サイカチのブログ

サイカチのブログ

名前の由来は、奥州 ( 戦時中に疎開していた故郷 )に伝わる「サイカチ伝説」から命名しました。

画像には、10代後半から30代前半にかけて行っていた弓道のイラストを用いました。

私の干支は、昇竜です。

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傘寿を迎えて

 

気が付いたら 傘寿を迎えていました。

そんな訳で そろそろ終活と思い 昨年来 手始めに書籍の整理を行っていました。

最初は 何冊あったか記憶してませんでしたが 

         現在の保有数が2000冊位までになりました。

 

今回も居室にあった花を 各段落に添付しながら 雑談を記載したいと思います。

 

 

         

                      サボテンの花

 

 

 終活を初めて 1ヶ月経った頃 気が付いたら 私は病院のベットに寝てました。

 以来 手術と入退院を繰り返し これも 「終活の一環で 自身も処分の対象になって来たか」 と 若干 *** な心境になりました。

 

 

      

ユリの花など

 

 

 「寝るほど楽は無かりけり」

子供の頃 こんな事を云って 騒いでいたが この年になると 「眠るにも 体力がいる」

事に気付かされます。

同時に 「親の年を超えて生きる事が親孝行である」 とも云われ

存分に 「シンドイ」 *** 目標は あと6年

 

 

  

 

 

先日 あちらの世界に 「チョット」 顔を出して来た 

                    *** 無論 夢の中ですが

あちらの世界では 「姿」 「かたち」 は見えないのだが 「気配」 が感じれら そこには 多数の親族 恩師 友人達がいた。

単純 比較は 「烏滸がましい」 のだが 現世でお付き合いしている人達の倍数がおられ

且つ 皆 「五体満足で元気であった」

 

一方 私は 「壮大な ** に抱かれ」 「懐かしい」 気持ちになっていた。

そこには 「コロナ」 も無ければ 「隣国とのもめごと」 「かの国の騒動」 も無く 頗る安穏な心境であった。

 

 

        

 

 

 「怒るな 転ぶな 風邪引くな」 というのが 我々の年代への 「注意喚起」 だそうだが 一ヶ月ほど前 名古屋の病院で手術を受けた時  主治医から 同様な事を云われた。

その当日 タクシーで帰宅し 玄関前の路上で転倒した *** 足首捻挫

足の 「ハレ」 は大分引いたが まだ 「痛い」  

            *** 「惨め」 というか 「情けない」 

 

 

 

     

 

 

 

振り返って見ると 市民大学で 「画像処理」 や 「SNS]  を教えて頂いたのは 60代後半だった。

当時は自分の年令を全く意識してなかったのだが それから10年 「良くぞ続けたもの」 だと 自分を褒めてやりたい

 

残された日々は そんなに長くないが 最後の務めとして 執筆中の 「阿弖流為と母体」 の事 「葛西家と千葉家」の事などを網羅した 「自分史」 を仕上げたいと思っている。

 

 

         

 

 

多分に総花的な ブログ になったが 今回は この辺で筆を治める。

次回の投稿は 何時になるか分からないが 気が向いたら 記載するだろうと思う。

 

 

 

ブログの投稿 暫く休みます

 

改めて記載する事ではありませんが ブログの投稿を暫く休みます。

 

8年程前 市民講座で SNSやホームページ等を教えて頂き 趣味の一環としてこれらを楽しんできましたが コメント中に

不適切な表現のため表示されません

との表示がありました。

自分なりに その意とするところを調べようとしましたが、年令も傘寿を超えた事 ブログの投稿数も 160件 にもなりましたので ここらで 一休みしようと 思います。

長い間 拙速な投稿文を呼んで頂き 時には 貴重なコメントを頂き 感謝 致します。   

                ありがとう ございました。

 

ただし 皆さまの投稿文は 今までどうり拝見させて頂き 生きるための 「糧」 とさせて頂きたいと思います。

                               

                それでは また

 

 

 

了解です

 

今回も ともに 苦楽を共ににした友達 (バッチ) について述べる。

なお 掲載したバッチには その思いに軽重の差が無いので 脳裏に浮かんだ順番で記載した。

 

