皆さん、こんにちわ!

相模守網元です。

本日は3回目の投稿になりますが、神奈川県大和市深見の深見神社をご紹介致します(*^^*)

平成30年(2018年)3月24日に参拝しました。

相鉄線大和駅から瀬谷方面に向かって徒歩で歩ける距離です。

相模國延喜式内社13社の中でもっとも私の自宅に近いです(;^ω^)

写真は深見神社拝殿です。

 

早速ですが、余談から入ります。

先日、5月1日(金)は朔日ということで神棚の榊とお酒を取り換える日でした。

榊とお酒は1日と15日に取り替えます。水、米、塩は毎日、取り替えます。

これが我が家の神祀りの流儀です。

4月30日に榊を買い求めるため、スーパーに買い物に行きました。

普段ですと、月末にスーパーに行っても、榊が売り切れていることが多く、泣く泣く朔日に榊を取り換えることを諦めることが多かったです。

ところが、ここ2~3か月くらい、榊が大量に売れ残っているシーンをよく目撃するようになりました。

そのため今月の分を購入する時には、一番、活きの良さそうな榊一対をよく吟味して購入することができました。

コロナ禍で自粛生活が続く昨今、多くの家計で榊を購入するよりも、食品などを優先的に購入する購買行動にシフトしていってるんでしょうか?

これは昨今の国難によって日本人の信仰心が揺らいでる証左ではないでしょうか?(´;ω;`)

私としては国難の今だからこそ各家庭でしっかりと神祀りをやって欲しいです。

そして、疫病を鎮める祈りを是非とも皆でやっていきたいです。

私も毎朝、コロナウィルスの災いが静まりますよう神棚にて祈念させていただいております(-人-)

皆さんも神祀り如何ですか?

以上、日々の余談でした(*^^*)
 
写真は深見神社の鳥居です。
 
深見神社について簡単にご紹介します。
深見神社。延喜式内社(式内小社)にして旧郷社です。
 
ご祭神は闇龗神(くらおかみのかみ)、武甕槌神(たけみかづちのかみ)、建御名方神です。
元々のご祭神は闇龗神でしたが、色々と歴史的変遷があって「鹿島社」と称されていました。
その辺の歴史的経緯については後述します。
主祭神の闇龗神につきまして説明させてもらいます。
闇龗神は山の谷間の水の豊穣さを神格化した神様だと言われております。
転じて産業の振興や商売繁盛に御利益のある神様だと言われております。
古事記では闇淤加美神と表記し、伊弉諾尊が加具土神を斬った時に御刀の柄に集まった血が指の間に漏れだして出現した神だと書かれています。
高龗神と少し似ていますが、高龗神は京都の貴船神社と大山阿夫利神社の祭神です。
闇龗神を祀っている他の神社についてはよく分かりません、
 
御由緒です。「創建年代不詳。約千五百年前雄略天皇二十二年三月(485)の創祀と伝えられ、当時より朝野遠近の崇敬篤く、中世源頼朝、武田信玄を始め太田道灌ら武家の崇敬、祭祀は鄭重を極めた。武運長久、勝利をもたらす護り神として、さらに、悪事災難をはらいやり開運招福をもたらし平穏な生活をお守り下さる大神様として、崇敬を集めている。」
総括しますと、雄略天皇雄略天皇の御代、神代から続く伝統ある古社のようです。
 
続きまして、境内をご案内していきます。
写真は境内者の靖國社です。
別称を厚木空神社と言い、太平洋戦争の大日本帝国軍の厚木飛行場の戦没者を祀っています。
 
境内社の御倉(おくら)稲荷神社です。
2012年まで現在の主祭神である闇龗神が祀られていました。
他サイトの情報ですが、近世になってこの一帯を治めていた坂本氏という旗本が常陸國にも所領があり、鹿島神宮を崇敬していたことから、武甕槌神が深見神社に勧請され、近世において深見神社は鹿島社と称されました。
そして、あろうことか元々の主祭神である闇龗神が境内社へと追いやられました。
明治時代に火災にて社殿が焼失し、しばらく深見神社は荒廃したとのことですが、主祭神を粗末に扱ったことの霊的な障りがあったのでしょうか??
2012年に元々の祭神である闇龗神が本殿に合祀されました。
こうして深見神社は古来からのあるべき姿に復帰したのでした(*^^*)
 
御神木のハルニレの木です。大和市指定天然記念物です。
「ナンジャモンジャの木」と呼ばれています。
 
深見神社の御朱印です。
平成30年(2018年)3月24日に社務所にて拝受(-人-)
社務所には複数人の神職さんがいて、社務所がしっかりと機能しているという印象がありました。
コロナ禍の昨今、今は深見神社の社務所はどうなっているやら・・・(;_:)
コロナ禍が収束したら、再び参拝したい神社です(*^^*)
 
