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#8  Going Way Back 中編 -将絢の返事-

 

2021年10月31日

僕は”TIME”に続いて3曲目の制作となる”忘れんな”をVINYL7でレコーディングした。

4日後にはヒサタカ君からミックスがあがってきて、僕はその仕上がりにとても満足した。

”TIME”の次にリリースするシングルとしては、もう少し意外性のあるものが良いのではないかと話し合い、リリースタイミングは考えるとして次の曲に取り掛かろうということになった。

 

するとヒサタカ君から新たなビートとともにこんな提案があった。

 

「まだざっくりしか作ってないけどこの前の”忘れんな”でパート2的なやつやってみーへん?

店で聴いたJust Iceの”Going Way Back”のエムラスタ版。

自分のルーツ振り返る系で、忘れんな、で締めれたらきれいかな。と。

今の体制(エムラスタ&Matsumoto Hisataakaa)で言うとそこまで変に湿っぽくはならんやろうし。笑」

 

Just Iceのこの曲はVINYL7でヒサタカ君に教えてもらった。

KRS-ONEが客演していて、二人は「We go way back(昔からの付き合い)」のようだ。

 

僕はこのアイデアはとても面白いと思ったし、そうなると、やはり将絢に声をかけることになる。

 

先にも書いたが、僕と将絢はこの頃にはかなり頻繁に連絡を取り合う距離感だった。

ただ、一緒に曲を作るとなるとそれは全く別の話しだった。

 

そんなタイミングでなんと、たまたま将絢からLINEが届いた。

何ターンかの何気ないやり取りの後、僕はビートとともに一緒に曲を作ってみないかと送ってみた。

 

すると将絢から、

「はーい。とりあえず聞いとくわー。」

と返事があった。

 

そしてその数時間後に、

「大体分かったわー、ワンバースとフック出来たらまた聞かせて。」

と届いた。

 

どうやら将絢はラップをするようだ。

 

僕は早速、全体構成をイメージすべく前半部分はJust Iceの曲に倣うかたちで各パートを配置しリリックを書いた。

 

岐阜で一緒に遊んだ頃から大阪のアメ村でラップをし始めた頃、そして今のメンバーに出会って初めて音源をリリースした頃を思い出しながら書き進めた。

 

これまで過去を思い出すと哀愁も一緒に手を繋ぎ訪れた。

しかし今回は少し違った。

まるで新たな旅に出る時に一枚の大切な写真だけポケットに入れるような感覚だった。

 

そして数日後、僕のパートのリリックを書き上げ将絢に送った。

 

将絢から返事があった。

 

「はいー、思ってたより熱量高いね!

気ぃ使うわ!」

 

とのことだった。

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#7  Going Way Back  前編 -将絢との高校時代-

 

1997年某日

僕と将絢は岐阜県の長良川にほど近い高校の中庭で、休み時間中にくだらない話しをして過ごしていた。

三階建ての校舎の窓には女子高生がずらりと並びキラキラした眼差しで将絢を上から眺める光景も三年生になった僕たちは見慣れていた。

 

将絢とは入学してすぐになんとなく会話することが多くなり、それ以来ずっと一緒にいた。

僕は彼がビジュアル的にそれほどまでにカッコいいということに気付いておらず、背の高い面白いやつだなとしか思っていなかったため気後れせずに仲良くなっていったのかもしれない。

 

僕が将絢に惹かれていったのは、彼のユーモアと美学にあった。

 

高校生ながら彼は当時60歳を越えたおひょいさんこと藤村俊二さんに憧れていた。白髪交じりの初老の男性の粋な身なりと振る舞いに影響を受けていた。

ほんとに変なやつだと思いながらも、いつも興味を持って話しを聞いていた。

 

彼は、「オレが物心ついて最初に覚えた言葉は”野暮ったい”だったことを今日のお前を見て思い出した。」と、言われている本人も含め笑わせた。

 

