郡場 寛~その2 | 青森の鉛筆

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「私の心を激しく打ったのは勝った日本人科学者の思い遣りや寛大さと言うより、敗けてもなお、これだけ立派で、永久に後世に受け継がれてゆく業績を残した彼らの偉大さであった。敗残者はいまや勝利者である敵性人の心に大いなる勝利の印を刻みつけた。敗けてなお勝つとはこういうことを言うのだ」

皆さん、こんにちは

青海林檎です青林檎

昨日の続きで、植物学者・郡場(こおりば)寛についてのお話です。


日本軍が進駐した当時、シンガポール(昭南)植物園の園長はイギリス人のリチャード・ホルタムでした。

シンガポール植物園が日本軍に接収されたあと、ホルタムと副園長のE・コーナーは投獄されかけましたが、寸でのところで助けたのが、郡場寛でした。

郡場は、同じく日本から来ていた植物学者・徳川義親とともに、植物園の植物の保護に務め、ホルタムの研究の後押しをします。

シンガポールでの郡場の活動のほとんどは、植物園の保護だったようで、特に何かの研究をしていた形跡は見当たりません。


1945年8月になり、日本が無条件降伏すると、郡場はシンガポール西部にあるジュロン島の捕虜収容所に収監されます。

この時、ホルタムが郡場の釈放を求めてイギリス軍司令部に掛け合いましたが、郡場はむしろ、同じ日本人のいる収容所に留まることを、ホルタムに伝えます。

冒頭の一文は、この時のホルタムの言葉です。


収容生活は思ったよりも短く、1946年1月に日本に帰国します。

帰国後は京都大学の名誉教授を務めてましたが、1954年2月、要請を受けて、弘前大学の学長に就任します。

当時は大学として発足したばかりの弘前大学でしたが、郡場は新たに、農学部を設立します。

ところが、学長在任中の1957年12月、大学内の公舎の浴室で倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。


既に遺言はしたためられており、葬儀後、郡場の遺骨は子供のころに育った八甲田山の山頂付近に散骨されたそうです。

参考サイト下矢印

郡場寛(Wikipedia より)Wiki