これにて深見神社の記事は終了です(;^ω^)
最後まで読んでいただきありがとうございました<(_ _)>
 
【深見神社参拝加筆・追記】
深見神社参拝につきまして印象深い個人的な思い出があり、書き漏らしていたため追記いたします。
このブログは神社紹介と共に自分史を綴るブログです。
 
2018年3月24日、当時、私の家は重々しい空気に包まれていました。
両親が自営業で家業を営んでいたのですが、両親の高齢化と顧客が離れていき採算がとれなくなったことから家業を廃業しようかと父が言いだしたからです。
家業の廃業の予定時期は年度末の2018年3月31日でした。
その時期を逃すと商売を畳むタイミングを逸します。
廃業をしても出費がすぐなくなるわけではなく、廃業してから3ヶ月は月40万円のテナント代を払い続けなければなりません。
その他、仕入れ先からの買掛金も払っていかなければなりません。
また、廃業したら両親はどうやって食べていくのか?
私は実家住みで両親をサポートする立場にありましたが、単なるワーキンプアのサラリーマンですから、両親を養って、実家を維持するほどの稼ぎはありません。
父は完全に弱気になっていてもうこれ以上、事業の継続は無理だという意見でした。
私は父に何とか頑張ってほしかったです。
一家の長男として家業が無くなることは家の重みが無くなり、自分の存在意義に関わる問題だからです。
(とは言っても、サラリーマンの方が楽ですし、家業を継ぐという意志は私にはまったく無かったのですが(;^ω^))
また、商売を畳んだ後の生活の形が全く分かりませんでした。果たして食べていけるのか??
そんなこんなで家庭内で喧々諤々の議論が行われていました。
 
そんな中、2018年3月24日に深見神社を参拝しました。
闇龗神様は商売繁盛の神様だと聞いていましたので、、私は家業が息を吹き返すことを祈願しました。
単なる御朱印巡りとしてではなく、どうか私たち一家が食べていけるよう真剣に祈願しました。
どうか我が家の家業が繁栄していきますように(-人-)
 
しかし、祈りもむなしく状況は好転せず、父は廃業を決断し、父が若い頃に始めた商売は35年で幕を閉じました。
テナント代を払い続ける3か月間は父は無料で事務所で営業を続けました。
そんな中、家業の閉鎖を惜しむお客様の声もありました。
私も悲しみと寂しさを禁じえませんでした(;_:)
神に祈ったのに、神は祈りをお聞き届けていただけなかったのか?
 
ほどなくして父はシニア採用で大きな会社に再就職しました。
当時は家業の廃業は物凄く悲しい出来事でしたが、今や我が家は父も私も務め人として新しい生活を送っています。
むしろ、あの時に廃業していなかったら、コロナ禍の現在、我が家は大変なことになっていたと思います。
闇龗神は私の願いを聞かなかったのではなく、私たちが生きていくために本当に相応しい道を歩ませてくれたのだと思います。
神はその人の一生においてある時点では辛い思いをその人に与える時もありますが、人生を長期で見た場合、神は最善の道を指し示してくれるのだと思います。
 
コロナ禍が収束しましたら、深見神社にお礼参りに行く予定です(*^^*)
最後まで読んでいただきありがとうございました<(_ _)>

こんばんわ!

相模守網元です。

本日は第2回目の投稿として神奈川県海老名市上郷の有鹿神社を紹介します(*^^*)

平成30年(2018年)3月18日に参拝しました。

 

有鹿神社と言えば海老名の総鎮守です。

海老名はここ10年くらいの間にVINAWALKもできたし、タワーマンションもバンバン立つし、発展著しいです。

自分が10代で思春期の頃、さがみ野に住んでる同級生がいたのですが、彼と遊ぶとなると海老名で遊ぶ機会もありました。

90年代後半、当時の海老名はまだ開発の前で、言葉は悪いですが、あまり栄えている街ではありませんでした。

五重塔が駅前にあって多少、文化の香りを感じるくらいでした。

同級生に「海老名ってめちゃ田舎じゃん、しょぼい」とか失礼な事を言ってしまったのを覚えています。

しかし、今やこの発展ぶり!

