傲慢で偽善的な自分を抱えたまま、自らを赦し

そして慈しむ。捉われることなく待つでもなく鎮火するその日までゆらりゆらりのたりかな


なんてな


人身事故があって色々考えた。

「迷惑」という言葉は

自分をコントロールできないほど追い詰められてしまったその人の背景に追い討ちを掛ける言葉だとわたしは思っていて。8割の人が「迷惑」と考える現実を、人それぞれ違うのだとそれとして許容する必要があるのだと頭ではわかっているのだけれど、やはり親しい人に言われて哀しみを感じている自分も拭い切れない。


己の中にある

“わかってほしい“という傲慢はどこまで続くのか。

そこにあるのは、どちらも生きているということ。

私の大切な居場所が
壊れてしまったと思ったの。

でも実際に壊れていたのは私で
その居場所を壊してしまったのも私。

居場所がなくなって
初めて気づいた。
あの場所に帰りたい。

私はある日いったの
帰るところがないって。
でもそれは、居場所があるから
いえたこと。

居場所がなくなって
初めて気づいた。
あの場所に帰りたい。

本当にあったのかな
居場所なんて。
最初からなかったんじゃないのかな。

でも確かに存在してたんだ。
一人じゃできなくて、
安心で満たされ輝いていた私。

少しのことで崩れてしまうんだ。
知っているから辛いんだ。
どうして なぜって

もう、あの場所はつくれない。
変わってしまったんだ。

新しい居場所はただの場所で
居心地が悪いんだ。

嘘に塗り固められた場所じゃなくて
本当の居場所を保つのは
凄く凄く難しい。

だから、守るんだ。
いつか出来た居場所がもうなくならないように。。。