ボクシングを始めて五、六年になります。
以前にいたジムは、キッズクラスもある、どちらかというとフィットネスを主軸にしたところでした。リングとして区切ったフロアの一画で、一ラウンド2分間の軽いミット打ち、たまに軽いマスボクシング、という練習をしていました。
今のジムに移ってきていちばん驚いたのは、女子だろうが、子供だろうが、高齢者だろうが、まったく差別なしに一ラウンドは3分間で、望めばいくらでもリングに上がらせて貰える、ということです。
憧れの(本物の)ボクシングリングに!
はじめてそこに立ったときは、本当に嬉しくて、全身が心臓になったみたいにドキドキしました。
いや…今もやっぱり同じ気持ちです。リングは聖域。
さて、私はいつも男性の会員さんと対戦練習をしています。
いわゆるマスボクシングで、本来はパンチを当てずに寸止めしたり、力を入れずにフォームだけ練習するものですが、このジムのマスはかなり本気。
人によっては、ガチでバトルかと見まがうような、火花の散る熱戦を繰り広げておいでです。
私はいちおう女子ということで、こちらはパンチを当ててもいいけれど、相手は手加減して絶対、ほとんど、あまり、多少…しか打ち返さない、という、優し~いルールで練習させて貰っています。
これまでいろいろな方の胸をお借りしましたが、当然、皆さん上級者。とても上手な方ばかりです。
それは当然で、私のような下手女子と対戦したら、慣れない人であれば感覚が狂って、つい強いパンチを当ててしまうかもしれません。
(*_*(☆(○=(゜ο゜)o
そうしたリング上の事故が起きないように、未熟者をうまくあしらう技術に長けた、しかも温厚な人を、トレーナーが選んでくださるのです。
しかし、先々週。
対戦練習の相手が見つからず、どうしようかな…と迷っていたとき。
トレーナーがまさかの一言。
「今日は、あの彼とマスしてみたらどうですか。頼んできましょう」
(°Д°)えっ
元プロボクサーのSさんじゃないですか!
あの、めっちゃ強い、めっちゃ巧い…!
いやいやいやいや、それはない!
無理!
と慌てる私を尻目に、トレーナーはSさんにマス対戦依頼を取り付けてしまいました。な、何!そのマッチメイク!
トレーナーは、私の下手さを忘れているに違いありません。
ディフェンスしようとして、自分から当たりに行くほど下手なのです。
以前、女子の上手な人と対戦したときは、とても華奢で小柄な人だから、とても殴れないなあ…と困惑していたら、すごいストレートを見舞われて口血が出ました。
元プロボクサーの方が百分の一に加減したパンチでも、ディフェンスが甘すぎる私がまともに受けたら、た、たぶん…
飛ぶ。
「リングにかけろ」みたいに(←古い)窓をガシャーンと突き破って飛んで行ってしまうに違いない。
怖えぇぇぇぇ、と思いながらリングに上がります。
Sさん、爽やかに微笑んでグローブを合わせてくださいましたが
ゴングが鳴ったら
顔が別人!
視線がぜんぜん読めなくなってしまったのです。
感情も、意図も、まったく読めない!
それでいて、一ミリも隙の無い、頑丈な扉のような防御。
どこからどう動いてくるか全然読めないので、
こちらから仕掛けることはとてもできません。
私は、リングに根が生えたように動けなくなってしまいました。
いつ何が起きるかわからない緊張感で、動いていないのに汗がダラダラと滴ります。
ものすごく怖い。
気が付いたらラウンドが終了していましたが、
途中からあまり記憶がありません。
先に動いたのはSさんだったと思いますが、
膝にターボがついているのか!?と思うような瞬間的な移動で、
とんでもない方向からジャブがきたように思います。
慌てて動いて後手後手に回り、何もできず…という状態でした。
リングをおりたSさんは、もとの爽やかな表情に。
茶色い瞳がキラキラ光っています。絶対にさっきの魔物とは別人です。
瞳孔が見えなくなって怖かった、と話すと
「ああ、それはね。視線を読まれないように、目線を消すんだよ」とのこと。
いや、それって比喩だと思ってました…。
まさか本当に瞳孔を消してしまう人がいるとは。
どうやるんですか?と聞いてみて、少しだけわかったように思えたのは
乗馬における「ハードアイとソフトアイ」という技術を思い出したからです。
サリー・スウィフトさんという方の書いた「センタード・ライディング」という乗馬本に
「騎乗しながら一点を強く見つめる“ハードアイ”は、馬に緊張と動きにくさを与える。
視界全体をゆるやかに捉える“ソフトアイ”を使うことが重要」と、書かれています。
Sさんが「視線を読まれないため」に行っている眼の使い方が、まさに“ソフトアイ”だったのです。
視界全てをゆるやかに、よどみなく捉えていて、緊張を解いているからこそ相手の動きに本能的なスピードで反応できる眼。
本物のボクサーはやっぱり凄い!と思いました。
馬に乗っているときは“ソフトアイ”を心がけていますが、
リングで試してみる勇気はありません。
私がそんな目つきをしたら、
「何をボケっとしとるんじゃコラー」とばかりに、勇み立った“ハードアイ”の対戦相手に、
たちまちふっ飛ばされて、窓をガシャーンと突き破って、
天高く飛んで行ってしまいそうですから。