同級生も今頃、「網元の野郎、当時は好き勝手な事言いやがって!ざまぁみやがれ!」と思っているかもしれません(;^ω^)

ただその同級生は北海道の大学に行ってしまったので、それ以降は縁が切れてしまい、その後どうしているか不明です。

話が脱線しましたが、有鹿神社の話に戻します・・・。(;^ω^)

 

写真は有鹿神社の鳥居付近です。

有鹿神社につきまして、簡単に説明させていただきます。

有鹿神社。延喜式内社にして旧郷社。相模國五ノ宮とも言われています。

 

ご祭神は有鹿比古命、有鹿比女命、大日靈貴命です。

大日靈貴命とは天照大御神の別名ですが、有鹿比古命、有鹿比女命は寒川神社の時と同じく記紀に名前の無い神様です。

有鹿神社は神奈川県で一番、古い神社と言われていますが、縄文時代からの原始の信仰の表れなのでしょうか、記紀の時代よりも古い地元の神様を祀っているようです。有鹿比古命、有鹿比女命で日の神、水の神でペアになっている神様です。

 

御由緒です。「有鹿谷の泉は、縄文の水神信仰の対象。泉落ちる鳩川に沿い、海老名の大地が成り、農耕の豊穣と安全を祈り、水引祭が起こり、創建。霊験あらたかで。奈良・平安の頃、相模国府の崇敬崇敬篤く、天智天皇三年(664)に祭礼、天平勝宝八年(756)、墾田五百町歩の寄進、貞観十一年(869)、従五位上に昇階との記録。室町の大乱により、美麗な社殿と広大な境内を喪失。その後、再建成り今日に至る。」

総括すると、海老名という土地は縄文時代から人が住んでおり、それ以降、連綿と信仰が続いてきたようです。

 

写真は有鹿神社神楽殿です。

ここでパンダ宮司さんが祭祀舞を踊ったりするところです。

私は有鹿神社の予備知識なしで、2018年3月18日に初めて参拝したのですが、パンダ宮司の存在には度肝を抜かれました(;^ω^)

神社の神職って生真面目なイメージがあったのですが、被り物をしてメディアに出演する神職というのは衝撃的でした(;^ω^)

非常に大きなカルチャーショックを受けました(;^ω^)

色々と思うところはあるのですが、コメントは差し控えます。(;^ω^)

写真は有鹿神社の御朱印です。

平成30年(2018年)3月18日に拝受しました。

御朱印はこの写真の鹿の御朱印だけではなく、何種類か選べます。(現在ではパンダ宮司の御朱印もあるようです)

奥宮を参拝すれば、奥宮の御朱印もいただけます。

私は中宮にも奥宮にも行っていないので奥宮の御朱印は頂きませんでした。

御朱印を頂く際に、宮司さんが鈴を鳴らしてお祓いをやってくださいました。

そういう細やかなサービス精神は嬉しいポイントでした(*^^*)

 

これにて有鹿神社の記事は終了となります。

最後まで読んで頂きありがとうございました。<(_ _)>

 

 

 

 

 

 

 

こんばんわ!

相模守網元です!

 

このブログ1発目の投稿、本日は自分の御朱印巡りの原点である相模國一宮・寒川神社について書いていきます。

相模國延喜式内社13社巡りの1社目です。

私はここで人生初の御朱印をいただきました。

(御朱印収集を始める以前から神社巡りはしていましたが、御朱印拝受は寒川神社が初めてです)

写真は寒川神社拝殿です。

さすが一宮だけあって凄まじい御神威、大きさの社殿です。

毎年、初詣にはものすごい数の参拝客が訪れます。

写真の拝殿前のスペースも人でいっぱいでギュウギュウ詰めになります。

私自身もここ数年、毎年、年始には必ずこの寒川神社を参拝しお札とお守りを拝受しております。

 

それでは寒川神社につきまして、簡単に説明させて頂きます。

 

寒川神社。延喜式内社(名神大社)の古社、相模國一宮です。旧国幣中社で現在は神社本庁の別表神社です。

 

ご祭神は寒川比古命、寒川比女命です。

この二柱の神を合わせまして寒川大明神と申し上げます。

関東を開拓された神々様であるとのことです。

記紀や旧事紀には名前が載っていない神様なので神話上、具体的にどういうことをされたかは不明です。

不明というか私はこの寒川大明神が登場する神話を読んだことがないです。

知ってる方、情報下さい!!<(_ _)>

 

御由緒です。

「創建年代不詳。総國風土記によると雄略天皇の御代、幣帛が奉納されたとあり、創建の極めて古いこと、朝野の崇敬が篤かったことが知られる。相模國総鎮守として士民信仰の中心となり、源頼朝、小田原北条氏、武田信玄等の信仰も殊に篤く、武家の崇敬、奉祀も鄭重を極めた。又、古来唯一の八方除の守護神として御霊験あらたかにましまし、地相・家相・方位・日柄・厄年等に由来するすべての悪事災難を取り除かせられ福運開運をもたらし、生活活動に限りなき恩恵を蒙らせ給う御神徳は実に広大無辺にあらせられる。」

総括すると、時の有力者からの崇敬篤く、八方除けという御利益は全国でこの寒川神社のみということとのことです。

 

上の写真は人生で初めて拝受しました御朱印、寒川神社の御朱印です。

平成30年(2018年)2月11日に拝受しています。

しかし、寒川神社にはそれ以前の何年も前から参拝はしていました。

神社の一般的な紹介は、他のブログでやり尽くされていると思うので、このブログでは私と神社について自分史のような形で語るブログにしたいと思います。

私はどうして神社巡りをするようになったのか?御朱印巡りはどういう動機で始めたのか?