また、どこか影をもっているようにも感じた。

その決して鮮やかでないオーラも含め、彼の魅力は高校生の時にすでに完成されていたように思う。

 

それから二人は関西の大学にそれぞれ進学した。

僕はあっという間に退学してしまったが、彼は京都の美大をRomancrewの制作とライブをこなしながら卒業した。

 

彼は時間があるといつも本を読んでいた。

それもあるのか活動初期のリリックでさえ彼の雰囲気をそのまま言語化できていると思ったし、ラップスタイルも彼のイメージそのものだった。

 

僕は彼が褒められると素直に嬉しかった。

嫉妬心など高校時代から一度も生まれたことはなかった。

僕は彼の魅力がより多くの人に伝わって欲しいと思っていた。

 

お気付きの通りRomancrewに感じるグループの「雰囲気」は将絢によるところが大きい。

逆に言うとRomancrewからはみ出る部分について、他の三人は個々の活動で表現してきたように思う。

それほど彼の表現は一貫していた。

 

僕たちメンバーはそのことをよく理解していた。

それだけに将絢の脱退はとてつもなく大きな出来事だった。

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#6  TIME 

 

僕は2曲目のリリックを書いていた。

 

Cherokeeは無我夢中に勢いでなんとか書けたが、2曲目はそうはいかない。

改めてヒサタカ君が作ってくれたMVを見返すと、やっぱり僕は歳をとった。

太ったし、髪も薄くなってきた。

 

思えば20代の頃はRomancrewの楽曲を聴いていただくとお分かりになると思うが、いつも背伸びをしていたし強がっていた。

 

40代になってせっかくやるんだから、あの時と同じ表現はしたくなかった。

 

しかし、ありのままを表現するのはとても難しい。

自然体のおじさんは、要するに普通のおじさんだ。

朝日眩しい出勤時に駅のホームであたりを見回せば、自分も含め等身大のおじさんだらけだ。

 

さて、どう表現しよう。

 

まずは声を張らずにラップしてみることにしよう。

なるべく普段話す声に近いキーにもしてみよう。

 

では肝心のリリックだ。

 

日々ドラマチックな出来事があるわけでもない。

 

しかし一瞬ふと感じることは意外とたくさんある。

その感じたことをクローズアップしたり、時に俯瞰したりしながら切り貼りしてみることにした。

 

その際にキャラ立ちという考え方は一度排除してみようと思った。

 

こんなんでほんとに成立するのかな、と思ったがヒサタカ君はじめ誰かに急かされるわけでもないので、仕事終わりの真夜中や週末に遊びながらじっくり書き進めてみた。

 

タイトルは”TIME”とした。

このリリックを書き終える頃、僕は少しだけ自然体を感じれたような気がした。

それは今の自分を受け入れることだったのかもしれない。

働きながらラップをすること、才能があると思っていたのにそうでもなかったこと、体力が落ちたこと、人生の折り返し地点にいるということ。

 

自分にもたしかにあった20代の頃の景色をもう見ることは出来ないけど、残された時間を感じて眺めるこの景色は40歳を経た今しか見れなかったように思う。

 

するとくっきりと浮かび上がってくるものがあって、そのすべてにありがたい気持ちになった。

 

そのことを「時」が教えてくれた。

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#5  Cherokee

 

ヒサタカ君から届いたビートは後に2021年8月13日にエムラスタ ソロシングル第一弾としてリリースすることになる”Cherokee”のビートだった。

 

テーマについても、「いまCherokeeに乗ってるんならそれをテーマにしよう。MVも作りやすくなるから。」とのコメント付きだった。

 

僕は本当に好きなビートだったし、早速リリックを書いてみようと思った。

 

しかし、これまで複数人で1曲を制作してきたため、改めてソロで1曲分のリリックを書くにあたり、途方もなく長い道のりに感じた。

 

3MCの頃はおおよそ1人16小節を書いて持ち寄った。

僕はいつも16小節の中でいかに自分のカラーを出せるかということに集中してきた。

 

