二元に偏れば、世界は地獄の悪夢の繰り返しとなるが、
一元に偏れば、世界は永遠の内に滅するのみである。
一元と二元を越えた、超次元的な中庸というものがある。
そこにおいては、「現実は夢であり、夢は現実である」という
絶対的な矛盾が、理としても完全に整合することになる。
二元に偏れば、世界は地獄の悪夢の繰り返しとなるが、
一元に偏れば、世界は永遠の内に滅するのみである。
一元と二元を越えた、超次元的な中庸というものがある。
そこにおいては、「現実は夢であり、夢は現実である」という
絶対的な矛盾が、理としても完全に整合することになる。
この世界と人間の運命は、その大元を辿れば、
デミウルゴスによる展開と、創造主の介入によって流れていると言える。
巻かれたゼンマイが必ず元に戻るように、デミウルゴスによる造物は必ず無に帰する定めにある。
そのプロセスが即ち、一切の「苦」の体験となる。
そしてもし、この世界がデミウルゴスによる造物のみによるのであれば、この世界の獄苦は現状よりも遥かに過酷なものになっていただろう。人間の思考が、現実よりも遥かに恐ろしい世界を想像できるということが、その根拠である。
しかし現実は、想像し得る限りの獄苦を巡り続ける、というところまでには至っていない。
如何なる状態にあっても、その奥には必ず希望の光が灯っており、
その光に気づいた者は、時にそれを現実のものとする。
この希望の灯の起源は、デミウルゴスではない。
夢幻の其れとは真逆の性質を有する、あらゆる光を放射し続ける永遠の実在である。
その実在によって、世界は未だ世界と言える形を維持し、
人は未だ人と言える形を辛うじて維持しているのである。
そして今、世界の運命への、デミウルゴスと真の創造主の関わり方に、
大きな変化が起こっている。
気づいたのなら、逸早く、選択する方がよい。
※デミウルゴス…グノーシス派で「造者主」とされる存在。グノーシス派では、不完全なこの世と人間を造った存在は、完全な存在ではなく、デミウルゴスであると考えている。完全な存在を創造主と呼ぶなら、創造主とは反対にあらゆる不完全性を有する存在と言ってよいだろう。
この世界には、神の光が十分には届いていないが、
しかし、ある程度は届いている、とも言える。
言わば、神の、光と闇のグラデーションのようなものだ。
そして、神の存在を認識し、
そのことに感謝することで、
光を強めることもできる。
感謝というのは、単なる道徳論やべき論ではなく、
このグラデーションの世界の中で、
神の光を、より強く受けて生きていく上での、
1つのとても有効な方法とも言えるわけだ。
実際、神の存在を想起し、感謝すると、
強まった光に包まれる感覚がある。
この感覚に深く馴染んでいくことで、
人生に現れることが、大きく変わっていくだろう。
このグラデーションの世界の中で、
神と共に生きていく、1つの基本的な姿勢である。
精神的な虐待経験も、DNAに痕跡を残すらしい。
児童虐待、被害者に残る「分子の傷跡」 研究
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181003-00000013-jij_afp-sctch&p=1
「遺伝子をめぐってはかつて、受精時において既にプログラムが完了しているものと考えられていたが、現在では、環境要因や個人の人生経験によって活性化・非活性化される遺伝子も一部に存在することが知られてる。」
そうだったのか・・・DNAの存在を知ったときから、
精神的経験でも、強いものや蓄積されたものはDNAに変化をもたらすだろうと思ってたけど、
とっくにそのことが明らかにされていたんですね。
これは朗報ですね。
後天的に、精神的な至高体験をしていけば、それもDNAに痕跡を残すに違いないから。
至高体験はとても深い体験だし、蓄積することもできる。
これは、教育、医療など、幅広い分野に大きな可能性をもたらす鍵となる知識ですね。
手段という面でも、
音楽、瞑想、読書、散歩、太極拳…
可能性は計り知れません。
科学のテクノロジーより、精神や霊性のテクノロジー。
今の文明が優先して成長させるべきは、この方向です。
人は、神に完全性を求めるが、
神は、自らに完全性を求めない。
何故なら、神は完全だからである。
完全な存在に欠けているのは不完全性である。
故に不完全性は求められた。
相対世界では、神は不完全であるが故に、
人間にも、神と協働する機会が与えられる。
ここに、神の純粋な愛を見出すとき、
神の奇跡を共有する感動に包まれるとき、
全ては解(ほど)かれる。
神は、不完全性をも含んだ完全な存在なのである。
これは、真に完全な存在のみが為すこととなる、
意外にも素朴で、純粋な、愛そのものの御業である。