「茶の湯道」

「茶の湯道」

残躯天のゆるす所、楽しまずんばコレ如何。

これは2年前のカレンダー。

 

2月15日は、3日後に亡くなるオカンが最後に生きてる証を刻んだ日。

 

2年前の今頃は、病院の待合室でオカンの手術が終わるのを待ってた。

 

テレビにはWBS。ニュースの内容はまったく入ってこなかったけど、大江アナがメインキャスターだったのを覚えてる。

 

まだコロナ禍だったから、術後の経過がわかるのは一週間後になると言われて帰宅。

 

夜は入院の準備。絶望感もあって眠れず。ほぼ寝ずに翌日は裏磐梯へ。すびちゃんのSUBARU車雪ロケ。

 

結局、2月15日はまだ意識のあったオカンと過ごせた最後の日、最後に会話などを交わした日になった。命日よりもむしろ、重い思い出のある日。

 

今も、3日に1度はオカンの夢をみる。

 

 

 

 

 

 

ごめん、また忘れてたわ。

 

でも、世間がクリスマスになると思い出す。3日遅れになってもうたけど。

 

それにしても、我が家とは思えぬええ写真やね。こんな時代もあったのだな。

 

裏に「5年7月」って書いてるから、平成5年? 

 

そのころは、すでに奈良へ引っ越したはずやけど、若江岩田は奈良から近いし、奈良から来たんやろね。

 

奈良へ引っ越す直前は、とてもやないけど、こんな雰囲気の写真が撮れる状況じゃなかったもんな。

 

たぶん、奈良へ移住していろんなものから解放されてスッキリしたタイミングかな。

 

近鉄ハーツ、ええとこやったなぁ。いつも賑わってるように見えたけど、なくなって寂しいね。

 

 

 

 

 

 

 

 

8月9日は長崎が被爆したのを思い出す日。

 

それ以外では、あの近藤真一投手が高卒プロ入り初登板でのノーヒットノーラン達成記念日でもある。

 

あれから36年になるとは! もっともっと昔のような気がするね。中2の頃だったかな。

 

東大阪市・玉串の文化住宅で、テレビ以外の電気をすべて消した暗〜い部屋で、三角座りしながらひっそりと観てたのをよく覚えてる。ボリュームも最小限。何かに怯えていたのか。

 

パリーグの試合がテレビ放映されることは滅多にない時代だったから、基本、夜はいつも巨人戦のチャンネルに合わせる。

 

「多球場の途中経過」を知るためだけに巨人戦を観てて、どっちの応援をしてたわけでもなかったたんだけど、この試合だけは固唾を飲んで近藤真一のノーノー達成を願ってた。

 

9回表、最後のバッター篠塚選手へのカーブは、やや高めのボール球くさかったものの、アンパイアは空気を読んでストライクのコール。

 

ナイスジャッジ! と、真っ暗な部屋で、ここだけは叫んだのを今でも覚えてる。

 
 
 
10年ぐらい前、取材で篠塚さんご本人に会ったとき、「近藤真一さんの最後の球は、ボ・・・」と、ワシが質問を言い切る前に「あれはボールです」と真顔でキッパリ答えられた(笑) 長年にわたり、同じ質問をされ続けてきたらしい(笑)
 
これも、もはや遠い遠い思い出。
 
群馬も太田も、基本野球熱が高く、野球経験者がゴロゴロしてるだけど、野球をする子供は減ってるようだから、子供たちの野球熱を復活させたいと思う。
 
「スポーツ全般が盛んな街」という方向にはすでに向かってるから、不可能ではないはず。
 
そして「モータースポーツ」もスポーツ扱いしてもらえるようにしたい。