでいいのかと思うぐらい、1か月たっても、本気で実感が湧きません。
あまり実家に戻らなかったのもあり、俺って冷酷なのかと思うほど、悲しみが足りない気がします。
料理の味が濃かった。
そのおかげで、普段薄味ばかりの娘たちは、母の料理をかなり喜んでいました。
それが楽しみで、よく泊まりに行っていました。
ただ、ここ2年ぐらいは体力も落ち、妹家族も僕たちも、母の手料理は食べてません。
もう食べるとはできません。
月並みですが、母には何も親孝行できませんでした。
しようとしたこともありますが、決まって母は、
「そんなんする余裕あったら家族で楽しいことしい」
と語尾を強め、半ギレで言い返されました。
父が朝早い人だったので、4:30には起きて家事していた母。
仕事の鬼の父に振り回せれていた母。
年の割に若い音楽、タレントをよく知る母。
とにかく家族のために一人動いていた母。
その母に何もしてやれなかった。
いつも僕は、学生の時から、何もできず後悔ばかりしています。こんな自分が嫌いなのに自分に大甘です。
働きまくっていた母に支えられっぱなしの、残された父が認知症なんかにならないか心配です。
今は母に関してやることがたくさんあり、気は張れていると思いますが、年末の四九日が終わり、やるべきことが落ち着いてからは、どうなるのか心配です。
71になってもバイトしている父。その仕事もできなくなったら、どうなるのか。
もちろん、僕らも見守るけど、どうか母も天から見守ってほしい。
ほんとうなら、ゆっくり休んでと言わなければならないのでしょうが、母に頼りきりだった父の事を思うと、そう言うしかない。
おねがいします。見守ってあげてください。
ごめんなさい。
お願いします。
そして、ありがとうございました。
ありがとう。