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1杯目のビールと100杯目のビール

ビールそのものは変わらなくても、1杯目のビールは美味しく、100杯目のビールは苦い

これを哲学的に言うと、存在(ビール)は変わらないのだが、認識(飲む人の味覚)が変わったのだ。


人間でも同じことがある。

出会いの喜び、結婚。そして、相手を責めての離婚。

変わったのは相手ではなく、あなた自身である。


1杯目も100杯目もビールそのものが変わらなくても、味が違う、と言うのはあなたの味覚、舌のほうだ。

そのことに気付かず、相手を責めたりするものだ。


結婚、離婚の話ではない。関係の変化の因はを自分なのに、相手のせいと錯覚しがちだ。


哲学を学び始めたので、その知識が少しは役立った、今回の呟きでした。



信仰と恋をめぐる百日

百日の「信仰」と「恋」の話です。


信仰

 浄土真宗の開祖親鸞聖人が信仰を求めて、比叡山から京都の街中にある六角堂に毎晩百日参籠されました。夜に比叡山を降り、明け方までには比叡山に戻られたそうです。


信仰のためとはいえ、往復で6時間程度の山道を毎夜毎夜とは凄いですね。定かではないのですが、こっそりとされたようです。

この情熱があればこそ、新たな宗派を生み、90歳まで生きられたのでしょう。



 他方、恋の話になりますが、小野小町に恋した男がいました。今の京都市深草にすむ深草の少将です。

「毎夜百日通えば、思いを受け入れましょう」との小町の言葉を信じて、深草から山越えで山科の小野まで通い続けました。

念願成就を目前にして、99日目とか100日目とか言われてるようですが、雪の中で倒れてしまったそうです。


結果的には、望み叶わず、恋のために死したわけです。


「信仰」のための100日の夜行、「恋」のための100日の夜行。

どちらも凄いですね。


あえてこの話を関連付ければ、キーワドは「小野家」です。

日本史を学んだ人なら、小野と聞けば、小野妹子、小野東風、小野篁、小野小町を御存じでしょう。

同じ家系と言われています。


小野妹子大臣が、親鸞の通った六角堂(頂法寺)の住職であり、その子孫であると言われている小野小町が「恋」の百夜通いの主役でもあります。


因縁めいて、面白い話ですね。



幸福と哲学 その1

「哲学とは難しい」として敬遠するかもしれないが、人間の幸福を考える思索でもある。


その一端を書物から案内しよう。


「青い鳥」

メーテルリンクの小説「青い鳥」は、チルチルとミチルの兄弟が、幸福の青い鳥を求めて旅に出る。

旅から帰った二人は、自分の家の鳥かごに青い鳥がいることを発見する。


「青い鳥徴候群」と呼ばれるように、我々は自らの近くにある幸福に気付かず、遠くばかりを探していることがある。


身近なところにある幸福を見出す目を持たないか、幸福を感じられる生き方をしていないだけかもしれない。



民主主義の社会では、全ての人に自由に幸福を追求する権利が認めていられるとともに、他人の幸福追求権も尊重しなければならない。


先人の哲学者は、民主主義にふさわしい幸福の在り方について思索をしてきた。


「最大多数の最大幸福」

ベンサム(1748~1832)はイギリス人で功利主義を提唱した。

人間は誰でも快楽を求め、苦痛を避けるから、快楽と苦痛の感覚が幸福の基準になると考えた。快楽の増大に役立つものが善であり、快楽を妨害し苦痛をもたらすものが悪だとした。


暴飲飲食などは、その場では快楽を味わえるが、後で健康を損なってより大きな苦痛を体験するから、マイナスと考えた。


話せば長くなるので、これ以上は、次回に続きます。

便りのないのは、よい便りか

「便りのないのは、良い便り」という諺がある。しかし、人は未来について不安が大きいと、例え悪い知らせであっても、情報のない不安より、ましだと考えるようだ。


ネパールで肝炎にかかった青年が、「医者に肝炎だと言われてホットした」と言っていた。体調が悪い不安さより、病気だと分かった方が良かったらしい。


同じ頃、ネパールで亡くなった娘さんの母親に出会った。

「娘がどんな所で亡くなったのか、見ておきたかった」と言われた。


理性的に考えれば、「知ってどうなるの、苦しむだけだよ」と思えることでも、人には、「真実を知りたい」という本能的欲求を押さえられない。


法廷で、被害者家族が、「真実を知りたい」と加害者に訴えるのもその表れだろう。


「我々は何処から来て、何処へ行くのか」と、哲学的に問いかけるのも、そうした「真実を知りたい」という本能的欲求からに違いない。


(哲学を学び始めた者の我田引水的発想でしょうか)




