がんの人      by さちよ76歳

がんの人      by さちよ76歳

昨年1月に悪性リンパ腫と診断された夫との日々のつれづれ

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これで、いったん、終わりとします。











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仲間のクリスチャンが、三々五々とおとずれて、わたしの話しを傾聴してくださる。主人のアルバム見せたり、ペンケース見せながら、時には笑ったりして話すことも多い。話しているうちに、心に溜まっている悲しみが少しずつ溶けていく感じ・・・



お花やおかずの差し入れが毎日のように届いて、料理しないでいい日が2週間も続いた。「魚久のお弁当食べたいんだけど」なんて注文出すこともある。



同じマンションで、自称便利屋さんのMIPOKOちゃんからは、「ゴミ捨てありませんか、買い物ありませんか」と、御用聞きカードが、たびたび朝刊に挟んであって笑ってしまう。



「外に出てお食事しませんか?」「神代植物園にバラ見にいきませんか」と、
声がかかることもある。この一年半あまり、外食の機会もなかったので、
久しぶりのナンカレーおいしかった。



一緒に食事したGさんが以前に送ってくださった「あなたらしい最期を生きる本」最終医療のガイドブックは、今回の在宅ホスピスケアで大いに役立った。


医師による死に方のガイドブックで、医師サイドからの実際的なアドバイスがたくさん載せられているもの。この本を読んだおかげで、
在宅医療は、患者と家族が主人公という認識をしっかり持つことができた。



主人公たる患者の意思、家族の気持ちを何より優先したいという思いが、
今回の点滴拒否・胃ろう拒否という選択につながったし、
食べられないこと飲めないことを自然のこととして受け入れることもできた。


思い返すと、この1年半、主人もわたしも、人の情けのようなものに包まれてきたような気がする。愛や、心遣いのシャワーをいっぱい浴びてきたような気がする。ホントあたたかい思い出ばかり・・・



子どもたちはもちろんとして、お医者さんや看護師さん、ケアマネさん、ヘルパーさん、妹、友人たち・・・・みんなに、不慣れな在宅介護を応援してもらった。ほんとうにありがとう!



「言うこと無し、ありがとう」と、目の前から消えた主人に

わたしも言ってあげたい、「これ以上はやれませんでした。悔いなし」と。



涙はこれからも、まだまだいっぱいこぼれ続けるかもしれないけど、
悔いなしの宣言は、きっとこれからの生きる力になるだろう。



何だか早く立ち直れそうな気がする。

                                     おわり





















5月28日



死亡通知を差し上げた方から、次々に電話が入った。
ショックと同時に、見事な死に方ができた主人をうらやましいとの声が多かった。「わたしも、そんな風に自分ちで最期まで暮らしたいなあ」と。



甥や姪であっても、ほとんどみんな高齢者・・・
自分の意志で、自分らしい死に方ができた成ちゃん、幸せだったと思う、
ご家族もよく伴走されましたねと、今回の死亡通知を評価?してくださった。



友人のKさん、胆石の関係した病気で入退院を繰り返しておられた様子で、今回の退院で、訃報に接した由。「ごめんなさい、早く電話すればよかった。
関屋はいい奴だったですよ、旅行の手配なんかいつも進んでやってくれて・・・それにしてもさびしいなあ、みんないなくなっちゃって」と、最後は涙声。



電話の向こうで泣いてる方が多かった。
おとうさん、愛されてたんだね、よかったね。
わたしも電話しながら、いっぱい泣いちゃった。早く楽園で会いたいね。









5月27日 その2


アスパラガスを届けてくださったMさんのご主人は、主人と同じ悪性リンパ腫で、8クールの抗がん剤治療を終了して、間もなく退院されるとのこと。



「おれ、帰っても役に立ちそうにないなあ」と、ご主人が言われたらしく、「そんなことはないですよね」とMさん。「主人は何しろ司令塔ですから。自分で動けなくても、指示してくれるだけで、家族は大助かりなんです」と。




大型農家のMさん宅、今年は司令塔が入院中だったので、

田植え仕事が大変だった由。息子さんが代理司令塔になって、手助けに来てくださったご主人の友人たちに、いろいろ作業の手順を説明したりやってもらったりして、必死に今を切り抜けている様子。今までのように手際よくいかないらしい。



