2012-01-27 00:00:00

沖浦吉郎兵衛・瀬戸内海の「佐倉宗五郎」

テーマ:沖浦吉郎兵衛
沖浦吉郎兵衛 功徳碑
沖浦吉郎兵衛 功徳碑 posted by (C)鳶眼

【沖浦吉郎兵衛】
嘉永五(1852)年生ー明治三十三(1901)年没

◎出生:鞆平網元の家
◎渾名:瀬戸内海の「佐倉宗五郎」

明治十七(1884)年8月25日、吉郎兵衛32歳の頃、北海道・沖縄を除く九州から東北まで、日本全土に甚大な被害をもたらした巨大台風が発生。全国での死者数1992人にまでおよぶ。
鞆の浦もその例外ではなかった。平地区の波止場は怒濤の大波により破壊された。


住むさとの末たのもしく思ひなば 
こころ一つにつくせ皆なびと


<住む里の、末、頼もしく思いなば、心をひとつに、尽くせ、皆人>

※波止の復旧作業と整備に奔走した『沖浦吉郎兵衛』が詠んだものと言われている句



明治二十年代には、鞆後地村漁協を発足。その組織のリーダーとなる。
当時、燧灘は、鯛・鰆(サワラ)などの好魚場として、鞆の漁民だけではなく、広島・岡山県はもとより、対岸の四国は愛媛県の漁船で賑わっており、江戸時代から魚場争いも絶えなかったという。

明治二十二(1889)年、ついに、岡山県(笠岡・真鍋島など)の漁業者と、鞆・走島の漁業者との間で紛争が勃発。その時、吉郎兵衛が仲裁に入り卓越した交渉力で調停した。そのお手並みに感じ入った岡山県知事は、吉郎兵衛を表彰したという。

明治二十六(1893)年4月、愛媛県の漁業者と広島県の漁業者との間で紛争が勃発。
これを『燧灘紛争』と呼び、両県の漁業者約3,000人・約300隻が海上での大乱闘となる。
ことの発端は、愛媛県側の県境に沿い、ほとんどの海域は愛媛県側の漁場、「燧灘に入るな」と広島県側の漁業者に主張。生活を懸けた広島県側の漁業者にとって納得いく理由ではなかったのである。
この紛争では、国が仲裁に入り、魚場に入る広島県側の漁船数を制限。という形で休止する。

吉郎兵衛は交渉を続けるが・・・
明治三十三(1900)年、永眠する。

その三年後、
明治三十六(1903)、燧灘紛争の集結は、広島県側漁業者の条件を有利にし終結した。

昭和三(1928)年11月10日、吉郎兵衛の功績を讃え、平地区住民により『沖浦吉郎兵衛 功徳碑』建立。


上記写真は、淀姫神社(明神山)のふもとに実在する『沖浦吉郎兵衛 功徳碑』


【沖浦吉郎兵衛 功徳碑】
昭和三(1928)年11月10日建立
この功徳碑は、明神山(淀姫神社)の麓にある。
◎高さ:2.3m
◎幅:1.5m
裏面の漢文は、鞆平が生んだ無類の漢学者・表述吉 書。住民の生活を守った吉郎兵衛の功績を讃える銘文が刻まれている。

◎外部ブログ:鞆の浦検定ブログ参照
沖浦吉郎兵衛/住むさとの末たのもしく思ひなば・・・
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10540402028.html


沖浦吉郎兵衛 功徳碑
沖浦吉郎兵衛 功徳碑 posted by (C)鳶眼



より大きな地図で 淀姫神社 を表示

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