ひとまず何とか16小節を書いてみたが、これ以上、言うことがない…

 

よし、2曲作る気持ちで書いてみよう。

と意気込んだが、残りは8小節しか書けなかった。

 

構成的にこの8小節は頭にもってくることにして、とりあえずこれを聴いてもらおう。

 

久しぶりのラップを人に聴いてもらうことにとても緊張した。

 

僕はラフ録りした音源データをLINEにアップし、ヒサタカ君へ目を瞑りエイッと送信した。

 

しばらくすると既読になった。

 

返信を待つ手は震えていたように思う。

 

ヒサタカ君から返信があった。

 

「とりあえずザーッと聴いたよ。発声にそんなにブランクは感じなくて良いと思った。ラップの内容は後半の方が好きかな。前半はちょっと具体的過ぎ。あと言葉の置き方はちょっとだけアップデートさせよか。

もうちょっとスペースを置いた方が良いかな。全部の小節では無いけど一拍目発声しないとこ作るとか。

口出すとこなのかどうかアレなとこもあるけどよろしくです!笑」

 

という、詳細にそしてだいぶ気を遣っていただいていることが分かるコメントをいただいた。

 

僕は何が正解かまったく分からない状態にあったので、言われたことを忠実に反映できるように努力してみた。

 

そして2回目のラフ音源を送った。

 

「めっちゃ良くなってる!

ちゃんと一拍目空いてるとこ!

言ってる事の内容もちゃんとエムラスタらしくて良いよ。

これこれ、感ある。

口出し過ぎたかなー、って心配してたんやけど。ちゃんと期待に応えてもらえて良かった。」

 

とのコメントをもらった。

 

僕は軽く泣いていたんじゃないかと思う。

 

それから何度かスタジオに入って練習し、レコーディングをすべくVINYL7へ向かった。

 

レコードに囲まれながら、ヘッドフォンをかけてコンデンサーマイクの前に立った。

 

レコーディングは練習の甲斐あって1時間もかからないうちに終了した。

 

ヒサタカ君はまたとても褒めてくれた。

 

それから数日後、お次はヒサタカ君がMVを撮影してくれることになった。

レコーディングの時も、MV撮影の時も、僕はまるでRomancrewの最初のEP”mi familia”を作っていた時のように、音楽で心から遊んでいると感じた。

 

初期衝動というものは20代前半までの宝物だと思っていたのに、40代にも初期衝動が舞い降りたことに心底驚いた。

 

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#4  VINYL7 RECORDS

 

2019年9月に僕はとあるご縁によって転職することを決めた。

 

ミュージアムの仕事の中でも、とくにクリエイターやデザイナーと仕事をする時間が好きだった。少しでも「制作」に触れていたいという気持ちがあったのかもしれない。

 

次の仕事はこれまで経験した新規事業開発を軸にクリエイターやデザイナーのハブになることを求められる業務内容だった。諸々の条件もピタリと合い、ミュージアムも軌道に乗り出していたことから卒業することに決めた。

 

ミュージアムの同僚たちはありがたいことに、本当に温かく送り出してくれて円満に新天地のドアを開くことができた。

 

それが現在の仕事でもあるわけだが、この職場でも人に恵まれてたのしく日々を過ごすことが出来ている。

いまの仕事は文化遺産を実写VRで撮影するカメラマンや、現存しない江戸時代の橋を復元したりするCGクリエイター、ゲーム制作会社やメタバースプラットフォームを構築する技術者たちと各プロジェクトごとにチームフォーメーションを設定し完了まで導くプロジェクトマネジメントを担当している。

 

ミュージアム内でも新たな事業立ち上げとともに色々なプロジェクトやイベントが開催されるごとに、各部署及びパートナー会社と大小様々なチームを結成し実施してきた。この時のノウハウがもちろん軸となっているが、思い返せば複数人で楽曲制作をしてきたRomancrewの経験が僕のベースになっているように思う。