            高校時代          富士鉄 東海 日鉄時代

   

  写真右側が高校時代のバッチで 右側が富士製鉄・東海製鉄・日本製鉄(現 新日鉄住金)時代のバッチです。

 

誰に聞いたか定かではないが 私が体調不良で自宅養生していると聞きつけて 高校 ・ 富士製鉄 ・ 東海製鉄 ・ 日本製鉄 と 新日本製鉄勤務時代 共に席を同じくした友人が訪ねて来た。

彼は 二人にとって一番思い出深い 富士製鉄の教習所時代の名簿 (下に紹介) を持ってきて 互いに 60年前にタイムスリップして 時間も忘れ話し合った。

 

 

 

話のネタ

 

名簿によると 50名入学した同級生の内 9名が他界し その他の友人は ごく少数ではあるが 現在闘病中の者もいた。

特記すべきは 同級生はもとより その子供たちが 社会に出て各種分野で活躍している事である。

以前」は 他人の事は 「あー そう」 程度に思っていたが 最近では 自分に関わりのあった人達が 活躍しているの 「見るにつけ」 「聞くにつけ」素直に嬉しくなる。

 

新日鉄時代のバッ

 

私たちは 製鉄所 勤務時代 ともに整備部に所属し 彼は機械整備担当 で私が電気整備担当であった。

 

工場内で トラブルが発生すると 彼と私が ほぼ同時に呼び出され復旧計画を立てたものだ。

 

復旧工事は 機械 → 電気 → 計装の順で行われるが、機械関係のそれは 進捗具合が黙視出来るので操業側も静かにしているのだが 電気関係はトラブルの発生原因を突き止めないと 「通電」 とはならない。

従って 「休んでいるのか」 「考えているのか」 判別がつかず多分に急かされたものだ。

ある時は 豆粒ほどの 「ICチップ」 が原因で   7200Kwの直流モーターが停止した事があったが復旧工事終了時に 原因は 「これでした」 と報告した時は こんな小さな部品の異常を発見するのに 10分間で800万円の損害でる設備を 「半日も止めたのか」 と叱られたものです。

ここは弁解しても 理解されないので 「じっと 我慢」 です

 

そうそう 計装関係の復旧も重要な事項ですが いざと云う時は 「・・・・の神様」 と云われる大ベテランが現れ 「経験と勘?」 で操業してました。

 

 

若干 眼に負担がかかってきたので 文面が途中であるが 今回はここで筆を止める。

                                    

                     それでは また

 

 

ともだち(その1)

 

今回は 私の胸で輝きながら 名実ともに 苦楽を共ににした友達 ・ 時には師匠に変わって𠮟咤激励 してくれた 心友 (バッチ) について述べる。

ただし 掲載したバッチには その思いに軽重の差が無いので 脳裏に浮かんだ順番で記載した。 

 

 

嚶鳴館のバッチ

 

 

 

このバッチは 当市で開講している 市民大学 (嚶鳴館) の記章である。

私は この大学では 開講当初から 10年間 お世話になり 哲学講座 般若心経講座 個性心理学 パソコン講座 および 中国史等 数々の知識を与えて頂いた。

ある時は タクシーで駆けつけ受講した事もある。
なによりの収穫は 多くの受講生や講師の方々と知人となり 講座修了後でも 機会ある度に教えを頂いている事である。

 

なお シンボルマーク には、以下の様な由来があるそうだ。

 

 

 

 

 

 

ここで 哲学講座で教えて頂いた 一文を紹介する

 

  汝の意志の確率が常に同時に

    普遍的立法として妥当しうるように行為せよ

 

私は この一文が好きでね (時として 忘れる事もありますが) 自分の行為を反省する文言として 常に心に留めています。

 

私はこの大学で 博士課程 (40単位受講すると自動的に頂ける) まで進んだが、 この中で 哲学講座に次いで 長時間受講したのは PC  (パソコン) 講座である。

PCは メールしか出来なかったが この講座では 各種SNS や 画像処理等 数多く教えて頂き 現在では PCが 趣味の一つとなっている ・・ 教えて頂いた講師には 感謝! 感謝!である。