農作業の大変さは、わたしにはよくわからないけれど、司令塔の存在は、きっと大きいに違いない。ご主人は、これからも闘病生活続くかもしれないけれど、家で、しっかりと、司令塔という役割を果たされていかれるだろう。








5月27日



北海道から、どっさりのアスパラが届いた。毎年この時期の一番のお楽しみプレゼント。田植えで大忙しの合間を縫って、Mさんが自宅の畑で採れたものを送って下さったもの・・・



太くて穂先のしまったこのアスパラガス、やわらかくてあまくて、ほんとうにおいしい。「アスパラガス楽しみにしています」なんて催促がましいお手紙出したりして主人と一緒に、毎年のこのプレゼント心待ちにしていた。



「おとうさん、残念だったね、今年は食べられなかったね」とちょっとホロリのわたし。天ぷらや、炊き込みごはん大好きだったのにね。



新しいうちにと、さっそく隣近所(主人の亡くなった時大きな花かごを届けてくださった)におすそわけ方々、主人の様子をお話しした。



元気な時は、ご近所さんと会えば立ち話したり、ペン立てあげたりして、近所付き合いのよかった主人のこと、みんな涙ぐんで聞いてくださった。



特にうちと同じくらいの年輩のご夫婦は、最期まで家で暮らせたことにとても関心を示されて、見本にしたいと言われた。



家族が置かれた状況はさまざまだけど、それぞれが自分らしく最期の日々を生き抜いて、納得のいくかたちで人生を締めくくれるとしたら、
病院で死なないという選択・・・

もっと考えられてもいいのではないだろうか。









5月26日



北海道からたくさんのアスパラが届いた。毎年この時期の一番のお楽しみプレゼント。田植えで大忙しの合間を縫って、Mさんが自宅の畑で採れたものを送って下さったもの・・・



太くて穂先のしまったこのアスパラガス、やわらかくてほんとうにおいしい。

「アスパラガス楽しみにしています」なんて催促がましいお手紙出したりして主人と一緒に、毎年のこのプレゼント心待ちにしていた。



「おとうさん、残念だったね、今年は食べられなかったね」とちょっとホロリのわたし。天ぷらや、炊き込みごはん大好きだったのにね。



新しいうちにと、さっそく隣近所(主人の亡くなった時大きな花かごを届けてくださった)におすそわけ方々、主人の様子をお話しした。



元気な時は、ご近所さんと会えば立ち話したり、ペン立てあげたりして、近所付き合いのよかった主人のこと、みんな涙ぐんで聞いてくださった。



特にうちと同じくらいの年輩のご夫婦は、最期まで家で暮らせたことにとても関心を示されて、見本にしたいと言われた。



家族が置かれた状況はさまざまだけど、それぞれが自分らしく最期の日々を生き抜いて、納得のいくかたちで人生を締めくくれるとしたら、

病院で死なないという選択・・・

もっと考えられてもいいのではないだろうか。




5月24日


みゆきが新聞記事を持ってきた。伊藤比呂美さんという詩人の方の記事で、身につまされる記事だった。



死を不自然に延ばさないで


熊本市に住む87歳の父が2004年にパーキンソン病で要介護度1の認定を受けましたその後、母親が脳こうそくで倒れ、5年前から療養病床で寝たきりとなりました。


私は家族と米国で暮らしており、日米を往復しながら両親を介護してきました。母は1年前に84歳で亡くなりました。亡くなる2日前に父に抱きしめられ、声を上げて泣いたそうです。



父は「おれは、くやむことは何にもない」と話していました。でも私は4年間介護され続けた母を見ていて、老いることが恐怖になりました。一度病院に入れば、死にたくてもなかなか死ねない。



母の意識がまだしっかりしていた頃、病院に「人工呼吸器も透析も、栄養補給もしないでください」という一筆を入れましたが、実際には栄養補給が行われました。


医師は「栄養補給せずにミイラになるのを見ているのはつらい」と話していましたが、「干からびて死ぬ」というのも自然な死に方のひとつだと思います。


年老い体が衰えて介護が必要になる。それは死に向かう過程のひとつです。
その過程が不自然に引き延ばされるのは、本人にとっては「マイルドな地獄」だと思います。


「どんな死に方をするか」という本人の選択が生かされる仕組みを、介護保険の中に組み入れて欲しい。ケアプランをつくるケアマネージャーがいるように、できる限り自分が望む自然な形の死を迎えられるようマネジメントしてくれる「デスマネージャー」が必要ではないでしょうか。