いまの会社は副業が認められており、副業申請をして音楽の活動ができている。

 

入社後しばらくしてから子供も小学生になったり、現在の業務はBtoB(企業間取引)がメインであるためカレンダー通りの休みということもあって、少し時間にゆとりが出てきた。

 

すると次第に積極的に音楽を聴いたり、大阪の友人たちと会う時間も増えていった。

 

2021年4月にMatsumoto Hisataakaa君(以下、ヒサタカ君)の曲がYouTubeにアップされているのを見つけた。やっぱり僕はこのテイストが大好きだなと感じ繰り返し聴いた。

そういえば大阪に戻ってきてからヒサタカ君のレコード店VINYL7 RECORDSに行けていないなと思い、休みの日に行ってみることにした。

 

ヒサタカ君とは共通の近しい先輩であるKING3LDKさんを通して、僕は勝手に親近感を持っていたのだが、ヒサタカ君からすると「お、こいついきなりどうした」という感じだろうと思っていたので、京都の長屋でオーラを纏い佇むように見えたVINYL7の扉を恐る恐る開けた。

 

するとヒサタカ君はとても温かく優しく迎えてくれた。

 

店内で2時間ほどコーヒーを飲みながら話に花が咲いた。

 

ヒサタカ君が「落ち着いてきたんならまたラップやってみーへんの?ビート渡すからさ。」と言ってくださった。

僕は正直、約6年のブランクを経てラップすることなど出来るのだろうか、と思った。

しかしカッコいいと思いリピートしていた曲を作ったトラックメイカーから、活動もしていないこんな僕に曲をくださるという機会がどれほど貴重かということも分かっていた。

 

数枚の7インチを買って店を出た数日後、ヒサタカ君から1曲のビートが届いた。

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#3  クラシックカー

 

2015年4月から僕は大阪にある大正時代に建てられた赤レンガ倉庫を活用したクラシックカーミュージアムの立ち上げメンバーとして働き始めた。

 

誰かのツテではなくネットでたまたま募集を見つけて、面接を経て正社員として入社させていただいた。

 

ここで社会人として未熟な僕にたくさんのことを教えていただき大きく成長することができた。

 

このミュージアムは200台以上のクラシックカーを所有しており、立ち上げメンバーの僕たちは次から次へと展示室へ運ばれるクルマを洗い展示した。

 

ロールスロイスやフェラーリから、コルベット、マスタング、昭和の名車までドキドキしながら運転席に座った。

 

ミュージアムがオープンすると僕はヨーロッパ車と日本車の担当として展示と車両販売を行なった。

 

とくに思い入れがあったクルマはジャガーEタイプとシトロエンSM、いすゞ117クーペだった。

 

もともと好きだった1950年代〜70年代のソウルミュージックやロックンロールの時代背景に重ね合わせながら、この曲が流れていた頃にはこんなクルマが流行っていたんだ、とかこのアーティストはこのクルマに乗っていたんだ、と思いを馳せながらどんどんクラシックカーにのめり込み、がむしゃらに日々働いた。

 

ミュージアムの開館前と閉館後の時間が僕は好きだった。

 

開館前に美しいクルマたちが静かに佇んでいるのを一人でしばし眺めるのが好きだった。

 

閉館後には電気を落とし非常灯だけが照らすアメリカ車の展示室で、ビリー・ホリデイを少し大きめにかけて休憩したりした。

 

ミュージアムでは同じ立ち上げメンバーで同い年の相棒JUNちゃんといつも一緒に行動していた。

JUNちゃんは運転がうまくて、アウトドア好きで、優しい心の持ち主だった。

彼は僕にないものをたくさん持っていて、とても影響を受けた。

閉館後の夜10時頃、まるで昭和の純喫茶にいるかのようなプリンス・グロリアの車内で「あのクルマのここがカッコいい」とか「こんなふうに歳をとっていきたいね」など語り合ったりした。

