【53カ月目の福島はいま】「自立」突き付けられる飯舘村民。失われた故郷と見えぬ「帰還後の生活」
全村避難中の飯舘村を、村民の案内で廻った。政府は村民に「自立」を促し、村長は再来年の避難指示解除を目指す。だが、取材に応じた村民は、誰もが見通しの立たない「帰還後」に対する不安や苦悩を口にした。賠償金だけでは解決しない村の再興と喪失感からの回復。「福島に何度も足を運んでいる」と公言してはばからない安倍晋三首相は、原発被災者の真の本音にこそ耳を傾けるべきだ。降り続く冷たい雨は、故郷を奪われた村民の涙のようだった。
【「村が無くなっていく…」】
「昔の、あの頃の村に戻れば最高だけど…。俺が生きている間は前の村には戻れないべ。死んだ後もどうかな…」
米、インゲンマメ、肉牛と手広く農業を営んできた男性(69)は村内の自宅で高校野球を観ながら寂しそうに語った。ひと月に数回、避難先の伊達市から自宅に戻って来ているが「今年もお盆らしくないお盆だった」と振り返る。孫は9人。かつては夏休みともなれば子や孫が訪ねてきて、花火やバーベキュー、流しそうめんなどで楽しんだものだった。しかし、原発事故から4年が経過しても自宅の雨どい直下は12μSv/h超、村役場から提供された線量計は、室内でも0.6μSv/hを示す。「放射線量が高い状況では呼べないよ。こちらから子どもたちの所を訪ねるしかないから疲れちゃったよ。金も余計に使うしなあ」。
自然豊かな飯舘村。昼夜の寒暖の差は、トルコキキョウやリンドウなどの花をより美しく咲かせた。「ここでの田舎暮らしが好きだったんだ。でも、今は真っ黒いフレコンバッグばかり…。『2年後に運び出す』という約束だったのに」と男性。汚染されてしまった土地。今後の土地改良で以前のように畑仕事が出来るようになるのか。生産を始めたとして、買ってもらえるのか…。失ったものは「収入減」だけではない。かつては「休みが欲しい」と愚痴もこぼれるほど、一年中忙しかった。それがある意味、生き甲斐でもあった。今は、せめて田畑が荒れないようにと草刈などをする日々。「山の除染は難しい。川も沼もやらない。俺も年も年。後継者もいない。もう一度『売れる野菜』を作れるのか」
国も村も避難をやめて戻れと言う。いつまでも被災者ではなく自立しろと迫る。「においもしない。浴びても痛いわけでは無い。でも、確実に放射線は存在する。そんな村に若い世代は戻って来ないよ。若い世代が住まなければ、子どもたちの姿もなくなる。俺たちのような年寄りばかりの村でどうやって生活していくのか、見通しも立たないね。『自立』と言うけど、金じゃないんだ。もちろん金は要る。でも、金じゃないんだよなあ…」
冷たい雨が降り続く中、男性は小さな声で言った。
「村が無くなっていく…」
(上)飯舘村の中でも、長泥地区はとりわけ汚染の度
合いが高い。今も立ち入りには許可が必要だ
(中)取材に応じてくれた男性の自宅。雨どい直下で
手元の線量計は12μSv/hを超えた
(下)男性宅の黒板には「プルサーマル」「放射」の文字
が生々しく残っている。「村内放送を受けてさっと書い
たものを消さずに残してあるんだ」と男性
【「必要なのはお金だけじゃない」】
菅野典雄村長は、再来年の2017年3月までには避難指示が解除されることを目指すと表明している(汚染の度合いがより高く「帰宅困難地域」に指定されている長泥地区は対象外)。村内では除染作業が連日行われ、至る所に無数のフレコンバッグが山積みされているが、それでも放射線量は高い。長泥地区以外も「居住制限区域」や「避難指示解除準備区域」に指定され、立ち入りは自由に出来るものの、宿泊は禁じられている状態だ。
村内で農家レストランを営んでいた女性(70)=福島市に避難中=は「戻ってどうするの?」と話す。地産地消を掲げ、タラノメやインゲンマメ、ナスなどの食材をその日の朝、収穫して「気まぐれ膳」として振る舞った。村や税務署に働きかけて製造許可を得たどぶろくも人気だった。生き甲斐だった店。生活が一変した4年間の喪失感は、私たちが想像する以上に女性を苦しめた。
