細木は、1955年、弱冠17歳で、お母さんのスポンサーの援助を得て、

東京駅高架下に「ポニー」というスタンドコーヒー店をオープンすると、

高校は3年で中退し、店の切り盛りに専念。すると、見事繁盛させたそうで、

わずか半年で売却すると、

今度はその売却資金で新橋のガード近くに、クラブ「潤」をオープン。

すると、こちらも翌年には売却し、

1958年には、20歳で、銀座にクラブ「かずさ」をオープン

 

島倉千代子

細木と内縁の組長とがグルになって島倉をダマし、謝金を16億円に。

細木は、島倉の借金を肩代わりした引き換えに、島倉と一緒に住んで、

巧みに島倉を説得し、島倉の興行権を握ると、

1977年3月には、「ミュージックオフィス」という芸能プロダクションを設立。

必死で働けば1年で返し終えることが出来たかもしれない借金を、

3年間、島倉を働かせ、莫大な興行収入を得た。

 

島倉は、暴力団の脅威から守ってくれた細木さんの言いなりで、正確な負債額を把握していなかったそうですが、やがて、さすがに、働いても働いても借金が減らないことに、

おかしいと気づき、レコード会社「日本コロムビア」に仲裁してもらい、

「日本コロムビア」が細木から島倉の興行権を取得。

こうして、島倉は「日本コロムビア」に移籍する。

細木は、手切れ金として、1億数千万円(2億円とも)を受け取った。