JUNちゃんはいま最高に美味しくてカッコいいドーナッツ屋さんのBirdというお店にいて今でも会いにいったりする仲だ。

 

そんな目まぐるしく充実した日々が過ぎていく中で、いつしか僕はもうラップは出来そうにないなと感じながら、クラシックカーとともにこのミュージアムで約4年間を過ごした。

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#2  新幹線

 

2015年3月僕は大阪に戻ることにした。

 

東京には10年住んだが、良くも悪くもずっと大阪を引きずっていたように思う。

「Romancrewの活動を大阪の人たちはどんなふうに見ているのだろう?」

そんなことがずっと気になっていた。

 

振り返ると、そんなんじゃ売れないよな、とも思うし、それがいまに繋がっているとも思える。

 

それでも東京で出会った方々は僕たちにとても温かく接してくださったし、とくに東京を離れる前の数年間は当時住んでいた西小山の地元の方やお店の方との交流も生まれ、なんとなく地に足がついてきた感じにしていただき、そして僕は東京が大好きになった。

 

大阪へ戻る直前の2015年2月には渋谷のclub bar FAMILYで友人たちが僕を送り出すパーティーを一緒に企画してくれた。

 

そのパーティーでは愛媛からDJ TOKNOWが、そして脱退した将絢も来てくれてRomancrewの過去曲も含めてライブをした。

そんなことからも分かるように僕たちは互いのことを尊敬し合う関係のままだった。

 

それから数日後、僕は大阪へ向かう新幹線に乗って東京を後にした。

その新幹線が途中、新横浜で停車した時、サイプレス上野がホームで待っていてくれて缶ビールを手渡してくれた。

 

僕はまるで過去へと巻き戻されるように流れる窓の外を眺めながら、皆に感謝の気持ちでいっぱいになると同時に、「夢」に敗れたことを確信した。

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#1  夢

 

もはやこのブログを見ている人がいるのかも分からないが、約10年ぶりのRomancrew新曲”COLLAGE”リリースを機に動かしてみようと思う。

 

ヘッダーはまだ3人のままだけど、どなたに連絡して変更いただくのかも分からないのでひとまずこのままにしておく。

 

 

2024年10月9日リリースの新曲をもって脱退していた将絢が復帰した。

 

過去記事を遡ってみると2012年7月に将絢は脱退したようだ。

 

あの頃のことは断片的に覚えているが、だいぶ朧げになっている。

 

それは将絢脱退後も連絡を取り合っていたり、近年はとくに同郷の友人たち数人のLINEグループでしょーもないことをポストし合ったりして、まるで音楽活動を始める前のような関係に戻っていたから、僕の中では彼の脱退が決して大きな傷として残っているわけではなかった。

むしろそんな関係に戻れたことを少し嬉しく感じていたりもした。

 

ただ、Romancrewとしてはやっぱり心残りがあった。

 

自分たちの「夢」はなぜ叶わなかったのだろう、と。

 

僕たちの「夢」はRomancrewの音楽を作り続けることだった。

そんなシンプルに思えることが、なぜ叶わなかったのだろう。

 

将絢が脱退してから3人で活動を続け”トラジコメディ”というアルバムを作った。

うつむきながら無理矢理に作った。

制作の途中にDJ TOKNOWが地元の愛媛に帰った。

その後もMC2人で制作を続けた。

ライブはHIRORONやBuzzer Beats ChivaちゃんにDJをサポートしてもらいながら続けた。

渋谷のライブハウス チェルシーホテルでワンマンもした。

キャパは300名であるが皆さんが来てくださりソールドアウトだった。

 

けれど僕はもう限界だった。

引き出しも空っぽだった。

 

この時僕は35歳。

 

40代に再びラップができるように色々なものを蓄えようと思った。

 

一回お休みしたらもう出来なくなるかもしれないと思ったが、その時は自分なんかそんなものだったと思うことにした。

 

そうして2014年Romancrewは空中分解のようなかたちで活動を停止した。