 

 

 

弓道のバッチ 

 

 

 

 

このバッチは 鉄鋼の選抜大会 (青森 岩手 秋田のチームでの選抜 男女混合) で初めて 腰に付けたものである。

私は この大会の前日までバッチをつけていなかったが 大会当日 **製鉄所の代表として 恰好が付かないので 先輩から借り受け これをつけて戦い 試合終了後に即座に購入し 現在まで 苦楽を共にしている 心友である。

試合結果は 我がチームの圧勝であったが (?) 私は 個人戦で どこかのチームの女性と競りあい

12射11中で敗退した思い出がある。

 

弓道での 思い出の中で一番印象に残っているのは 皇居の洗心館道場で行われた鉄鋼大会かな ここでの様子を以前 本ブログで紹介した事があるが 昭和天皇ご存命の時で 陛下のお言葉を聞いてる昭和生まれの私は 涙で弓が引けなくなった事を思い出す。

思い出の次は 熱田神宮で行われた奉納射会かな

 

余談だが 昭和天皇と私の親父は一才違い(親父が下) で平成天皇と長兄が同い年であり その立場に雲泥の差があるものの ・・・・

 

 

             眼科で治療中なので 

                      今回は このへんで筆を止める

 

 

 

 

 

 

 

 

色々な事を云われました

 

令和2年 早々 重症患者の配役を承りました。

その役は ただ寝ているだけ ですが、これが結構シンドイ 色々な事を云われました。

前提は 「大動脈弁膜症で緊急手術」 と云う事

 

 

 

 

手術決定まで

  1、 下腹部に違和感あり

 2、 当市の医療相談センターに電話し 症状を

    云い受診医院を紹介して頂く

 3、 紹介された医院で診察を受ける

    結果  注射とか薬では完治せず

         手術のみが最良の手段

 4、 紹介状を頂き 当市の総合病院 受診

    結果  年令が80才未満である事を確認  

                  手術前検査を受ける

   5,  手術前検査で心臓に重篤な症状が診られ

    るため このまま手術を決行すると 心停止

    の恐れがあるので 心臓血管外科の診断を

    受けるよう指示

 6、 そこで 日赤病院を紹介され 紹介状を頂く

  7、 日赤で受診 結果 早急に手術すべきとの

    診断を受け 1週間後に決定

 

 

 

 

 

 

心臓の手術後のはなし

   8、 手術は順調に行われた

      手術中の危険率 3% との説明あり

 

手術後は 当分の間 他の医院の診察が出来ないので 現在診察中の医院にアドバイスを受ける

 

  歯 科  日赤からの要請もあり診察

             結果を手紙にて日赤に回答 

        ・・・・ 問題なしと記載?

 皮膚科  発疹ヶ所に薬を塗布するのに加え 

        内科的な処置は効果大

  眼 科  この際 充分に眼を休めて下さい

        物事は 前向きに考える習慣をつけよ

 内 科  薬の服用前後に診察があるので安心 

 

 

手術後 隣室でこんな事がありました

手術直後 麻酔が切れる時 人によっては 精神が 不安定になる人も ・・・ 名大から転院した患者

  患者  「心臓の手術は日赤でやれ と云われた」

            「手術が終わったので 名大に返る」

   医師  「移転出来る体力になったら 応じる」

   患者  「納得出来ない 引きとめる理由が不明」

  医師  「医者は 患者の命を守る責任がある

以下 云々

余談だが とう病院の心臓血管外科での手術は ほぼ毎日 5人位 実施されているようだ?

従って 病状に応じて 都度 病室が変わる 

  ・・・ 私も入院中 4回病室が変わった

 

 

 

 

 

今回は私が使用している ストラップを各段落に使用して 昨今の話題を述べた。

 

例によって 纏りの無い文面になったが 私の実力は この程度ですから割引いて読んで頂きたい。

 

今回はこのへんで筆を置く

 

 

そうそう 心臓手術の危険率が明確に告知されたのは 驚きでしたね。

 

さて 私の演技具合は 如何だったろうか