納得のいく死に方をするための保険というコンセンサスが広がれば、介護保険に必要な負担もより受け入れやすくなると思います。


父も、母が亡くなってから自宅の壁に「決して救急車を呼ばないでください。
何の治療も受けません」と大書した紙を貼っています。


食べ物をのどに詰まらせて孤独死し、翌日に来たヘルパーさんがそれを見つけるのが理想だそうです。父を世話するヘルパーの方々も、父に共感してそれを受け入れています。


私の目の前で父が苦しみ出して「やっぱり救急車を呼んで」と言ったとしても、私は「お父さん、それで生き延びてお母さんと同じようになったらどうするの」と説得するでしょう。法律上の罪に問われないか心配ですが。


献身的に肉親の介護をされている人もいます。もちろん介護保険のサービスが不十分なためにそうせざるを得ない人も多いのですが、自分自身の生活はどこにもなく、親とのもたれあいになってしまっている人もいるのではと気になります。


親の多くは「子どもが自分の介護の犠牲になるより、自分自身の人生を歩んでほしい」と願っているのではないでしょうか。


親とある程度距離を取らないと、親も一人で死んでいく覚悟ができないと思います。とはいえ、自分の親からは「娘に頼りたい」という強い思いも伝わってきます。「親の介護は子どもがするもの」という周囲の圧力も強い。


私は自分の子どもたちに対して、自分が味わっているような負担感を感じさせたくない。介護保険がそれを実現できるだけの水準を満たすことを強く望んでいます。

























































がんの人追記



5月20日

昨日は、親族だけで火葬に立ちあった。とてもいい葬儀だったので、

お世話してくださったA葬儀社のOさんにフアックス送った。



昨日は大変お世話になりました。
家族だけの、宗教色のない、簡素な葬儀をして欲しいとの、主人の意向と、クリスチャンを含む家族の意向をくみ取って下さり、終始尊重してくださったこと、深く感謝しております。


Oさんが、ひとつひとつの手順ごとに、こちらの考えを確かめて優先してくださったので、願っていた通りの葬儀を行うことが出来、後味の良い、さわやかな印象を心に刻むことが出来ました。


同時に心のけじめをつけることができました。



納棺の時には、共に暮らした53年間の思い出がよぎって、一瞬放心状態になりましたが、きれいなスタッフの方が、ていねいに、やさしくひげを剃ってくださったり、化粧をほどこして下さるのを見ながら、「よかったね」というあたたい涙があふれました。


主人は長年、お花の写真を撮っていました。お花が大好きでした。セミプロ級の腕前です。葬儀は簡素でも、だからこそ、棺の中を花いっぱいにしてあげたいと、願っていましたら、ほんとうにそれが実現してびっくりしました。



ピンクや赤や、オレンジや黄色など、色とりどりのお花をあんなにたくさん、用意して下さって、ほんとうにありがとうございました。
わたしも家族も主人のことを思い出す時、きれいなお花畑で眠っている主人を思い出すことでしょう。とても幸せなことです。


ご利益にならないほどの少額で、こんなに心のこもったすてきな葬儀をして頂いて、家族一同感謝しています。

ほんとうにありがとうございました。




5月21日

心のはり裂けるという思いをはじめて経験した。子どもたちが帰った夜、さびしくて、つらくて、号泣した。「おとうさん、おとうさん」と叫びながら・・・・



体半分がはぎとられるような、そんなどうしようもないつらさを味わいながら
「身の置き所がない」と、主人が言っていた言葉を思い出した。


がんの副作用で全身倦怠感に苦しんでいた時、主人は、よくそう言った。

「身の置き所がない」と・・・・



今のわたしも、つらくて悲しくて、さびしくて身の置き所がない。

夫婦は一体だから、からみあった木のようなもの。残された木は、危なっつかしくて、ようやく立っているようなもの。でも当面は、このぶざまな姿受け入れていかなければ・・・・