愛情で選手の心を開かせる

今、学んでいる哲学の話ばかりが続き、ブログを読み返してみると、面白くない。


だから、ここで一服。


2000年シドニーオリンピックのマラソンで優勝した高橋尚子の監督、小出さんの本、「君ならできる」を読み返してみた。

良い話がたくさんちりばめてあるのだが、その中の一つを紹介したい。




監督の一番の仕事は選手の心を開かせることだ。

選手は多かれ少なかれ「自分は本当に強くなれるのだろうか」と不安に思っている。

そんな選手を、「何だか本当に強くなれそうな気がしてきた。よし、頑張るぞ」と言う気にさせるのである。


・・・・(一部省略)・・・


私はいつも「心のつながり」が大事だと本気で思っている。

簡単に言ってしまえば、愛情を持って接するということである。


・・・・・(再び、一部省略)・・・・・・・・・・・


同じ夢を追い求める弟子、いや同志がいてくれるだけで十分幸せだ。私は彼女たちといると心が開かれる。

可愛くて仕方がない。だからこそ、選手も心を開いてくれるのだろう。


そんな風に接していれば、お互いに楽しいはずだ。どうせ同じマラソンをするのなら、楽しくしたほうがいいに決まっている。


一回しかない人生だから、楽しくやらなければ損だ。私はそう思っている。



と言うような、内容です。


私の周りにも、夢を持って頑張っている人がいる。小出監督のように応援できればと思っている。







酷いギリシャと凄いギリシャ

今、ギリシャといえば、国家財政危機で、世界を震撼させている。酷いギリシャである。

これに比し、古代ギリシャは、近代欧米文明の原点として凄い。


人間の思想・哲学の世界でもそうである。


聞いたことがないかも知れないが、「アナキサゴラス」と言う自然哲学者がいた。


彼の考えは、今日では「正解」なのだが、当時は訴えようかとさえ思われた。


彼は、「従来は神々と信じられていた日輪や月輪やその他の天体が石塊から成り立っていること、また太陽から出る光が地球や、月やその他の星辰を照らすこと」を説いた、そうである。


このことは、プラトンによる「ソクラテスの弁明」の訳者注に書かれている。


皆が神話によって世界を説明している時代に、よくもこれだけの洞察力があり、また主張する勇気があったと、感心する。


ギリシャは凄かった!



価値観なんて、人それぞれ(最初の哲学者プロタゴラス)

人は、「何故?」と考える。哲学の始まりである。


世界の始まりの頃、身の回りのわからないことは皆、神話による説明で済ませてきた。


A国の神話では、雷は、「あの山の神様が、奥さんとけんかした時に起きる」であった。

B国の神話では、「神様が悪魔を倒すために巨大ハンマーを振るうと起きる」であった。


 都市ができ、広域の未知の人間同士が交流を始めると、それぞれの国での話が違うことに気付き、「もしかして、神話って、嘘ではないか?」と、皆が思い始める。


神話だけではない、「正義とは何か」、「何が犯罪であるか」と言う法律も、国それぞれで違うことに、人間たちは気づきはじめた。


ある国では、仇討は「立派なこと」であるが、別の国では「復讐心に狂った殺人者」とされる。



さあ、あなたならどう考える。


こんな状況に陥ったのが、2500年前のギリシャです。「神話」という共通了解の価値観が崩壊した時代において、最初に登場したのが、プロタゴラスである。


彼は「人間は万物の尺度である」と唱えた。


 同じ水でも「温かい」と思う人もいれば、「冷たい」と思う人もいる。この論法は、政治家にとって大変都合が良い。

話し方によって、自分の「悪いこと」を「良いこと」と見せかけることができ、相手の「良いこと」を「悪いこと」と見せかけることができる。


プロタゴラスの報酬はウナギ登り。一回の講義で、軍艦が買えるほどにつり上がったと言われている。


何が「善」、何が^「悪」、それをしっかり把握し、説明できないと、世界では押し潰れるかもしれません。


「日本人は意見を持っていない、バックボーンがない!」、と言われかねません。


さあ、考えましょう(哲学を学びましょう)