「今は6万円を上限として家賃を補助してもらっているから避難出来ているけれど、避難指示が解除されたらこれも打ち切られるから払えなくなっちゃう。結局、村に戻るしかないわよね。でも、戻ったって今までのように地産地消の店は出来ない。収入は?どうやって生きて行けと言うのよ」
当初は避難する意思は無かったが、自宅の雨どい直下が50μSv/hを超したと聞いて、村を離れた。ある地区の仮設住宅に入居したいと申し入れたが「わがままは聞けない」と役場の職員に一蹴された。避難する際、取材に来ていた新聞記者に次のような想いを伝えたが、紙面には載らなかったという。「東電の偉い人や政治家に留守番していてもらいたいわ」。その想いは今も変わらない。
2011年3月15日は、夫の手術が福島県立医大病院で行われるはずだった。原発事故を理由に手術が延期されてしまい、ほどなく夫は旅立った。店も夫も故郷も失った。生き甲斐を見出そうと、古い着物をひな人形などに作り変える活動を避難者たちと始めたが、喪失感から立ち直るには時間がかかった。最近、ようやく元気が出てきたと笑顔で話す。「お盆休みに伊達市内の宿泊施設で9人の孫たちと会ったから今日は元気。財布は疲れたけどね。こうやって話していたら、何だかテンションが上がってきたわ」。
原発事故がもたらす喪失感。しかし、政治はそこを無視して「最後は金目でしょ?」と札束をちらつかせる。「自立?自立しろと言う前に自立させてくれと言いたいよ。お金は確かに必要だけど、お金だけじゃないもの」。お金ではないものを見出せたとき、当事者でない私たちは原発被災者の本当の苦しみを理解出来るのかもしれない。
(上)女性は村内で地産地消の「農家レストラン」を経営
していた。その日の朝、収穫した山菜やキノコを「きま
ぐれ膳」として振る舞っていた
(中)避難先の福島市内でどぶろくの製造を続ける女性。
「自立しろ?そういうことは自立させてから言ってよ」
(下)蕨平地区では減容固化施設が建設中。除染で生じ
た放射性廃棄物を燃やす計画に反対する立て看板も設
置されていた
【村民の想いとかい離した〝復興事業〟】
村民の想いをよそに、飯舘村では「復興」に向けた取り組みが進んでいる。
7月31日には、セブンイレブンが「復興庁や福島県、村の要請に基づき」(同社)開店した。今のところ、除染作業員の利用が多いという。田村市都路地区にも、帰還のシンボルとしてファミリーマートがオープンした。飯舘村でも村民帰還への地ならしが始まっている。
一方、蕨平地区では環境省による仮設焼却炉の建設が進む。完成すれば、村内で生じた除染廃棄物だけでなく、周辺5市町(福島、南相馬、伊達、国見、川俣)の廃棄物も燃やす。環境省によると、焼却炉の処理能力は1日240㌧。「福島復興のためには、大量の除染ごみ等の速やかな処理が必要」、「村民の帰還に向けて生活環境を改善し、福島県の復興に貢献するため」と環境省はPRする。燃やすことで放射性廃棄物が減り、排ガス中の放射性セシウムは「バグフィルターでほぼ完全に除去します」と強調する。しかし、鮫川村で稼働中の仮設焼却炉に関しては、放射性セシウムがバグフィルターでも53-78%しか除去出来ていないとの論文がある(2014年12月1日号参照)。村民のため、とうたう焼却炉が村民に二次的な被曝を強いる可能性があるとして、村内には建設に反対する立て看板も設置されている。
村役場前の地蔵。頭をなでると、村民歌が流れてきた。
「土よく肥えて、人情けある/その名も飯舘、わがふるさとよ/実りの稲田に、陽は照りはえて/続く阿武隈、山幸歌う」
福島県立相馬農業高校飯舘校。モニタリングポストの数値は2μSv/hを超えていた。原発事故がどれだけ美しい自然を破壊するか、人々に喪失感をもたらすか。飯舘村の現状から学び、反省するべきことはあまりにも多い。
(了)