それにしても、主人がどんなにかけがえのない存在だったか、支えだったかと改めて思う。



5月22日

今日は、関係者への死亡通知の用意をした。



風かおる新緑の頃となりましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
実は、突然のお知らせとなりましたが、夫・成夫が、先日亡くなりました。
平成22年5月16日(日)享年84歳でした。


死因は、昨年1月に発見された末期がん(悪性リンパ腫)でした。

夫は、入院を嫌って、最期までわが家で暮らしたいと願っていました。


それで、家族は、大学病院・地域の訪問医療・介護制度など、フルに活用して、その支えを得ながら、一方で、知人友人にも助けられ、在宅看護に取り組みました。



分からないことや、失敗することも多かったですが、「家で死にたい」という本人の希望に沿えてほんとうによかったです。


主人は、1年半にわたる闘病生活のほとんどを、家族と共に、日常の中で過ごすことができ、とても満足していました。



趣味のペン立てを作ったり、散歩をしたり、音楽を聴いたり、おいしいものを食べたりと、普段の生活を楽しんでいました。


家族としても、夫婦のきずな、親子のきずなが、一層強まり、いい時間を共有することが出来、ほんとうによかったと思っています。



主人は末期がんが進んで、5月に入ってからの日々は、お腹の痛みと、全身倦怠感に襲われ苦しそうでした。


そして次第に食べたり飲んだりが出来なくなりましたが、本人は、その状態を自然なこととして受け入れ、点滴や胃ろうによる延命措置を望みませんでした。その結果、脱水症状によって死期が早まったかもしれませんが、本人の意思として、家族はそれを見守りました。


「言うことなし、ありがとう」の言葉を残して主人は亡くなりました。文字通り、眠るように安らかな旅立ちでした。


温厚でやさしくて、思いやりがあり、夫としても父親としても自慢できる人でした。



主人は、自分の死についても、自らプロデュースしており、

・葬儀は家族のみにて簡素に

・死亡通知は死後10日くらい経ってから

・お香典などは、辞退するように

とのことでした。


それで、本人の遺志として、そのようにさせていただきました。


趣味だったお花の写真を同封させて頂きましたので、ひととき故人を偲んでいただければ幸いです。


これまで、ほんとうにお世話になりました。主人に代わりまして心からお礼申し上げます。


                           妻 幸代






























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今日夕方 がんの人亡くなった。

文字通り眠るような穏やかな死だった。

おやすみなさい おとうさん・・・・楽園で会いましょう。


主人は、朝からうとうとと気持ちよさそうに眠っていたが、お昼ごろに目をさまし「おしっこがしたい」とのこと。居合わせた和則が、主人を起き上がらせ、しびんをあてがうと、ほんのチョロチョロと用を足すことができた。ところで、昨日は、オムツの取り換えでパニクったので、今日はみんなで、手際よくやろうと
決心していたが、大の方はその気配なし。


ここ5日ばかり、ほとんど食べたり飲んだりしていないので、出るものがないのかもしれない。
はじめは何とか食べて欲しいと思いインシュア・リキットを吸い口で飲ませようとしたが、「もういい」との意思表示。水も同様「もういい」としっかり口をつぐんでしまった。


「食べられなくなって飲めなくなったら、そのままにしてくれ」と言われたことを思い出し、主人は自然な死に方を選んでいるのだと、みんなで、その意志を尊重し見守ることにした。でも腸だけは、「食べたいよー」とくーくー大声をだしっぱなし。びっくりしたのは、一度、みゆきが吸い口を主人の口にあてがうと、
その時には少しだけ水を飲んだこと。娘はやっぱり違うんだ。


それにしても主人はいさぎよい人・・・・最後まで自分の意思、自分の人生を生き切ろうとしている。


夕方、ベッドの前で食事をとりながら、主人の方を見やると、いかにも気持ちよさそうに眠っている様子。痛みもモルヒネで抑えられているらしい。よかったねと思いながら、そのまま主人の方を見ていると、急に主人の目が開いた。「あっ、目が覚めたの?」と近づくと、目は開いているものの、
反応なし・・・あわてて利治を呼びながら頭を抱えると、主人は、開いた目を閉じふ~っふ~っと2回ほど息を吹き出してそのままがくんと腕の中で息絶えた。


眠るように死にたいと言っていた人・・・
ほんとうに眠るように死んだ。安らかで、おだやかな死に顔だった。
やったね、おとうさん!