哲学者のことば(今も昔もやっぱり幸福と善を求める)

 判断が正しいかどうかは、判断する立ち位置が正しいかどうかできまります。


その立ち位置の正しさを判断するために、、「善」について古今東西の人の賢人の意見を聞いてみよう。



アリストテレス(ギリシャ・紀元前4世紀の哲学者)


 医術は健康を、造船は船を、家政(経済)は富をと言う具合に、それぞれの「善」がある。それらの諸善を統括する究極目的、最高善は「幸福」である。 (佐上コメント:大先生でも我々の常識と同じで、良く分かります)


 では「幸福」とは何か。自ら足りることである。このことは人間の「機能を発揮すること」と言い換えられます。

そして、「快」を伴うときは人間の「機能が働いている」ときである。


 食欲を充たすこと、人に親切にすること、疑問を解くことなどに「快」を伴うのは、人間の「機能が働いている」からです。


(佐上コメント:古今東西の賢人の意見を聞いてみて、自分の考えと照らしてみると、大変参考になりますね)



なぜ日本には哲学が生まれなかったか

私の勉強の課題は、「なぜ日本人は無宗教か」ということですが、道草を食っているうちに、「日本になぜ哲学が生まれなかったか」との文章に出合った。


明治の自由民権思想家、中江兆民の賢察である。氏はフランスでルソーを学んでいる。


浅学の私には分からないから、ナルホドと感じたところを載せます。



「日本人は、ものわかりが良く、時の流れによく順応して「頑固」なところがない。」


「「一種小怜悧、小巧智」であって、「偉業」を立てるには不適当である。日本人は、極めて常識に富んでいるが、常識以上に挺出することは、望みえない」


としている。


その結果として


西欧諸国のように「悲惨にして愚冥」な宗教上の争いがない。


明治維新が殆ど血を流さず行えた。


旧来の風習を洋式に一変して顧みない。


「其の独創の哲学無く、政治に於いて主義無く、党争に於いて継続無い」



明治時代の洞察が、今も同じ様相を呈している。それが国民性なのだから、継続して当然なのだろうが。


さらに続ける。


「哲学無き人民は、何事を為すも深遠の意なくして、浅薄を免れない」としている。


ここらが「外交に於いて、国家戦略がない」と言われることと重なるのでしょう。



以上、大切な話ですが、難しい話でした。


法然(親鸞の師匠)の衝撃

今年は、法然没後800年、親鸞没後750年の年に当たり宗教界では特別な年です。


私は、哲学・宗教については、よちよち歩きを始めたばかりですが、ある専門家によれば、「世界の宗教史でただ一人あげよと言われれば法然さんをあげる」と述べています。


何故か?


それまでの、仏教は来世で救われるには、色々と功徳を積んで、「善人」になる必要があった。


しかし、法然さんは、「善人も悪人も関係ない。南無阿弥陀仏と念じれば救われる」と説かれてそうです。


不謹慎で、軽々しいとの叱責を承知で分かりやすく譬えれば、「苦しんで勉強した者だけが合格する世界から、合格しますようにと仏様を信じて祈れば、勉強していなくても合格できる世界への転換」ですから、出来の悪い者は一気に救われることになります。


この考えに至ったのは、「人間は煩悩に悩む凡夫であって、そんなに立派な存在になることは無理だ」との思いと「特別な人でなく、凡夫が救われなくてはならない」との強い思いがあったようです。


煩悩から抜け出せぬ凡夫でも救われる道を説かれた訳です。


有難いけれど、救われようと功徳を積んできた従来の考え方からすれば、あっけにとられる考え方です。


後世に残る大きな仕事をされた宗教家の例にもれず、法然さんは処罰されます。親鸞さんもこの考えを踏襲されました。


「南無阿弥陀仏」とよく唱えていますが、このような経緯があったのです。

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