神社の一般的な説明はこのくらいにして、私の自己紹介を兼ねて、神社巡りと私、御朱印巡りと私について書いていきます。

 

相模守網元というハンドルネームは単なるハンドルネームであって勿論、本名ではありません(;^ω^)

しかし、自分の本名に関係のあるシャレで名付けたハンドルネームで、命名の理由を聞いてしまえば余りにも下らない話です(;^ω^)

本名バレ怖いので、この辺でハンドルネームについての説明は終わりにします。

 

年齢は30代後半。東京都目黒区が出生地で、神奈川県育ちです。

神奈川県の小学校、中学校、高校を卒業し、東京の大学に入学し、単位取得に苦労しながら卒業しました(;^ω^)

大学卒業後、新卒で東証一部上場の企業に新卒で入社し、それ以降、思うところがあって何度か転職し、様々な会社を渡り歩いて今に至っています。

今は某財閥系企業の子会社に勤務しています。

 

子供の頃、10代の頃は、親から「あまり神社には行ってはいけない」と言われていまして、地元の神社に初詣に行くくらいしか神社には縁がありませんでした・・・。

親曰く「神社の祭神は高級な神霊だが、眷属には下級な霊的存在がいて、無防備に神社に行くのは危険」とのことでした。

 

自分が神社巡りをするようになったキッカケは20代中盤の頃、新卒で入社した会社で体調を崩したことがキッカケでした。

死を覚悟するような心臓発作のような激しい症状が現れましたが、医者の診察を受けても原因不明。

症状と不安で悶々とする日々が続きました。会社も休みがちでした。

死の恐怖と不安が常に自分を覆っていました。

そんな中、死をも超越した神を求める気持ちが自分の中に湧き上がってきました。

そこで会社の勤務中に職場を抜け出し、会社周辺の神社を参拝するようになりました。(よく懲戒解雇にならなかったものだというご意見はさておき(;^ω^))

会社近くの東京10社の白山神社、根津神社などはよく参拝する神社でした。

少彦名命が医薬の神様だという情報をネットで仕入れて、どうやら神田明神に祀られているらしいと知り、会社の帰りの夕方に神田明神にも参拝するようになりました。

これが私の信仰の原点です。

病気を治し、死への恐怖を乗り越えることが、神社の祭神への崇敬の動機となりました。

ほどなくして体調は良くなり、寒川神社や出雲大社相模分祠など神奈川の神社を中心に回るようになりました。

2012年の式年遷宮の際には三重県の伊勢神宮に初参拝しました。

2013年には島根県の出雲大社や日御碕神社に初参拝しました。

最初は素戔嗚尊や大国主大神など出雲系の神様にシンパシーを感じ、それらの神様を祀った神社しか参拝しませんでした。

なので、八幡神社などは御朱印巡りを始めるまで参拝したことがありませんでした。

未だに八幡神とはどういう神様なのか自分にはよく分かりません。

ただ八幡神社では良いエネルギーを貰えることが多く、正体の分からない神様ですが、非常に御神徳のある神様だと思います。

 

また、若い頃は学問への情熱があり、大学院進学と国家資格取得を目指して勉強をしていました。

そのため自分の学業成就を湯島天神の菅原道真公に祈願したりしました。

今、30代後半になって勉強は中途半端になってしまいましたが、情熱に燃えた当時の自分は青春の真っ只中にいました。

また、当時は社会人として社会、企業の腐敗ぶりを目撃し、自分の中で理想的な新世界、ミロクの世への憧れを募らせていました。

現在、世界はコロナウィルスの禍が猛威をふるっていますが、これも真の理想社会に到達するための一里塚であると思って、状況を注視しています。

 

自分が神社詣でを始めた頃は、本格的に神社ブームが起きる直前でしたが、近年になって御朱印ブームがかってない盛り上がりを見せるようになりました。

そのため2018年2月11日から私も御朱印巡りに参加するようになりました。

その御朱印第1号がこの寒川神社です。

ここから私の御朱印巡りがスタートしました。

 

このブログではこの後、相模國延喜式内社13社(残り12社)を私の撮影した写真と共にまず最初に紹介させていただきます。

果たして相模國延喜式内社を紹介できるだけの力量が自分にあるか??(;^ω^)

それでは相模守網元ブログスタートです!!(@^^)/~~~

 

最後まで読んでいただきありがとうございました<(_ _)>